情報時代の教育



「教育無償化」の提唱を言うには「教育は何を教えるのか?」を最初に考える必要がある。これを考える場合、まず大人は自分の生活を頭に思い浮かべ、そこから自分個人の損得ではなく「社会にとって邪魔にならない人物を世に送り出す」教育とはどういうものか考える。でないと私費と公費の混乱が起きる。義務教育は社会に出てくる心構えと最低限の知識を教える場所だ。だから公費で賄う。

次に現在の情報化が進んだ社会を直視する必要がある。


ネットの物理

物理や化学は実験が面白い学科だが、この実験の動画はネット上では実に多く上げられている。しかもCGを使っての洗練された動画だ。もちろん学科ものだけではない。これは通商産業省サイトでのグラフ。

エネルギー輸入額

こういった情報が種類も合わせて山ほどあるのが現在のネット状況。

こういう状況では「どのように情報を使うか?」を生徒に教えないと社会の役に立たないし、役に立たない本人も気の毒な人生を送ってしまうし、社会も個人も損失になる。

「どのように情報を使うか?」を教える場合は義務教育内で終了できるものだ。同時に「どのように教えるか?」には実例を挙げての教育になるから義務教育後の進路での芽生えもこの期間内で出てくる。「音楽をやりたい」「絵を描きたい」「物を作りたい」「カネを儲けたい」と希望は多様になるはずで、そうなると義務教育後の時代に適合した教育形態が必要になってくる。

知識を覚えさすという教育がなくなれば時間は相当に余る。「昆虫の生態を観察したい」など小学校の年齢で「やりたいこと」が出てくるのだから、余裕ができた時間でそういう趣味の共通を持ったグループを作らせるといい。これはある意味、秀才教育のようなものだ。仲間が教え、自分もまた仲間に教える・・・先生は助言役。「鉄は早いうちに打て!」は真理である。早いうちに始めたほうがいい分野は実に多いからだ。

こういう教育が始まると学校も従来と大きく変わるしかない。小さい博士がいっぱい出てくると鋳型にはめる教育は才能を殺す教育でしかない。これでは本人も社会も損失になる。

教育については、まずこのことから考えるべき。義務教育で自分の方向性を見つけ、義務教育後さらに専門性を身につけていく。これで選挙権を得る18歳になる頃には堂々たる社会人としての眼識を備えた人物になることを請け負う。社会は一方で労働市場の世界でもあるから優れた専門家の需要は必ず出てくる。

旧来の教育観では異論がいっぱい出てくるのを承知しつつ、これを書いた。この教育で育った世代はどういうことをやりだすか?これも書いてみたい。






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消費・便利・そして、それを支える社会の政治とは?


筆者の政治観は簡潔で、「コンテンツを活かす枠作り」、つまり日本という国のOS設計としている。資本主義も社会主義も宗教も保守も革新も、全部をコンテンツとして考え、OSをl壊さない範囲で「勝手にやって!」という立場。

だからコンテンツが暴走してOS支配を企むなら断固として阻止する、というのが筆者の方針。

ウィンドウズでもアップルでもOSの考えは全部同じだ。ウィンドウズ国のOS、アップル国のOSという違いはあっても、中で動くアプリケーションはOSとぶつからないようにプログラムされている。ぶつかればアプリが欠陥となって十分に機能が発揮できない。

人気のあるアプリは使用者が増えるだけでOSとは関係がない。アップル国のOS、ウィンドウズ国のOSはネットと繋がるようになってネットが今度は独自の世界を作りだした。しかしネットの世界でもコンテンツが動きやすい共有のOSが生まれている。

こういった技術型の発展は「使用者の拡大」で決まるから「より便利」という競争になって、「世界を支配する」という考えを持った時点で使用者の拡大は止まってしまう。囲い込みの思想でどれだけ衰退した企業が出てきたか、産業の歴史を点検すれば解ってくる。

