暮らしやすい社会とは?

米国とアイルランド人

学習偏重・・・教科書信仰と言ってもよいが、この重大な欠陥は教科書に嘘が書かれていても疑わずに信じ込むところだ。検証作業をしないのである。そしてテスト教育は教科書を丸暗記したものが勝ちであり、勝ち組として社会の枢要な地位についてしまう。それによってさらに教科書信仰が強まって、やがては社会をひとつの宗教団体にしてしまう。

検証作業をしない、させない社会は全体主義国家に観られる特徴だが、基になるのは教科書信仰、つまり教条主義によってだ。逆に言えば検証を認めない教科書信仰はやがて全体主義に向かうということでもある。

全体主義批判は誰でもやるが、なぜ全体主義になるのか?は誰も口にしない。テスト教育に慣らされて「検証」の頭がないからである。しかし検証していないと社会の歪みに気がつかないだけでなく、歪みの弊害が確実に出てくる。その弊害で漠然と「おかしいのではないか?」と人々は思い出すようになる。そして、いつからか「王様は裸だ」と言い出すのだ。

ちょっとマンション傾きの最近の出来事と似ている。

冒頭の画図は米国が本来は反英国家であることを示すために用いた。実際、第二次大戦で米国は英国の利権をまるまる奪い取っている。チャーチルはこれに怒り心頭であったが、ドイツとの戦争で劣勢に陥っていたために怒りを押さえて米国に媚びた。しかし、戦争が終るとものの見事に英国の覇権は米国に取って代わられていたのだ。

こういう欧米事情を日本人は余り知らなかった。アイルランドのジャガイモ飢饉と米国発展の関連を多くの日本人は知らないと思える。ここにユダヤ人勢力が加わってくる。

ユダヤ人勢力を考えるとき、解りやすいのは三井・三菱などの財閥の動き方を連想することだ。財閥を連想するのはユダヤ人が経済を重きに置く集団だからである。経済の動き方と政治の動き方は違うのだ。政治の動きは社会に重点を置くが、そのために地域主義の側面がある。

一方、経済はカネ儲けの活動なので簡単に国境を越えてしまう。経済は市場が拡大すればするほど儲けのチャンスを広げるのでグローバル指向になっていく。儲けのチャンスを広げることが経済の目的だから社会のあり方など、どうでもいい。経済中心だとそういうことが起きる。

経済は政治を利用するが政治は経済を利用しにくい。経済は行政に組み込みにくいから号令を発しても経済の拡大は見込めない。当然の話で、経済は需給という自然法則に従っているからだ。だから経済を拡大するには行政に組み込むのと反対のことをしなければならない。中国は経済を行政から外したので大躍進を遂げた。

米国の発展の仕方も同じだ。英国の歴史家が「米国は放置主義だ」と語っているが、これは米国が経済中心に動いてきた国家であることを指している。米国に本来はイデオロギーなどない。欲するのは市場の拡大だけだ。そして現実にグローバル市場を獲得して目的を達した。

TPPでも同じだが、米国と対するときは経済視点を持たないと意見がかみ合わない。米国は経済主導国家なのである。坂本龍馬が商社を作ろうとしたのは実に慧眼だと思わざるを得ない。徳川幕府は政治国家だから経済主導にしないと欧米の植民地になってしまうという考えもあったと思える。

筆者も市場主義の考えだが、この善し悪しも考えている。

人間社会と経済ではどちらが優先するか?という問題で、筆者は社会に重点を置くようになった。重要なのは人々の暮らしであって、経済はその派生に過ぎないという認識がある。だから暮らしやすくするために経済を拡大するなら構わないが、経済が拡大することで人々の生活が逼迫するなら経済の拡大を抑制しなければならない。

経済の拡大を止めて人々の生活は暮らしやすくなるのか?という疑問は当然ある。

これに関連して「技術」の問題が出てくる。技術の目的は生活の改善であって、技術の商品化とは直接の関係がない。社会のシステム化に技術は必要だが、社会のシステム化は商品ではないのである。国家はそこに住む人の「場」なのであり、場を快適に暮らしやすくさせるためにシステム化を進めていく。

社会は絶え間なく変わっていくが、変わりながらも調和を図ろうとする。この調和のところで政治と経済がせめぎあっている。米国の出身民族構成を見ると意外にもドイツ系が一番多い。にもかかわらず米国はドイツと戦ったのである。日系米国人も欧州戦線で戦っていたが、こうなると「民族戦争だ!」と叫んでいたのはヒトラーの思い込みに過ぎないと思えてくる。ドイツ系米国人はどのような思いでドイツと戦っていたのか?これが気になって仕方がない。

結局、人は民族よりも自分の暮らしを守ろうして戦うのか?そのように観える。ドイツで暮らすよりも米国で暮らす方が快適だと思っていたのか?そう感じてしまう。

イデオロギーも突き詰めて考えていくと暮らしやすさの方法論だ。ではどのような社会が暮らしやすい社会なのか?

