「組み合わせ」の考え

報道各社のまとめ

「まとめ」を報道各社もやりだしてきたが、これで「記事の投げ捨て」の時代は終わる。まとめ記事によって「一連の流れ」が記録として残る。これは個人のデータ保存でも整理をしやすくするわけで、「あの時はどういうことだったかな?」という疑問に対しての答えもパッと出せる。

自動車の登場でも最初は自動車を有難がったが、やがては自転車代わりに煙草ひと箱買うのにも車を使うようになった。

「まとめ」記事によって情報の効率化も進むわけだが、これで思い出したのがタイヤの独立化。タイヤ自体を動力化して多方面に使えるようにしようという発想。自動車が電動化するとタイヤにバッテリーをつけてタイヤ自体が勝手に動くことも可能になり、そうするとタイヤを購入するだけで自分で車を作ることができるようになる。

荷車などは駆動タイヤをひとつと補助タイヤの組み合わせで、山間部のあぜ道を通行できるようなミニトラックも自分で作れる。

このように「組み合わせ」の考えが主流になってくると情報の交換も頻繁になってくる。一種の発明の洪水で、思いもかけない発明と出遭うこともこの情報交換で生まれる。当然、この流れでは小さな鉄工所も復活する。コンビニもチェーン店の流れから独立型に変えて成功しているコンビニ店の実例もある。

ポイントは「創意工夫」。

既製品が自分の趣味に合わないなら自分で服を作ってしまおうとしたのが原宿ファッション。自分の趣味を誇るのであってブランドを誇るのではない。だから母親の時代の古着も活用する。費用が安くなるのなら何を使っても構わない。誇るのは自分の趣味性だ。

こういった考えは大量生産・大量消費という流れと逆の流れになるが、だからこそ今までの思考方法が通用しなくなる。「物は欲しい」という刺激から「自分で作る!」という思考の刺激に代わる。

「組み合わせ」の考えはタイヤが独立して可能になる考え。部品が部品以上の機能を備えだして可能な「組み合わせ」。が、製造においてもこの組み合わせによる新しい商品作りは人間的でもあるのだ。、人間が工場の部品でなくなり、人間の持つ色々なものを個人が考え出して組み合わせ、そして「どうだ!いいだろ、これ?」と市場に出してくる。

資金というのは流通して「生きた資金」と呼べる。社会の活性というのは資金も物も活発に動いて活性化した社会と呼ぶことができる。それが可能になるには「情報という市場」が不可欠。そしてそれが眼の前にある。

計画生産の製造主体から需要に応じた消費主体に変わり、そして消費自体も消費する個人が主導権を持つ社会に変わるのが情報社会。需給という強制力を伴った変化で実際にそうなってきた。

人工知能論者の基本的な誤りは、「市場」も「需給」も一元管理型社会を想定して論理が現実から乖離しだしている。情報市場が存在していない論理なのだ。人には感性というのがあり、その感性は「皆がそうするから私も!」でもあるし、「皆がそうするから私はしない!」も同じ感性。この「気まぐれ」を数値化できるということこそ頭が単純すぎる。コンピューターで小説は書ける。しかし、コンピューターが書いたということでその小説を忌避する・・・こういう感性も人には実際にあるのだ。

チェスで人工知能が人間を負かした・・・これを売り物にしたら誰も人工知能とのチェスをしなくなる。勝ち負けと面白さは別種の物だということに気が付いていない。「完全な美はありえない」のと同じだ。人には厳然としてそれぞれの「好み」が」確かにあるのだ。日本人では綺麗な形の焼き物を故意に歪ませて「織部焼」とした。

千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。


これなどは完全に後解釈。しかし人の嗜好にはこういうことが普通にある。人は単純であると同時に複雑・・・人の流れを読むのは簡単ではない。


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情報時代の中心は断片情報

技術の解説動画

YouTubeでは「何でこんなものに、こんな視聴回数が出るのだ?!」と人気が集まることも珍しくない。樹脂製アーチェリーの製作を若い女の子がやっているに過ぎない、という「過ぎない」ところに興味が集まっている。

これは情報を断片として捉える時代では、「断片として見せる」から視聴回数がうなぎ上りになる。これがドラマのような完結作品だと無惨な視聴回数になるはずだ。何が求められているかを素直に受け止める必要がある。同時に「断片情報」は誰にでも作ることができる。

上の画像では、筆者なら動画の部分をクリックすると動画が始まるという見せ方くらいはできる。動くものと静止画の組み合わせ。この組み合わせだと手順を覚えようとする側にとっては理解しやすい。あくまで「視聴する側」に立っての情報の作り方。

こういうことがFLASHでは簡単にできるから、10年前にくらいには当たり前に世間がデジタル情報一色になっていると筆者は思っていた。しかし、実際にはそうはなっていない。何故そうならないのか?