日本の場合はNECが圧倒的に有利であったが、富士通が自社のOSを諦めてウィンドウズOSに切り替えると、たちまちNECは追い込まれてしまった。この富士通のウインドウズOSに切り替えの時点で筆者はパソコンを始めた。理由は簡単で、ウインドウズの方がソフトの種類が圧倒的に多かったから。この理由に国家は関係がない。「利便」さだけが基準。

グローバルとかナショナリズムとかの捉え方も「消費視点」では「何を言ってるんだ、こいつら?」になってしまう。

冷戦でソビエト体制が崩壊した理由は視点の違いで色々と言われているが、「消費」という視点で見ると明瞭にソビエト体制は選択で劣る。資本家とか労働者とかは消費に関係がない。より多く選べる状態が消費者にとっては有難いのだ。この考え方はフォードにもあったし、松下幸之助にもあった。そもそも発明家は「便利さを求めて」発明をする。ローソクから電灯に変われば確かに便利さが格段に良くなるし、井戸から水道に変わればこれもまた便利さが格段に変わる。

社会の底流に「便利さを求める」巨大な水脈がある。これを無視してきたのが今までの政治であるが、情報がこの水脈の存在を教え広まるにしたがって社会は大変動を起こしてきた。

日本の政治でも「消費」という視点で社会を見る政治家がどれだけ居るか?おそらく皆無。この時点で政治は否応なく大きな変動が起きると予見できる。政治は「こうすれば社会はもっと便利になりますよ」という主張が必要だが、誰も、どの政党も主張しない。

「消費」は購入動機を伴うので費用対効果が付いて回る。国防でも「その兵器は購入費用に対してどれだけ防衛力効果があるか?」を考える頭がなければ、その人物に財布を握らせることはできない。この場合も消費の目的は「日本社会のOSを守る!」にある。国家によってOSの利便性が様々なので、わざわざ劣悪なOSを選ぶほうがおかしいから十分に機能しているOSを守るということになる。

ここで明確にしておきたいのは「思想」はコンテンツに過ぎないということだ。だから色々な思想があっても許されるが、ひとつのコンテンツがOSに取って代わればどうなるか?他のコンテンツがまともに動かなくなってしまう。

その意味で日本社会は気が付かないうちに技術主導の社会になっている。技術は主張せずにただ「便利さ」から拡大していくので技術主導という意識が働かないだけ。しかし、誰かがそれを指摘すると「なるほど・・」と思う人は圧倒的に多いはずだ。当然であって我々の生活は全て技術によって囲まれているためだ。

この現実を改めて見直し、その上で政治や社会をもう一度考え直そう、といういうのが筆者の主張。その見直しで「消費」やOSという言葉を持ち出した。「便利さ」もそのひとつ。

水道が各家庭に引かれると生活は急変する。電話が各家庭に備わるとこれまた生活が大きく変わる。自動車が日用品みたいになると自動車社会と言われるようになる。・・・・そして次に「情報」が来たのである。「情報」はどのように社会を変えるか?これが現在の重大な「誰もが考えねばならない」課題だ。生活に直結する変動が次々と起きるから否応なく考えるしかない。


情報は料理と同じ。

ツイートアクティビティ

ツイッターをやっているとこういうデーターも見ることができる。筆者は弱小なので最高インプレッションは6万件くらいだが、それでも「どういうツイート」で大きな反応があったかは実例が出るので確認しやすい。で、世間の関心がどういう方向に向かっているかもある程度は先読みできる。

これを知るためにツイッターをやっているところもある。まぁ・・分析好きということで(笑)。

ネット情報獲得では量的に暇人は有利(苦笑)。で、「量」は日にちが経てば経つほど関連情報も増えるので関連情報を並べていくと記事では見えない思惑が浮かび上がってくる。どの国でも情報部があるのは「量」と「時間」で相手国の本当の狙いを分析しやすいからで、分析を持続的にする必要があるから公機関が設立される。もちろんこの分析の仕方は個人でも企業でも効果がある。