我々は真面目にこのことを考えるべきだろう。
スポンサーサイト

新しい社会の幕開け

シェール企業破綻

「資源バブルは終ったのか?」という疑問がある。資源も需給の法則どおりに供給過剰になれば価格は下がるが、供給過剰にも供給が溢れ過ぎたのと需要が減少したための2種類があって、資源バブルが破裂したのはどうやら2種類が同時に進行しているふしがある。これではロックフェラー財団も化石燃料から撤退するのは当然だ。

経済はともかく社会的に考えねばならないのは「需要の減少が何故起きたのか?」の方だ。これとコンピュータ化社会は密接に関係がある。コンピュータ化が進むと無駄を省いて効率化が進むので無駄の需要がどんどんとなくなっていくことだ。これで需要が減少していく。

別な番組では古紙の供給がどんどんと少なくなって、今では従来受け取らなかった紙袋まで受け入れ、それでも倉庫の在庫は3日間で綱渡り経営をしていると古紙問屋の経営者が嘆いていた。以前から言われていた紙資料がデジタル化していくということは実際に起きだしたのだ。そういう分析を古紙問屋の経営者もしている。

これを別な側面で見ると、コンピューターによって社会の各部門が結びついてシステム化していくことでもある。日本のナンバー制もこの一環で、行政の連結のために必須の処置だ。システム化は運営上、どうしても透明化させる必要があり、当然、無駄も発見されて行政の効率もよくなる。利便性が増すと同時に行政コストも大幅に削減されるわけだが、削減されて困るのは公務員だから猛反対の策謀をメディアを通してやっている。しかし行政コストが安くなれば税金も安くなる。裏金も作れない庶民としては歓迎するところだ。

一方で鉄道や車が登場すると人力車の車夫が失業するのは避けられない。車夫は失業を見越して鉄道や車の運転手になる勉強を始めるしかないが、社会が動くとはそういうことなのである。この辺り、さすがにロックフェラー財団もよく理解している。

しかし資本は投資先を探して新たな投資をするのが仕事である。では次の投資先は何であるのか?この予見は大事だ。

巨額の投資をするには社会が変わってもらわないと困る。スクラップ&ビルドこそ巨額の投資ができるチャンスになる。かっては戦争がそのチャンスであったが、「金持ち喧嘩せず」で先進国同士は戦争をやりあう気配が全くない。また世界がグローバル化して企業活動の方がリスクも少ない儲けにつながる。この企業活動と情報社会への変転もこれまた密接に繋がっている。

ここで企業活動の中身だが、工場自体がシステム管理などでデジタル化していき資源を必要最小限に抑える方向に向っている。資源の争奪戦が意味をなさなくなる方向に世界は向かいだしている。少なくとも今まで必要であった資源の需要が、製造の効率化が進めば進むほど資源需要が後退していく。

そうすると投資の行き場がどんどんと狭くなってカネが余りだす。効率化というのは安い費用で製造工場や製造機械が代替していくことでもあるから、カネの需要も少なくっていくのだ。これでカネが余ってくる。カネが余っているからゼロ金利みたいなことまで起きだした。一部では貯金すれば預かり料をとられるところまで出てきている。

カネにも需給の法則が働くのだ。

筆者はこういうことも数年前からブログで指摘していた。次の社会はカネのかからない社会になるという予言だ。これはインターネットビジネスの実態から予見できたことなのである。コンピュータは無駄を省くために、今まで無駄であったコストが消えてしまうのだ。ひょっとしたら投資バブルさえ終りつつあるのかもしれない。

日本は国内と海外にふたつの日本を持っている。日本の実態は実は倍なのである。海外で日本企業は相当にカネを溜め込んでいる。しかしカネが供給過剰になったらどうなるのだろうか?このイメージを筆者はまだ確立していない。ただ、言えることはやがて投資先を探して、カネを溜め込んだ企業は血眼で投資先を探そうとすることだ。

これも実は例があるのだ。グーグルなどのIT企業の例だ。

若輩者が「こういうことができます」と言ったとたん、資金がドカッと発言した若者に流れ込んでくる。だから、とんでもない金額のカネを渡されて、とんでもないことを若者は始めだす。しかも、とんでもないことがとんでもない巨利を生むのである。こういうことは西部開拓で石油を探し回った体験のある米国は強い。一攫千金が夢ではない体験を持った国なのだ。