作り方が間違っていたためだ。

情報が大量に流通しだすと情報過疎とは違うことが起きる。昔、テレビが家庭に入ると家の中に映画館が出来たという驚きがあった。こうなるとテレビの中身はどうでもよくて、ただただ動いて、声が出て、歌が流れるだけで人々はテレビの前に釘付けになった。それを映画関係者はバカにしたが、バカにした方が負けていく。

これもテレビの捉え方を映画関係者は間違って捉えたため。視聴者は「作品」を「茶の間」では求めていなかったのである。作品の視聴は個人的な趣味性が強いので家族と一緒には観られるものではない。それを映画関係者は理解できなかった。何故理解できなかったのか?動画が映画館でしか観られない状況が続いていたためだ。

こういうことはパソコンでも起きている。コンピューターが企業や軍、政府で使われる道具として捉えられていると個人にコンピューターが普及するという発想が出てこない。コンピューターはより高度に技術革新を追及しているから個人には縁のないものとして捉えてしまう。

ここで欠けているのは「応用」という発想。この応用の発想で欠如しているのが「専門バカ」。自分が「追い求めている方向以外にも違う方向がある・・・これが頭に浮かばない。専門性は頭をガチガチにする性格があると心得るべき。

情報時代において「断片」という考え方が欠如していれば致命的に時代から取り残されていく。家電でもメーカーが追及するのは総合性であり、一体型。しかし生活が多様になってくると、押し着せの型では消費者の選択肢が限定されたものになって満足しなくなってくる。これで戦争になったのが松下電器とダイエーの戦い。

流通が覇権を握るか、製造が覇権を握るかの戦いであったが、決着がついたのは「選択肢の多様」を広げるダイエーの勝ち。これによってメーカー側は「標準価格」という価格変動を前提とした値段をつけるようになった。この流れが現在も続いている。

自分都合は市場では相手にされないのである。生き残ろうと思えば市場に合わせるしかない。その市場を現在作っているのがネット。ネットは超巨大な情報市場だ。その市場に参入するには否応なく情報発信技術や情報発信知識を持たねばならない。

これは前提である。この前提で学習したり、新しい技術や考え方を生み出していく。情報時代の捉え方はこれでしかない。そこから情報の「断片」という認識が必要になってくる。今までの情報過疎の時代とは違うのだ。



知識を作り、知識を発信する

2枠記事実験
2枠記事実験2

FLASHの守備範囲は相当に広いが、基本は「自分でソフトを作る」編集ソフト。FLASHの勉強本もFLASHで作ればいいのにと思う。筆者もちゃんと動作をするかの確認でスカイプ仲間に「.ex」ファイルを送って動作の確認をとっている。

YouTubeなどの動画はじっくりと読むには停止ボタンを押す必要があって面倒。「.ex」ファイルだと、コピーによる著作権侵害を心配して普及に足止めをする状態になるが、これはけっこう難しい問題で、難しい問題となるのは「使い勝手」に関わってくるため。

情報というのはコピーして価値が出てくる。音楽もコピー防止に熱心になると、その音楽が広がらなくなり、広がらなくなると音楽を聴くという習慣も薄れてしまう。本屋で立ち読み防止に熱心だと本屋に足を運ばなくなり、やがては読書の習慣もなくなっていく。

事業には儲かった時期を基準にすると自分の首を絞める結果を招きやすい。個人でも企業でも国家でも状況に適応できるところだけが生き残る。適応できなくなったものを淘汰する「自然淘汰」は間違いなくある。だから「現在の状況認識」が大事になってくる。「悪い」とか「善い」とかの問題ではない。状況次第で善いも悪いも吹っ飛んでしまうのが現実の動きなのだ。「地震や台風が悪い」と言っても仕方がないのと同じ。

「暴力が起きる理由」を探るために世界の映像を整理していっているのだが、実際に世界の映像を集めていくと日本の特殊性が鮮明になってくる。日本も暴力が日常的にあった時代を経験している。これが平和が続くと暴力が劇的に消えていく。暴力を黒い球として平和を白い球とする。平和の白い球が増えると暴力の黒い球は白い球が増えた分だけ目立つようになる。

この「目立つ」という現象は生物界でも「生存」と関わってある。無駄に攻撃されないために赤と黄色の目立った組み合わせの体色を持つ昆虫などは毒を持っているのが多い。「食ったら死ぬぞ!」という経験を長い時間をかけて周囲に教え、やがて敵となる生物に対して認知させていく。