個人の場合は、だから自分用のデーターバンクを持つのは分析する上で必須。筆者の場合は専門など持たないし、また持たないが故に専門の陥りやすい狭い視野から抜け出やすい。つまり専門がないということが筆者の武器。それでも個人としての指向性があるので何でもかんでもネットで情報を集めるというわけでもない。

AKBが出だした頃はAKBの戦略が興味を惹いたのでこれに注目し、戦略の核になっている秋元康に注目した。秋元康の考え方のパターンが見えてくると次に何をやってくるか?も予見できるし、予見が外れたら向こうは現場に立っているから色々な情報が入ってくるんだなと感心もするし、また、このアイディアは古臭くて陳腐だなと思うこともある。で、陳腐だなと思った件は実際にもヒットしない。ヒットしなければ筆者の感じ方が世間の感じ方に近いと、ちょっと嬉しい(笑)。

YouTubeに関しては世界の動向を見るのに適している。千万単位の視聴を獲得しているコンテンツは確かに面白い。

ここで面白さと目新しさはほとんどイコールになっていることに気が付く。承知していることを見せられても面白くとも何ともない。これは陳腐に繋がってくる。ヒット数が多いコンテンツには必ず模倣が出てきて、模倣が乱立するとその分野自体が陳腐化していく。この場合、世間が情報を消化したことを意味する。

情報は料理と似ている。消化をすれば次の料理を求めることになり、同じ料理なら「もう、結構!」ということになる。しかし、料理の種類はもの凄くあるし、同じ料理でも作る人の技量で美味くもまずくもなる。だから料理はほぼ永遠に続くことができるのだが、情報も全く同じ。

情報化社会というのはバイキング料理の社会なのだ。自分の好きな料理を必要分それぞれの皿から取ってから自分の座席に戻って口に入れる。情報も同じ。ネットという場には無限の情報が並べられている。これと体系的知識の相違を比べるとイメージしやすい。体系的知識は専門料理店に該当する。寿司屋やフランス料理、ラーメン店がそれだ。もちろん、ネットにはこういう店も無限と言っていいほど存在する。その状態で自分が欲しい、食べたい料理を日々選んで生活するのが今の時代。

だから最初に認識すべきはそういう状態が現に今ある世界だということ。そして俯瞰するようにこの状態を見ると全体としては正(まさ)しくバイキング料理の世界だということが見えてくる。

ここから「自分に必要な情報」を求めるという自覚の必要性が出てくる。でないといつまで経っても料理の洪水の前で立ち止まっていることになりかねない。で、「自分が求めている情報は?」と料理を探し出すと、これが実は中々見つけられない。「一番欲しい情報がない!」ということにやがて気が付く。これは料理人に問題がある。情報を出す側に問題がある。

本当に切実に必要な情報は極めて具体的な情報であって、こういう具体的な情報は情報を出す専業者側には追い付けられない情報なのだ。人にも会社にも限界がある。この限界を突破するには専業という枠を崩さねばいつまで経っても使い道のない情報ばかりが並べられていることになりかねない。

その意味で情報の専業者側は情報の店舗を作るという発想が要る。情報を世間からどのようにすれば集めることができるか?という工夫を凝らした店舗でないと集客はできない。

情報の世界は広く大きいと見えて実は案外と粗い世界なのだ。以前にも書いたと思うが、店舗の本当の大きさは品ぞろえの数で決まる。大規模の店で品ぞろえが100種類に対して、小規模でも品ぞろえが1000種類ある店では、小さい店の方が実質は大きい店より10倍利便性があるということ。見落としがちだが指摘しておきたい。



長い思考もやらないと・・(苦笑)。



社会の生存が脅かされる状況に直面して否応なく人は「社会」というものを真面目に考えるようになるが、それが手遅れかどうかはまだ判断できない。が、判断のための材料はいくらでもある。しかも情報時代に入っているのでかっては一部の者にしか入手できなかった情報も、今は国民全部が眼にすることができる。