こういう資金があり余った状態ではちょこまことしたプランは役に立たない。奇想天外な風呂敷を広げた夢こそ資金が飛びついてくる。カネが余るということはそういうことなのだ。

これに気がついたのは実はAKBを観察してなのである。モデルは小さいが、業界の中でのAKBは巨人になっている。秋元が風呂敷を広げるとリスクを恐れない資金が入り込んで、逆に旧来型のソニーはAKBから一時は撤退してしまった。誇大妄想はギャンブルに近いので旧来型の考えでは危なく見えたのだ。

しかし資金が潤沢だと新しい事業は旧来型の事業を資金力でひねり潰してしまう。

では「何が新しい事業なのか?」、これを考えないと次の時代が見えない。これについては筆者も数年にわたって考えてきた。おいおい、書いていくつもりである。

キャラクター

真面目に生きていると接する人のタイプは偏ってくるものだが、筆者は縦にも横にも振幅が大きかったので、商社員からカイジに出てくるような飯場の人まで呆れるほどに様々な人と接してきた。有名アダルトビデオの会社まで顔を出している。

この体験から人は職場の顔でもあると気づくわけだが、一方で職種に関係なく人は同じだなぁという感慨もある。ついでに付け加えるとソープも軽く300回は行った。政治運動もやったし、ガールハントも数知れないほどやっている。一種の体験主義者だから具体性を大事にするわけで、漫画家ではないが有名出版社の大賞など、描いた漫画も全部賞を取った。これは世間で通用するかという他流試合をやったようなものだ。

他流試合で賞などを取ると「根拠なき自信」から抜け出して、我流ではあるが読ませる力はあると勝手に思い込む。そういう思い込みがこのブログの文章でも自然と出てくる。読者や相手などの顔色を窺わない。「嫌なら見るな」というアレであるが、これを言ったフジテレビの会長などを批判しているから勝手なものだ。

もっとも、組織を代表する言葉と個人の仕事は性質が違うので批判は正当なものだ。テレビ局は国の認可を受けた公共の組織であるから、個人仕事と混同した言葉を吐くのは見識で劣る。仲間内のヒソヒソ話ならともかく、公に向って吐く言葉ではないのだ。「誰のカネで高給を取っているのだ?」という話だ。

キャラクタービジネスのサンリオは、あれは凄いと感心する。普通、キャラクターというのはストーリーから派生するものだがキティちゃんは違っていた。イラストだけで勝負をして世界的なキャラクターとなった。以降、次々と類似のキャラクターが出てくるわけだが、キャラが一般的な概念として定着すると実際の人間にもキャラを当てはめるようになった。

ここで「キャラは作るもの」という誤解が生まれてくる。

結論を先に言うと、キャラは本来持っている個性を誇張したものである。誇張だからどのように見られるかを意識して、本来の自分を大げさに表現する。これが周囲に理解されると「自分を演出してるからなぁ」と苦笑交じりで受け止めるようになる。陰気なキャラも演出だと解ると陰気さが陽気さになってしまう。要するに周囲は自己演出の努力を認めるのだ。

この自己演出はけっこう効果がある。筆者もあらゆる職場を転々としてきたが、どの職場でも職場のプロみたいな扱いを受けた。一種の詐欺的素質だ。

職場のプロはプロらしい自信がみなぎっているので、その自信を模倣するだけでプロの顔や態度になれる。詰めていくとボロが出てくるのだが、短い期間なら通用する。詐欺師はそれが本業なので「らしさ」の演出は巧みだ。服装から始まって表情や態度をプロに似せてくる。ポイントは喋らないことだ。喋らないで「なるほど」と頷くだけでいい。

人というのはたいてい見られていることを意識しているので、自分の言葉に感心してくれる相手には気持ちが和らぐ。これはヤクザのような強持(こわも)て商売でも同じだ。互いにプロ同士として接しているから「凄いですねぇ」と言わずに「凄いな」と言う。この言葉使いで相手は自分と同格と観る。

次にばれたときは「いや、素人だと思われるとなめてくるからねぇ」と言えば「そりゃそうだな」と同情心を引き出せるので相手は怒らない。ついでに苦労話をすると「いい奴だな」と思ってくれる。ヤクザでも商社でも同じなのだ。