これも「情報」であるから人間の場合は命を賭けてまでの認知は不要になる。が、それも情報の発信があってのことだ。

情報は「情報を作る」と「作った情報を広める」というのがセットになっている。教育などはこの典型。「学ぶ」ことは新たな情報を作り出す前段階であって、新たな情報を作り出さない場合は社会的に存在しないのと同じになる。仕事をやることは微妙に新たな知識を生んでいることに等しい。仕事場が何から何まで全部が同じ、ということはありえないからだ。

しかし情報の流通が個人に用意されていないときは「個人の持つ情報」が死蔵されたままその人が亡くなると消滅した。これが情報の保存というカメラなどの機器が出てきて情報は当人の生命と切り離されていく。これをさらに徹底しだしたのがコンピューター。

コピーはコピーした情報の上にさらに新たな情報を重ねるピラミッドの石みたいなものだ。その情報の重なりで社会は新たな次元を作り出していく。人類は模倣と模倣の改良などによる集積で現在の世界文明を築き上げている。

だから新たな情報や知識を拒絶する宗教の存在は、その社会を世界の流れから取り残されるように動いてしまう。共産主義のような言論統制も同じ。映像を集めていってそのことを視覚的に確認する思いになった。「百聞は一見に如かず」とよく言ったものだ。「まずは観なさい。そして考えなさい!」で済む話だと思う。映像で語らせた方が解りやすいし、説得力もある。

だから「映像で語る」ためにも表現技術や知識が必要になる。情報時代では、この優劣は大きな意味を持ってくるのではないかと思う。


情報の穴は自分で埋めるという姿勢

マスコミの弱点は全国を視野に入れての報道の性格上、地方情報に大きな穴が開くこと。米国も米国には二つの米国があると言われているが、それは報道される米国と報道されない米国が実際にあるため。このために米国大統領選の番狂わせが起きた。「報道されている米国」が全てと思い込んだ米国マスコミによる判断の狂いだ。

選挙は「報道されていない米国民」も投票権を持っている。報道されていない有権者はどういう基準や理由で投票所に向かうのか?

情報の穴は現実の選挙に反映されてくる。「穴」は必ず埋める方向に向かう。為替や株の相場ではこの穴を「窓」と呼ぶ。窓が出来たら時間を置いて窓を埋める動きが出るのも、窓の存在が上に向かう、あるいは下に向かう勢いを削ぐため。皆が窓を意識するから次の流れを作るために窓の意識を消さねばならない。だから窓を埋める。

情報も同じ。自然現象として情報の空白地帯は空白を埋める情報が流れ込もうとする。

ここでネット以前とネット以後の違いが出てくる。ネットの出現で情報の埋め方が格段に速くなるわけだが、誰がその情報の穴を埋めようとするのか?ネットに参加している何億の人々によってだ。これが可能になるのは情報を出すことに事実上、大きな壁が存在しないことによる。また情報を出したいと思う何億の人々に情報展示の場がSNSなどで次々と出てきた。

何億の人々が情報を出そうとする姿勢こそ情報の圧力であり、この圧力をせき止めるのは容易ではない。

九州大雨

情報の圧力を大雨による堤防決壊に例えようとして、今、その写真を引っぱり出してきた。時間にして数分。こういう作業のために自分用のデーターバンクを作っているし、また日々、データーの保管や形式を模索している最中。自分がどういうことを記述するかは自分で判っているから自分用のデーターバンクとして年・月のフォルダーを作ることにした。

年という大枠と月の中枠で9・11テロの映像も簡単に取り出せる。検索する時間を惜しんでの処理。

ブログを書くということにも思考の流れがある。それを中断させるような誤変換を誘うマイクロソフトの日本語変換ツールにも腹が立つし、検索する回数も思考の流れを中断させる。だから前もって自分の行為の分析をして、そこから自分用に向けた段取りを組む必要が出てくる。

思考も思考の構築を意識しなければ思考の積み重ねが出来ない。その意味でブログを書くことは自分の考えを視覚化させることでもあり、ある意味、日記だ。

しかし日記を思考の集積として捉えると必然的にデーター処理に向かいだす。データー処理をやりだすと、今度は他の人のデーター不足が気になってくる。「この人はこれを知らないのではないか?だから妙な結論になっている」と自分の頭の中で思うようになる。

これは技術の流れと全く同じだ。水道を家庭に引き込むにも手順があり、その手順が間違っている場合の多くはデーター、つまり知識不足から来ている。問題は「その手順は間違っている」と指摘するときに起きてくる。「間違っている」だけで正解の手順を即座に持ち出さなければ因縁をつけているのと同じ。