こういう状況が出来ているのは施政者の方針でも計画でもなく、必要性、あるいは需給という社会の営みから生まれているもの。この事実認識は重要。

「知りたい」という需要の強さは人間の生存本能であって、「知る」ことによって自分の行動も決まってくる。行動を決めるから知ろうとする。この「知る範囲」が広がって社会にまで及ぶと今度は「知恵」の出番だ。「情報」→「知恵」という順序によって人の行動が生まれるので、「知恵」がなければ情報を得ても動くことが出来ない。しかし「知ることの恵み」という熟語はいい言葉だ(笑)。

「民主主義」の理念、「民が中心」は実際問題として「衆知」に行き着くので周知になりえる環境がなければ空念仏に過ぎない。その空念仏になってしまう環境を大きく変えたのがインターネット。「いつでも、どこでも」誰かが発案した知恵が「誰にでも届く環境が出来上がって情報時代に入っていく。つまり情報時代というのは衆知社会のこと。この周知社会が需給という自然現象のような力で生まれてきた事は見逃すべきでない。

人類の発展段階と「情報の流通」はほぼイコールと言って良く、原始社会では村落でしか情報が流通しないから「知恵」もまたその範囲にとどまり、やがて村落同士での交流が始まると情報もその分だけ倍増して「知恵の流通」も倍増する。

この「知恵」の中には軍事技術や組織運営も入っているので、その意味を早く察知し、理解できた者が権力を握って大きな集団を作り出す。この総体が国家であり、文明でもある。「知恵の流通」範囲で国が決まり、文明が決まる。ここで「情報」と「知恵」の区分けが必要になってくる。

「情報」は現象で、「知恵」は「現象の分析」と捉えたほうが理解しやすい。

鉄砲が日本に入って来た・・・これが「情報」で、「鉄砲の使い方」、「何に使うか?」という方法は「知恵」に「流通」が伴って「知恵の情報」と膨らんでくる。戦いに勝つことで施政のトップに立った者にとっては「知恵の流通」は自分の立ち位置を脅かすものであるから「知恵の流通」だけは避けようとする。これが「言論統制」の動機。

しかし情報の流通がなければ社会は停滞するので情報の流通をやがて認めるようになる。情報の流通を止めるのが一番だが社会は色々な地域に存在しているので、情報を遮断した社会は武器を含めた色々なところで「知恵」の流通もなく、社会発展を続ける進んだ社会に戦えば負ける。こういう形で人類は社会の淘汰をやって来た。

その意味で「宗教」は原始社会の啓蒙の役割を担ってきたが、この啓蒙は「考えない人」を作り出す啓蒙でもあった。「信者」という言葉自体は自分の生き方でもあるので悪い事ではない。問題は「何を信じるか?」の「何」にある。多くは教義よりも「人」を神聖化して問題を深刻化していく。教義の場合は解釈という思考があるので、これで解釈の違いから宗教も共産主義などの思想も次々と分派を生んでいく。

そうすると「教義」自体が問題を生む主因になっている。これに対して「技術」という考え方には「教義」はない。教えるのは作り方だけだ。人に依存するのではなく「観察」に依存する。これによって技術は中立性の性格を持ち、この全体を「科学」とする。

ここで「知恵の流通」に戻る。知恵が流通に乗ると知恵自体は個人が生み出した考えであっても「流通」という場で個人が消える。「鉄砲の作り方」に個人依存はない。その作り方を知れば誰でも鉄砲を作れる。科学はそういう中立性があるから世界中に広く行き渡っていく。共産主義であろうが資本主義であろうが科学の進展がなければ支配力で負けるから科学者を大事にする。

が・・・科学者が大事なのではない。科学者という個人が生み出す「知恵」が大事であって、個人は流通しないが知恵は流通する。これを無制限に流通させないために「知的財産の保護」という規制が出てくる。がこの規制は最初から矛盾だらけの論理なのだ。

「知的財産」の財産部分が無断使用で成り立っているためだ。99%の無断使用に自分の1%を付け加えて「これは俺のものだ!」と主張するのが「知的財産」で、それを法的に支えるのが「特許」などの立法。しかし立法が通用するのは主権が及ぶ地域、あるいは社会だけであり、主権が及ばなければ「知的財産」は存在しない。この事実認識は社会を考える上で実際問題として曖昧にはできない。曖昧さが紛争を呼び込んでくる。

考えるべきは「社会の在り方」にあって、「社会の在り方」から知的財産権も含めた社会のルールを作り上げる必要がある。そして、「作り上げる」ことを可能にするのがインターネットという情報技術。衆知技術だ。事例を爆発的に流通させて、圧倒的な事例数から共通点を見出していく・・・この整理を情報時代ではやっていくことになる。


 

経済合理主義とビジネスの食い違い

特許出願
特許出願3

発明=特許・・・ということで特許申請の実態調査を行政サイトで調べて出てきたのが冒頭のグラフ。興味深いのは「特許出願の積極性」で大企業と中小企業では大きな開きがあること。

「特許出願を最小限にして技術流出を防ぐ」も興味深いデーターになっている。

「知的財産の保護」が特許制度の趣旨であるのだが、実際の現場では「秘密は自分で保護する」という風潮も出るようになってきた。これは製品の技術が複合的になっているために一つの特許だけでは独自技術と言えない状況がある。料理で言えば料理の作り方は教えるが「味」は教えない・・・競争に勝てる「味」はほんのわずかな手加減、工程であることと、「ほんのわずかな違い」こそ競争優位に立てる勝負どころと考えているのが判る。

上段に振りかぶった論理は、実際の商売では新奇性を失うと骨格にはなっても競争優位の中心にはならない。スーパーやコンビニの流通理論が効果を発揮するのは、他が流通理論を持たないで商売をしている状況があっての話。流通理論が社会に行き渡ってしまうと、勝負どころの「味」を独自で発見・開発するしかない。

「料理」という分野は人間心理の奥深さを表す分野で、例えに持ってくると説明しやすい。経済合理性が利かないのだ。

「日本のラーメンを食べたいために高額の飛行機代を払ってでも日本に行く」ということが実際に起きる。こうなれば一杯のラーメン題は30万円くらいになってしまう。では30万円の値段でラーメン屋は商売ができるかと言えば、もちろん商売にはならない。そういう値段の設定をすれば値段が高いだけではなく、ラーメン屋の強欲さ、横着さに嫌気がさして「味」の魅力も消えてしまう。これが心理。

ラーメンの値段も複合的に設定されていることになる。経済合理主義では商売で勝てない。

アイデアはビジネス世界では非常に重要な事項の一つだが、が、現実にビジネスになるにはそのアイデアを実現させるために様々な小さなアイデアが必要になってくる。この集合体によって一つのアイデアがビジネスになる。これを案外と世間は周知されていない。こういうことは実際に自分が働いている会社を観察し、分析すれば解ることなのに眼が自分の会社よりも他に向かう。

が・・・これも人間心理。「他人の家の芝生は青く見える」という、昔から言われ続けた人の心理に過ぎない。手品の基本も人の心理の裏をどのようにかくか?だ。相場では「人の行く裏道、花の山」となっている。

発明・発見がビジネスになるには複合的な組み合わせが必要になり、その組み合わせこそ「本当の商売になる発明」。が、これが判るには自分が本当に商売をするつもりでシミレーションを描いて判ってくる。思い付きの頭だけでは無理だ。だからシミレーションするために「考える」。学習とは全く性格が違う。

が、多くは学習とビジネスを直結したものと考えている。これは部品の考え方で、代替可能な部品を目指しているとしか言えない。「君の代わりはいくらでも居るから」の部品。こういう方向は筆者なら怖くて目指そうとは思わない。

冒頭のグラフをじっくりと観て、「積極的に特許出願を行わない」ことの意味を考えるべき。それで現実の状況とか、実際のビジネスとか、人の心理とビジネスの関係とか、ま・・・頭に色々なことが浮かんでくる。色々なことが浮かんでこないとすれば部品になりきった自分だ、と悟った方がいい。悟って、そこからが出発点になる。




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