人間というのは共通している部分がある。

「何がどのように共通しているか?」、これを探ることは生きていく上で重要だ。職業で培った部分は個性の土台に乗った部分であって、感情が生まれるのはその人物の本来の個性にある。学者が偉そうなことを言っても土台の個性が鼻持ちならないと「何だ、こいつは?」と悪感情をもたれてしまう。知識の有無とは関係がないところで自分の評価をされてしまう。これを案外と人は認識していない。

筆者はテレビ番組を観だして「初耳」の林先生に好感を持ったが、この感情は林先生の知識の量ではなく土台にある個性から生まれたものだ。なかなか素直な性格で、面白がらせようとするサービス精神がいい。

サービス精神は社交などの人間関係を維持する上で大事な姿勢だが、これは八方美人を指すのではない。八方美人が嫌われるのはその性格上、人を騙す部分が出てくるからで、「こいつの言うことは信用ならない」と思わせてしまう。逆に非社交的に怒った顔をしていても、誠実さが垣間見えると周囲から好かれるものだ。誠実さが垣間見えるのもサービス精神によってだ。相手をちゃんと観ている。ちゃんと観て、相手の状態を察して心配りをさりげなくする。

八方美人は相手を観ているようで実は何も観ていない。逆に観られることばかりに関心がいっている。これは政治家でもある。評判をとろうとしてやれもしないことを平気で口にする。しかし、結果で「あいつは信用ならない」とか「あの政党は信用できない」という気持ちを有権者に抱かせる。

本当の真面目さとは物事に対する姿勢であって、口先のものではない。そして、これは「信用」とかかわってくる誠実さと直結するものなのだ。真面目な姿勢であるなら小細工は無用だ。小細工なしで誰からも好感を持って受け入れられる。

書き始めからだんだんと横道に逸れるのが筆者の癖なのだが、これも筆者のキャラなので了承されたい。

役に立つ考えの評価

「サミットを翌日に控え、民間機関や個人、地方自治体などによる連合はこの日ニューヨークで、化石燃料に対する計500億ドル(約5兆4000億円)以上の投資撤退を宣言した。この連合には資産規模8億4000万ドル(約900億円)のロックフェラー兄弟財団(Rockefeller Brothers Fund)も含まれており今後、化石燃料との関わりを可能な限り減らし、また環境に最も有害なエネルギー源とされる石炭灰と油砂(オイルサンド)へのすべての投資を止めると発表した。」
2014年09月23日 14:37 発信地:ニューヨーク/米国
http://www.afpbb.com/articles/-/3026745

このニュースを眼にしてから筆者は石油から撤退の理由を色々と考えていた。一方、石油の値段は1バレル20ドルの予想もされている。また実用性の伴った電気自動車の発表も色々なところから出ている。電気自動車の問題点であるバッテリー、あるいは水素やマグネシウムの燃料電池も現実的な実用性を確保しつつある。

燃料において石油が絶対的なものでなくなりつあるわけで、石油を代替する天然ガスや太陽光はもちろん、有機性破棄物を原料とするガスプラントの実験もかなり進んできている。これらから考えられるのは家庭や工場での電力化だ。その電力供給も電力会社依存体制が崩れてくる。各家庭で自分で電力を作り、使用するという光景が見えてくる。

原発反対を政治運動にしているが、社会の構造が原発を無用にしつつある。こうなると電力会社が末期の徳川幕府の役人に見えてくる。時代の変転で無用になる産業も出てくるが、電気会社も将来はない。

ここで社会の「癌」が出てくる。癌というのはその存在が悪なので摘出する手術が行われるのだが、摘出するために「社会の癌はどれだ?」という声が必ず出てくる。

この場合、癌化した産業、全て独占形態の産業であるが、独占させている政治家も癌として摘出するべき存在なのだ。社会の合理性、整合性を全く考えずに利権だけで結託するから「社会の癌」になっている。

この「社会の癌」探しは癌認定の基準が大まかに見えてくるので色々な社会に存在する該当する人物も多い。社会全体を考えずに権力にしがみつき、しがみつきたいためにあらゆる策謀をやってくる。

しかし、「癌認定」の基準ができてくると政治家も行政も企業も正常に戻るしかないのである。報道をかたる偽者も癌化したマスコミ企業だ。マスコミの社員は内部改革で正常な報道をしないと間違いなく潰れてしまう。まがい物はまがい物と知れた段階で誰も相手にしなくなるからだ。

実は番組を観ていると、すでに放送現場では真っ当な理屈や価値観が垣間見えるのだ。例えば司会者が東大卒などの芸能人を無意味にありがたがる風潮は消えた。聞くに値する言葉を吐いているかどうかの判断をしているから、学歴は関係がなくなっている。学歴に関係なく賢い奴は賢い、という風潮なのだ。その意味では官庁や大企業ほど時代から取り残されている。