だから即座に説明できるデーターを用意しなければならない。素直な性格の人物なら「ああ、こうなっているのか・・、これ、貰っていいか?」となって喧嘩にはなりにくい。ここで喧嘩にすような人物は見限って当然の人物。「要注意人物」と心の中で「相手にしないリスト」に加えると後が簡単。このような人物は「何をしているか?」という自分の姿さえ捉えられないアホなのだ。アホは相手にするだけ時間の無駄。



黒船の本質は産業革命

繊維強化ゲル記事1
繊維強化ゲル記事2
繊維強化株書き込み1
繊維強化株書き込み2
繊維強化別記事1
繊維強化別記事2
繊維強化別記事3
繊維強化別記事4

「繊維強化ゲル」から、関連と思える「CNF」での記事までメモにして読むと5分もかからずに概略が解る。

このやり方は投資銘柄の分析記事と同じ手法で、そこに株板の声も併せてまとめると現況も把握できる。これを投資銘柄から選挙の候補者に変えるとどうなるか?選挙予想では色々な手法が使われているが、選挙予想の名手は元総理の竹下昇であったと言われている。候補予定者の選挙の結果に反映されることを点数化し、病気だとマイナス1とか、良い記事が出たらプラス2とかで足したり引いたりし、そこでの点数結果が見事に選挙の結果になったと言う。

先を読むということは、つまりは予想結果を先読みすることでもある。ここで希望や悲観などの感情的要素が入ってくると予想結果に狂いが出てくる。物事において「自分」は他の人から見れば材料に過ぎない。「良い材料」「悪い材料」の材料。その他大勢の材料でもある。この自分をも材料視するくらいの自分を突き放した視点を持ってようやく予想に精度が出てくる。

日本も「愛国」が過ぎると日本の先読みが出来なくなってしまう。現実は「良い材料」と「悪い材料」がせめぎ合って、そこに外的要因で良くなったり悪くなったりする。外的要因や内的要因も固定したものではない。眼の前の問題が基準になって内と外に要因が分かれてくる。内の場合は対処可能な要因、外の場合は対処のしようがない要因になる。

北朝鮮の核ミサイル問題は外的要因であって、外的要因であるのは核ミサイルを発射するかどうかの判断を北朝鮮がするからだ。内的要因では報復体制を作れるかどうかで、こちらは日本側で決めることができるから内的要因。

そして報復体制の構築が多数で支持されると、今度は「構築」に向けての外的要因と内的要因が出てくる。日本側に米国がミサイルを売らないというようなことが起きる。そうすると日本側は米国に代わるミサイル販売の相手を見つけねばならない。あるいは核に代わる、状況を決定的なものに変える新兵器の開発も「内的」要因だ。

こういう流れを筆者は「矢印」「方向性」としている。

方向性が決まってしまうと急な方向の変化はできなくなってくる。皆が「次の時代はインターネットだ」としていれば、インターネット関連の事業が次々と生まれてくる。明治維新も同じだったのである。「徳川幕府では黒船来襲に対処できない」という流れが幕末には出てきていた。実際、対処できないことを徳川幕府は次々と見せつけてきた。これについて一番よく見えていたのは当の徳川慶喜だ。家老から外国の襲来という難局に対処できる案を家老は出してこない。

「徳川の埋蔵金」の案を最初に出したのは井伊直弼。外国に占領されることを想定して膨大な「金」を隠すことを小栗上野介忠順らに命じているのだが、これは幕府が負けることを想定しているからに他ならない。何故、幕府が負けるのか?徳川幕府に諸藩が結集していない状況が起きていたためだ。

これが「幕府はダメだ」という方向性を作っていく。世界の革命史を見ていくとソ連革命でもイラン革命でも体制転覆の「流れ」が出来ている。この視点で筆者は現在の中国をも観ている。「中国共産党体制はもうダメだ」という流れが生まれているのかどうかの注視だ。ソ連崩壊では確かに「共産党体制はもう無理だ」と共産党内部からも出ていた。

日本も筆者は同じような視点で観ている。「情報革命」という黒船に日本の政治家は対処できているのかどうか?だ。

政治・行政が対処できていないのなら、自然発生的に勤王の浪士が各地から出てくる。ここでも「黒船とは何だ?」という敵の認識が始まっていた。「蒸気機関で船を動かしている」という事実に驚愕し、驚愕が終われば「日本も蒸気機関を作らねばならない!」ということで意見が一致してくる。それをするには「身分制の徳川体制では無理だ」という結論まであと一歩だ。

現在進行中の情報革命は「社会を変える」技術という認識が要る。実際、社会を変えていかねば情報の流れが止まってしまう。情報の流れが止まっているのに「情報時代」とするのには無理がある。無理だから「変わる」。



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