人物評価の基準が変わったのだ。「何ができるか?」が問題であって、役に立つことができるなら学歴はどうでもいいのである。実際、東大卒でノーベル賞をとった学者は比率を考えるとかなり少ない。大学の序列と実際の社会の実用性はあまり関係はないことが解る。実際、インスタントラーメンを発明したのは誰だ?と考えれば筆者の言っている意味が解るはずだ。独創的な考えこそ社会的には価値があるのだ。

芸能界の場合は「人気」が全てだ。いや、政治家でも選挙に勝つためには人気がないとどうにもならない。芸能界の人気と政治家の人気は中身が違うが、共通するのは人々の共感である。この共感は社会の質と直接、関わってくる。時代が変われば人気の中身も変わるのだ。

そして時代は変わろうとしている。「黒い猫も白い猫もネズミを獲る猫はいい猫だ」と誰かが言っていたが、これは実用性のある者こそ、有能だと言っていることに他ならない。

時代は実用性に向っているのだ。役にも立たない言説を有り難がる時代は終ったのだ。「役に立つ考え」は誰でも生み出すことができる。「役に立つ考え」を正当に評価する時代が始まったと断言してもいい。

そうなると否応なく社会の見直しが始まる。徳川幕府の身分制は崩壊したのだ。もう誰も「お侍さん」と崇めてくれなくなる。

こういう「役に立つ考え」が評価される社会は発展性のある健全な社会だと思う。また、誰でも考えることができるから間違いなく社会を活性化させる。

この流れをより鮮明にしていきたいものだ。

人間集団での癌化した人物

インセンティブ、行動を促す動機だが、この動機に「欲」を持ち出されることが多い。しかし欲も様々で、良いコレストロールや悪いコレストロールがあるように、「善い欲」と「悪い欲」がある。これもコレストロールと同じで、中身は同じだが働きが違うことで「善い」「悪い」を区分けしている。全般的には「欲」が過剰な状態を「悪い」とするのが妥当だ。

そうすると「過剰」の線引きをする規準が要る。「過少」という反対概念もあるが、貧乏で世間を騒がせるということはないが「強欲」で世間に害悪を流すことは多い。自分の利益を膨らませるために様々な違法行為や、権力の乱用などだ。

これも報道などの世間に周知される存在があれば監視が働いて、癌細胞の早期発見みたいに早いうちに摘発して問題が起こるのを未然に防ぐことができる。問題は、これまた「癌」のように、「報道」という偽装で報道の実体を伴わないものが報道の名をかたることも起きる。

起きるのではなく起きている。現在進行形だ。「報道とは何か?」を誰も考えないから実体を失ってしまう。この場合は経営と取材の力関係で経営が上位にあるときに起こる現象だ。「天の声」で取材を中止しました、という例である。問題は「天の声」ではなく、「中止させる理由」を言わないところにある。

社会を監視する機能は社会が健全に発展する上で重要な働きだが、ここでも「社会の監視」を過剰に働かせようとするものが出てくる。警察が過剰に監視を強化すれば警察自体が社会の癌になってしまう。だから本来は警察の内部で過剰さを抑える部署が必要になる。内部監察がそうなのだが、これも組織の信用を優先して不祥事を隠すと何のための部署か解らなくなってしまう。しかし、警察に限らずこういうことは多い。

人体は自然淘汰の繰り返しで普通に生きていく機能を次々と追加してきた。組織論は人体論でもある。爪から髪の毛まで、理由不明なものもあるが関係性が解明できていないだけで、人体のどの部分もそれなりの理由があったし、あった。過去に必要であったが現在は必要でないものは退化している。

組織も自然に任せると不要な部署は退化してどんどんと縮小されるが、ここで我欲を動機とする権力が介入してくると一種の癌状態になってしまう。行政・・・行政に限らないが大きな組織で妙なことが起きるのは癌細胞のような部署があるからで、癌細胞の部署に居るとそこの人間まで癌細胞になってしまう。しかも癌細胞の人間が他の部署に移ると、権力を持っていれば移った部署まで癌になってしまう。癌の転移と同じだ。

全体主義の体制ではこういうことが起きやすい。警告する信号を出す部門まで癌化して沈黙を守ったり、あるいは積極的に組織を癌化させるように煽ってくる。

人体を例にとると神学論争のようにはならない。人体は生存をかけて気の遠くなるような年月で身体のシステムを変えてきている。だから社会というシステムも人体のシステムも互いに関係しあって生存できるという意味で同じなのだ。

癌というのは細胞の変質で臓器などの機能を停止させ、それを転移させて人体そのものを殺してしまう。もちろん癌細胞には人体を殺しても何の得にもならないが、その性質で人体を殺してしまう。これも人体と組織は同じだ。組織にも癌細胞のような人物が出てくる。しかも癌細胞である人物自身が自分を癌だとは思っていない。

驚くべき人体と人間社会の類似性である。

「癌細胞になった人間」というのを考察すれば社会はかなり健康な社会になると思う。ま・・・これも「過剰」の視点で見れば癌化した人間の特定はできるはずだが。

情報社会の人々

筆者は今、何が起きているのかを知ろうとしてテレビの情報番組を次々と観ている。資源や技術・流通はもとより娯楽番組まで幅広く観ているのだが、痛感するのは日本の全てが良くも悪くもグローバルに組み込まれていることだった。

ではグローバルに取り込まれるとはどういうことなのか?

例えば食料品だが、食料に保存の技術や流通がシステムとして結びついているが、ベトナムの日本料理店に鮮魚や野菜が送り込まれだしている。そういう番組があった。

飛行機や船で送り込むわけだが、鮮度を維持するための技術が進展してそれが可能になっている。技術開発が直接に流通と結びついていて、こうなると社会の高度なシステム、あるいは仕組みがそのまま貿易の優勝劣敗を決めてしまう。

社会と言ったが、例えば地方の流通業者が地場の野菜の鮮度を保つために出荷する野菜のトラックに温度センサーを仕込んでいる。このセンサーが電波を発して、「現在のどの地点では温度がいくらになってちょっと高いな」と出荷組合では言葉を交わしているような状態のことだ。異なる会社同士が情報を間に挟んで結びついているわけで、理屈としては考えられることだが、国によってはこういう結びつきはけっこう難しい。

当然の話で会社は「お山の大将」が集まっている世界だ。情報で結びつくメリットを互いに理解していて可能になる話だが、情報社会はそれを促すのである。

実際、病気の番組で医者が心筋梗塞で大事なのは悪玉・善玉のコレストロールの比率の問題だと言えば、少なくない病院でその比率を患者に示すようになったと番組での医者が言っている。また、健康によろしいと紹介があれば、その食料品もすぐにスーパーで並べられる。皆、ちゃんと健康番組を観ているのだ。番組での情報は商品の売れ行きにすぐに反映されている。

これがあるから番組が情報化しだしたと筆者は考えている。筆者は意識的に情報を得ようとしているが、一般視聴者は無意識ではあっても情報に影響されているので番組作りもスポンサーの説得から情報を求め、取材し、流すようになった。視聴率がさほどでなくとも、情報は直接の購買に結びつく。だから効果対コストで人気番組と十分に対抗できるのである。


実際、筆者は高齢にもかかわらず「博多百貨店」というアイドル番組の1と2のDVDセットを買った。一種の衝動買いに近いが、衝動を起させる番組がネットで流れていたので、それに触発されて買った。ネットのクチコミはたいして影響力がないというデーターがあるが、そんなことはない。クチコミの内容で相当に影響される。影響がないのはアホな宣伝だからだ。

ここで「影響力」の内容が問題になってくる。「説得力」と言い換えてもいい。

はっきりと言えるのは「観念的」な言葉はよほどのバカでない限り、もう多くの人は影響を受けない。それだけ情報にすれてしまっている。「誰が悪い!」のではなく、「何が悪い!」という具体的な行動を示さないとまるで説得力がない。


「戦争反対!」と叫ぶのは自分がバカですと言っているようなものだ。戦争も喧嘩も相手が居るのだ。相手を見ないで自分が「戦争はしません!」「喧嘩はしません!」で通るなら世の中は平和そのものだが、もちろん、現実は違う。

「喧嘩」も「戦争」も段階がある。要するに戦争や喧嘩に向う流れだが、この流れを相手はもとより、自分の側も説明しないと現在、どの段階であるのかが皆目解らない。こういうのは図解で示すのが一番手っ取り早いが、観念的な連中は100年前の化石みたいな頭でこのプロセスを省略してしまう。実際、戦争に向うプロセスを考えたこともないのだろう。

これも夫婦喧嘩を例に示すと理解しやすい。互いに説明しないまま衝突をするから喧嘩になってしまう。この場合、難しいのは「互いに説明する」行為である。主張はあっても説明しないのが普通だからだ。説明の省略は感情任せや力関係で衝突することを意味する。一種の原始人同士のやり方と言ってよいが、実際、世間も世界も原始人でいっぱいだから問題なのだ。

社会ステムの優劣はこういうことにも直接に関係がある。

情報が溢れるように流れると人は雑音と人の言葉をきちんと取捨選択するようになる。これで少しずつ人は冷静になり、理性的なっていく。テレビ難組みだけなくネットの情報も今では当たり前のように人は取り入れていく。もちろんネットにもテレビ番組でも、新聞・ラジオにも雑音はある。雑音と人が感じれば頭に入らないし、感情的には不快感が残る。

ここまで書いて、雑音と本当の情報の違いが浮かび出てきた。本当の情報と冷静さはイコールであって、逆に雑音は感情的なこととイコールだ。感情的な言葉は決め付けのように極めて短く、冷静な言葉は「なるほどな・・・」と思わせる筋道を備えている。

繰り返すが「雑音」はいくら頻繁に流しても煩いだけであって、伝えたいことは何も聞き手に届かない。これが情報時代に慣れてきた人の感じ方であり、受け止め方である。

かくして情報社会に突入した社会は冷静な人を次々と増やししていく。冷静になればバカを避けて対岸の火事を見るような気持ちで、まずはやるべきことをやるようになる。

人間観察

しくじった話は聞いている側にも覚えのあることが多いので、自慢話よりは聞いていて面白い。覚えがあるというのは誰も似たようなところでしくじるからだ。

で・・・反省するか、自分を省(かえり)みて感情に流されていたことに気がつく。理屈はあってもその理屈は感情の上に乗っている。要するに「初めに感情あり」である。ただ、しくじりは「しくじった!」と冷静に自分が見えているから聞いている側もその客観性で聞きやすい。一方、自慢話は気持ちに酔っての言葉だから、聞いている側は酔っ払いのたわごとを聞かされるようなもので、これは辛い。

自慢話を聞かせるには小説のような記述が必要で、これによって物語を聞く面白さが出る。物語だから自慢も滑稽さが出てくる。その滑稽さで自慢が中和されて聞きやすくなる。

語りたいことの大半はこの自慢話か、しくじり話である。筆者も振り返ればやたらとしくじっている。しかし人は神様ではないから状況に振り回されるのは普通であって、そもそも注意深く回りを見ていたら何もできない。「走りながら考える」というのが実際の人の思考形態だ。これが解ったら「走りながら考える」訓練を意識的にするようになる。

「十分に考えた上で行動する」というのは嘘なのである。十分に考えたら実際には行動などできない。「しくじり先生」の映画監督が評論家をくそみそにこき下ろしていたが、評論家は「何も行動しない」人だから「走りながら考える」コツを知らない。「知らないくせに偉そうなことを・・」をと、創作活動をしている監督が怒る理由はそれにある。「映画製作でくたくたになった・・・」という言葉には実感がこもっていた。

では「走りながら考える」ということはどういうことなのか?

まず、物事を単純化しないと走れないし、要所の見極めもできない。評論家のような思考形態は走っている場合、些細なことにとらわれて何をしているかの目的さえ忘れてしまう。

考える筆頭は研究だろうが、研究も机上で腕を組むことが思考ではない。資料の収集や試験管、あるいは実験用の機械を操作しなければならない。これらを全部頭に入れながら目先のやることに注意を注ぐ。人に自分の研究を説明するのは理屈だが、実際には理屈以外のこまごまとした事柄に対処するのが研究の大半だ。だから偶然に思わぬ発見もする。

「走りながら考える」というのは目先の様々な事態に対処しつつ、頭に入れて整理をしながら走っている状態のことだ。その意味で「理路整然」は現実にはありえないのである。さらに言えば、人は黙っていても行動はできるのだ。寡黙だからバカ、ではない。行動に説明は要らないから黙っているに過ぎない。

ここまで述べて、マスコミ連中のトンチンカンが何故おきるかが浮かんでくる。マスコミの仕事は「説明」なので、この「説明」という仕事で頭がおかしくなってしまう。ものごとを具体的に考えずに、理路整然であろうとするから現実から乖離してしまう。現実は様々なことが整理なしで向ってくるのだ。家では嫁さんがわけの解らないことを言い、会社では上司や部下がこれまた訳の判らないことを言う。「ちゃんと説明してくれ」とかの要求だが、こんなことは文法なしで単語を羅列するだけ理解できないとダメだ。「行間を読む」頭があれば簡単に理解できるはずなのだ。

ところがテスト教育で育てられるとこれができなくなる。教科書依存症なので行間を読む想像力が育っていない。

行間を読む想像力は一にも二にも対人関係で培われるものだ。社交性のある人物は人馴れをしているが、人馴れというのは様々な人物のモデル数を多く知っていることでもある。モデルのどれかにあてはめて「こいつはこう出てくる」と先読みをしている。先読みができるから人が怖くない。知っていれば戸惑うことが少ない。専門などはそれであるが、社交も同じだ。

ちなみに対人関係と簡単に書いたが、人間はどれもこれも複雑な存在であって、人を知るというのは言葉ほど簡単ではない。ただ、確かに人にはそれぞれパターンがあるが、このパターンの数はそれほど多くない。もっとも、パターンの組み合わせをやるから、組み合わせた数はそれなりにある。それでも絶対数そのものはたいしたことがない。人が解らないというのは、たいてい持ちあわせのモデル数が少ないところからきている。

・・・と、ここまで書いて、人物モデルのあれこれを書く必要があるなと思った。これは別の機会に書いてみようと思う。

しくじり先生

現在、テレビに無関心であった筆者がものすごくテレビ番組を視聴している。その番組を観ていて気がついたことは娯楽の内容が情報に変わっていることだ。情報番組は当然として、「しくじり先生」は深夜の時間帯からゴールデンに移ったお笑いの人気番組だが、このお笑いも情報が入った「先生」が出てくると俄然、面白くなる。

アイドルにはAKBを通じて詳しくなった筆者だが、このAKBも実は情報アイドルなのである。アイドルの舞台裏を意図的に見せて人気を獲得していった経緯があるが、アイドルの舞台裏は普通の視聴者には知ることのなかった世界だ。知らないことを知るから面白いわけで、そうなると「知らせ方」が大事になってくる。この「知らせ方」で「しくじり先生」は情報時代の面白さを見せている。

「しくじり先生」に登場してくる「しくじった先生」で面白いのは意外にもお笑いと無縁の人の講義だ。辺見マリの「洗脳」の講義は一冊の本に匹敵する内容であったが、なによりも5億円を騙し取られている当事者の感情や心理が講義中に随所で出てくる。誰かが騙されたことを解説しているのではない。騙された被害者が騙されていく過程を具体的に語っているのだ。この見せ方は「眼からうろこ」の着想だ。

「教科書」は面白くないことの代名詞みたいな記述だが、教科書に書いてあることを他の小説や番組にするとちゃんと面白く知ることができる。これが「読ませ方」であり「見せ方」だ。

こういう「見せ方」や「読ませ方」は子供の集団であるAKBのアイドルでも自覚してやっていた。だから楽屋裏の話が面白い。この場合、「見せ方」や「読ませ方」には怜悧な観察眼が備わっている。観察眼がなければ「見せても」読ませても」まったく面白くない。AKBの少女達は踊ったり歌ったりだけをやっているのではなく、握手会やSNSの書き込みなどでファンと双方向のやり取りをしている。これが少女達に観察眼を育てる。動機も「人気を得たい」という切実なものがあるからなおさら観察しようとする。

「しくじり先生」の先生は自分が主人公になって「しくじり」の理由を講義するわけだから、まず「しくじった」理由を分析しなければならない。普通なら分析しても「恥」の要素があるから他人には諮らないものだが、「しくじり先生」では「しくじり」が見世物なので語るしかない。

ここで「しくじり」先生の共通点が出てくる。聞かせるに値する自己分析だ。問題は「聞かせるに値する」中身であって、視聴者は聞くに値するかどうかをちゃんと識別しているのだ。聞くに値しない内容は当然、まったく面白くない。「面白いか」「面白くないか」の分別はその意味で、相当にレベルが高くなっている。そこらの評論家も真っ青のレベルの高さで「面白い!」「ぜんぜん面白くないな」と判断しているのだ。

オリエントラジオの「天狗」の解釈も考察が鋭いから面白いのだ。映画監督の紀里谷和明の場合は「言いたいことを言ったな」という爽快感がある面白さで、なべやかんの場合は「そういう事情があったのか・・・」と納得させる語りの面白さだ。「しくじり」も内容は様々なのである。

しかし語る共通点は「知性」である。多くの「しくじり先生」から知性が覗いている。この場合の「知性」は自分の心の中を逃げないでちゃんと覗いているところから出てきた「知性」だ。これがあると聞きやすいし、見やすい。

インターネットの双方向性はこういう知性の面白さに接しやすくなるから、自然と視聴者の眼も肥えてくるのだ。肩書きなど通用しない。人間としての知性の質を問われてしまう。

ネットという競争相手が出てきてテレビ番組も少しずつ面白さを取り戻してきた観がある。期待したい。

終わりの生活

心機一転051

社会問題の解決は政治しかできない

心機一転050
プロフィール

haizara

Author:haizara
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる