「家族に乾杯!」に観る地方の光景

鶴瓶の家族に乾杯

日本社会を傾けた主犯はマスコミだと筆者は思っている。インターネット以前の情報はテレビ・、新聞・大手出版社に事実上、情報が独占されていたからだ。情報が独占されていたために国民はマスコミに情報を頼るしかなく、これによって事実上の情報統制が起きていた。情報統制としたのは軍国主義の情報統制と同じように国民の声をテレビ・新聞・大手出版社は選別したからである。選別する主体が軍部から情報を独占して流すマスコミに移ったに過ぎない。

いったいどういう勉強をしたのか、マスコミは「報道」の社会における重要性を認識できず、報道を「広報」と受け止め、広報を求める特定政党や集団と一体化していった。それは現在も同じだ。「客観性」に努めない。

NHK番組でもNHKスペシャルはNHKが何様か知らないが、まるで世界の超エリートになった気分で番組を作る。視点というのはこの場合、決定的である。皇帝側近の広報係は民意をくみ取るのではなく、「国民はこのように働け」と指図するだけだ。そういう内容になる。これでは今、日本社会で何が起きているか?という問題意識は生まれない。

ともかくNHKでまともに観られるのは「釣瓶の家族に乾杯!」だけだが、番組趣旨の「家族」よりも地方の実情が映像を通して感覚的に視聴者に伝わるからである。日本の各地を取材して地方の問題が映像になって浮かび上がる。

地方の問題の中心はもちろん「過疎」であり、「高齢化」である。

この問題点が明瞭になると「なぜ、こうなっているのか?」という疑問を抱かねばならないはずだが、NHKが作る場合、初めに答えがあり、答えに沿うような場面だけを番組に持ってくる。だから「広報」だと言っている。宣伝には初めに目的があり、目的に沿うような素材を選び、さらには余計なものは削り取る。しかし「宣伝」とはそういうものだと視聴者が理解しているから話半分で聞くという姿勢ができて、誤誘導にはまらない。

また捏(ねつ)造の内容を盛り込めば一種の詐欺なので、宣伝であっても法律違反として処罰される。

「報道」に客観性を求められるのは国民が判断するため、あるいは考えるための素材になるからで、これは料理の素材と同じなのだ。加工された素材は料理が限定されて、その限定された料理しか作れない。「宣伝」ならそもそも目的が「宣伝」と限定されているので構わないが、報道は「宣伝」ではない。国民が考え、判断する素材なのだ。

その意味で「家族に乾杯!」は番組作りの意図から外れて報道の趣旨に合っている。地方の家族、あるいは人々の生活を片鱗ながら覗こうとするので、その生活から地方の実情が光景となって報道されることになる。かって中国が「アニメ」を単純に娯楽として受け止めたたために無造作に中国国内での放送を認めていたが、やがてアニメの描く世界が中国社会と対照されて中国の体制批判につながってくることに気が付き、慌てて日本のアニメを放送禁止にした。

人々の生活は社会とつながっている。

西内まりやの登場する愛媛の島は人口200人だ。中学生がほぼ20人くらい。この実情から島の将来を考えるとどういう光景が浮かんでくるか?

過疎も社会を考える起点となる。昔から200人なら「そんなものでしょ」という受け止めになるが、家の数から考えて昔は何倍も人が生活していたに違いない。光景というのはそういうことも教える。それではこの島が特殊なのか?そうではない。地方ではこのような過疎的光景がいたるところで見受けられる。

「なぜ、そうなっているのか?」こういう分析的な疑問を持つには日本社会を見据えた視点が要る。「仕事がないから島を出る。島を出ると戻ってこないから島の人口は減り続ける」「寂れた島には嫁さんも来ないから、新たに子供も生まれない」・・・・生活維持という生産サイクルが壊れてしまったのである。

仕事がなければ仕事を作るしない。しかし需給という厳しい現実が市場にはあるので需要に合う事業を興すか、あるいは旧来の事業を新たに見直したり、組み直したりする必要がある。

この番組での島の一人が「インターネット」という言葉を出した。島の生産サイクルを取り戻すには新聞やテレビでなく、インターネットが必要だと気が付いているか、あるいはやがて気が付く。情報が途方もなく流れていると、ネットのどこかに島と一致する状況での解決例が出ているかもしれない。それで、それを求めて調べだす。次に島の情報発信だ。思わぬ島の評価が出てくるかもしれない。

今の政治家はこういう住民視点で議論をしているか?である。住民視点から乖離すると、それは「サロン政治」である。「サロン政治」に「サロン報道」・・・これでは最悪ではないか?

「報道」が正常であれば監視が働き、この監視を意識すると政治家も行政もうかつなことはできなくなる。しかし監視が働かなければやりたい放題だ。このやりたい放題が数十年と続いているのが日本の政治なのである。
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労働の自由化とセーフティネット

「企業」と書くとすぐに第一部上場会社のような大企業を連想するが、日本の企業数の99%は中小企業なのである。また非正規社員も40%に達しているが、その仕事先の大半も中小企業のはずだ。

この実態を中心にテレビ・新聞、出版はほんとんど報道しないので日本社会のピラミッド構造維持の価値観が社会に蔓延した。が、ネット登場によって新聞・テレビ・出版をまで飲み込んでしまう超巨大なメディアができあがり、少しずつ分野別的な項目領域が広がってきている。

ブラック企業もこの項目領域のひとつの部分を占めるジャンルにすべき事柄で、問題は「何をしてブラック企業と呼ぶのか?」が曖昧なことだ。  

起業して経営者になる者も元は従業員体験をしている。中小企業の場合は社員数が少ないので従業員は社長の顔が見えるし、社長も従業員の顔が見える。こういう状態だと「情」が働くことにも、経営することにも働いてくる。社長が薄情だと従業員も仕返し的に非協力的な態度を間接的にとるし、逆に社長の情が厚いと会社経営で苦境に立つと従業員は積極的に経営立ち直りの案を進言してくるし、行動もする。

ここで経営者と従業員は持ちつ、持たれつの関係を両者認識しだすが、しかし経営には代が替わることや新しい経営者が登場することも普通にある。

企業がブラック化するときの大半はこのときだ。

企業が経営者と従業員の運命共同体でなくなってしまう。運命共同体でなくなれば経営者は従業員のことなど眼中になくなって利益のみを追いだし、無理な要求を従業員に強いだすようになる。ブラック化した企業の背景はこれだ。

製造業の場合は設備産業なので好況のときは生産が追いつかず、不況のときは設備が遊んでしまう。理想とする平均がない。注文が多いか、少ないかのどっちかだ。この点、サービス業は設備が少ない分、融通が効くが、サービス業のネックになるのは専門化が進むときである。専門化が進むことによって従業員も専門的になるので守備範囲が狭くなってしまう。社会状況が大きく変わると抱えた専門的な従業員が邪魔になってくる。

こういう事情の解消で派遣会社が竹の子のように出てきた。社会全体で考えると派遣会社の増加は労働の流動化を意味しているので、足りないところと余っているところを平均化するという意味で合理性がある。

しかし、労働者個人となると労働者が過剰になれば供給過剰となって賃下げ圧力が掛かってしまう。社会が不況になれば賃金が下がる理由なのだが、これを「正社員・非正社員」と問題にしても事情は何一つ変わらない。

実は「事情が何一つ変わらない」ことを野党を中心とした政党は全く理解していなかったのである。小泉政権のときに「派遣法」が成立したが、派遣の推移をすこし見てみる。

【派遣法の歴史】
[1985年(中曾根内閣)]
 派遣法が立法される。
 派遣の対象は「13の業務」のみ  
[1986年(中曾根内閣)]
 派遣法の施行により、特定16業種の人材派遣が認められる。
[1996年(橋本内閣)]
 新たに10種の業種について派遣業種に追加。合計26業種が派遣の対象になる。
[1999年(小渕内閣)]
 派遣業種の原則自由化(非派遣業種はあくまで例外となる)
 この頃から人材派遣業者が増え始める。

[2000年(森内閣)]
 紹介予定派遣の解禁。
[2003年3月(小泉内閣)] 
 労働者派遣法改正
 例外扱いで禁止だった製造業および医療業務への派遣解禁。専門的26業種は派遣期間が3年から無制限に。
 それ以外の製造業を除いた業種では派遣期間の上限を1年から3年に。
[2004年(小泉内閣)]
 紹介予定派遣の受け入れ期間最長6ヶ月、事前面接解禁。

*鳩山政権による派遣法改正の動き*

 1、製造業への派遣を原則禁止(常用型を除く)

 2、日雇派遣、2か月以下の労働者派遣を禁止

 3、登録型派遣の原則禁止(専門26業種を除く)

登録型…仕事がある時だけ雇用契約を結ぶもの。

常用型…仕事がなくても給料がもらえる(雇用契約を結べる)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「社員か?派遣か・」を問題にして「労働の自由化」を問題にしてこなかったことがこの派遣法推移で解る。小泉内閣のときに「派遣法」とセットして「セーフティネット」が取り上げられていたのである。

「労働の自由化を促進する」なら「セーフティネット」は派遣法と同時成立でなければならない。「セーフティネット」という保険があって人は動くからである。保険がなければ失業が怖くて企業にしがみつくしかないが、しがみつくことを見透かされて労働条件をどんどんと経営側は悪化させていったのである。

「労働者の自由化」は「セーフティネット」の保険があれば市場の論理が働いて適正な賃金に収斂していったはずなのである。適正な賃金であれば「正規社員か?非正社員か?」という問題も消える。「仕事に対しての報酬」となって、「仕事」だから社員も派遣もない。

また「セーフティネット」を充実させれば生活保護者もこの網に入るから生活保護者と失業者を切り離す必要もない。これで低所得者全部がセーフティネットという部門で処理されることになる。これは行政の簡易化に繋がるので行政コストもそれだけ削減できる。

「労働の自由化」と「社会福祉」が「セーフティネット」を媒介して結びつく。

労働の自由化は社会の効率化でもあるので生産性があり、この生産性を資金源として社会福祉の費用を賄うという理屈だ。

この理屈が階級論で凝り固まった連中には解らず、それによる被害は国民所得の低下、企業の倒産・規模縮小で現れてきた。

派遣問題は労働の自由化の問題であり、セーフティネットの問題なのだ。どこまで左翼政党は国民を苦境に陥れたいのか?当時ももの凄く腹が立ったが、現在も一向にセーフティネットを政治課題にしていないから、その冷酷さに呆然としてしまう。

韓国はいい。日本社会を問題にしろ!

悪事の規模が大きいほど解りにくい

自分でブログを書いていて読み返せるのは、企業や農業などの事例紹介なんだなぁ・・・・。

昔、日経新聞は読まなかったが日経ビジネスは面白いので読み続けた。ダイエーの中内やソフトバンクの孫などの伝記も連載していたと思う。経済小説などの人を語りながらビジネスを語るという手法は結果的に現実の経済を語ることになる。

「行動せよ」とたいていの事業家が言っているように行動で得る知識は実用性が豊富で、また相撲の練習みたいに身体で覚える知識は反射神経を鋭くさせる。産経で外務省を批判する記事が出てくるが、これも外務省の連中が楽なことばかりやって地味に行動をしないところから、「何が起きているか?」を体感で理解できないところが起点だ。

小説や漫画でも面白いのは実際に自分がやってきたことを描いているのが一番面白い。次に、これでもかというほどに資料を漁ってまとめた小説やそれに類する読み物。

三洋電機がおかしくなったときは「帝王学」という言葉を社長か会長か忘れたが、使い出してからだ。会社経営に「帝王学」などなく、いや、国家経営でも同じで、これを言い出したら確実に傾きだす。勘の重要さが解っていないためだ。「ヤバイ!」と感じるのも勘であって、この勘が鋭いととっさに行動できる。勘が鈍いとただただ傍観しているだけだ。

勘を養うのは光景と、光景を理解しようとする理屈。

だから下から這い上がってきた奴は強い。物事の関連性を肌で知っている。その意味で「帝王学」というのは子供に対する親の情に過ぎず、あるいはサロン政治のようにグラスを傾けて社会問題を論じるような底の浅い認識でしかない。

そんな夢想をしているうちに下から這い上がってきた奴が挑戦してくる。「勝てるのか?」ということだ。

喧嘩慣れしている者に知識がついたらサロン政治のような貴族は迫力でも負けてしまう。下から這い上がってきた者は理不尽な障壁を乗り越えてきたので自然と顔つきに厳しさが潜(ひそ)んでいる。また下から這い上がる過程で喧嘩に勝つノーハウも溜めている。このノーハウには小技がいっぱいある。だから思いもかけないところから攻めてくる。

大前研一郎も三橋も選挙で落選した。選挙という畑違いの土俵で名乗りを上げたから、選挙を商売としている連中にカモられた可能性が大いにある。選挙の細部を知らないために、というか政治の「野蛮さ」に直接向き合って立ち往生する場面がいくつもあったのではないかと想像できる。

論以外に世の中にはとんでもないことを仕掛けてくる連中が居る。1957年に設立された東証第一部上場の日本熱学工業という会社があった。この倒産劇を創立者自身が昔、何かの雑誌で詳細を書いていた。被害者意識もあるので無条件に言葉を受け取ることはできないが、ともかく、倒産させるための人物、それも好青年が入り込んできた。

「当時高価であった家庭用クーラーを各家庭にリースとして設置して、使用したい時間分100円硬貨を投入して稼動させるしくみだった。関連会社の日本空気販売がスポンサーの特撮番組『スーパーロボット レッドバロン』でも、劇中の特撮シーンなどを使ったCMが知られている。

その手軽さが好評となり普及していたが、他社の冷暖房機器の大量生産による価格の下落で購入しやすくなったことや、本業の空調機器工事の受注鈍化による業績悪化で1974年5月20日に会社更生法を申請して倒産。同年11月には申請を棄却され、12月10日には代表取締役社長の牛田正郎が特別背任罪で逮捕され、翌年1975年3月に破産した。」

ウィキペディアではこのように書かれているが、牛田の証言では銀行などを含めたサルベージ屋にやられたと言っている。

「別名:サルベージ屋

パクリ屋(取り込み詐欺)と呼ばれる詐欺手口により騙し取られた手形を回収する、という話を振出人へ持ちかける者。またはそのようにして行われる詐欺手口。

サルベージ屋は一般的にはパクリ屋との共謀である。取り込み詐欺が成功したとの情報をパクリ屋から得た後、サルベージ屋は手形を騙し取られた振出人に対して手形を取り返してやると提案する。手形は返すが回収のため手数料を取り、手数料分を丸儲けとするか、あるいは手数料をうけとった段階で行方をくらます場合もあるという。

いわゆる悪徳商法においては、詐欺に遭った被害者に対し救済措置を提示するフリをして再度騙そうとする手口を二次勧誘という。」

この説明では具体的な手口が解らないが、牛田はその手口を詳細に語っている。要するに人のバトンリレーみたいな形で倒産を余儀なくされ、本当の狙いである会社の資産を全部、持っていかれ、ついには「背任罪」で逮捕されるまでが「絵図」であったと言う。徹底しているのだ。

世の中は表と裏で成立している。

表だけを知って世の中は解ったと思うのはバカでしかないが、かと言って裏だけで世の中を判断するのも間違っている。社会の大きな流れは表の理屈で読み取らなければならないが、裏は個人と直結するので「悪事は自分とは無縁だ」と言ってはいられない。悪事を知るのは防犯のためだ。

どうも書きたいことが横に逸れてなかなか届かない(苦笑)。

指原を語る

秋元康は指原の文章力を最初に、つまり指原が初めてブログを書いたその一文で指原の素質を見抜いた。筆者は1ヶ月かけて指原のブログ(当時の全文)を読み、「これはもはや秋元康と同業の分筆家だ」と驚嘆した。

秋元は指原に作詞を書けと言ったが、これはおかしい。指原のブログ全文をひとつの新しい形式の文芸と考えるべきで、作詞能力とは違う。この中には1日で百ブログを書くという番組企画が入っているが、これが結果的に独特の波を作った。

聞き書きの「逆転力」よりも指原のブログをまとめて一冊の本として出版社は出すべきだったのだ。「逆転力」も指原自身が書けば何倍も味わいのある本になったと思う。指原の一文にはひとりのしっかりとした眼が感じられ、1行の短い言葉でもそれが光っている。

こういう文章を書く女性には素っ裸になっても筆者は何も感じない。肉体よりも精神に惹かれてしまったからだ。だから「一位になったら水着になります」と言われても「あ、そうですか」くらいの受け止め方になる。

指原の軌跡をなぞっていくと指原流のセーフティネットを作ってから指原は行動すると感じさせられる。今でも「保険に入ってます!」と言っているが、AKB応募のときも、AKB合格のときもクラスの知人に言わずに上京しているが、これは失敗したら何事もなく大分に帰るつもりがあったからで、指原が一番に計算するのはこの「保険」だ。

一般的に女性は相手が男であればけっこう大胆不敵になる。逆に同じ女性だと緊張が出てくる。指原も小林よしのりと屋台ラーメン屋で対談したとき、「指原を嫌いですね?」としょっぱなから挑発しつつ対談が終るころには出されたラーメンを完食していた。小林はほとんど手をつけていない。緊張していたのは指原の親よりも歳のいっている小林の方だった。

これが林真理子との対談だと指原の表情や言葉に緊張がありありと出てくる。指原から観れば相手は直木賞の選考委員だ。知識量が自分と全く違う・・この自覚で表情も態度も硬さが抜けない。

ところが自分の土俵だと指原は一変して、「指原はおかしい」と秋元が呆れさせる態度をとる。この秋元の言葉は「指祭り」の指原を指しての言葉だが、この数日前に文春の指原スキャンダルの記事が出て、指原はHKTに転籍させられている。こういう状態で「指祭り」を仕切る立場に指原は立った。しかし、最後まで「影」を見せることなく指原は仕事を貫徹したから「おかしい」と秋元は言った。

こういうことは男には無理だ。男は色々なことを考えて何万も居る観衆の前に平常心で出ることはできない。

次にHKTメンバーの前に立ったときだ。スキャンダルを起した身で若い少女達の仲間入りを伝えねばならない。指原のことだからグーグル+でHKTメンバーの書き込みをきちんと読み通していたはずだ。この書き込みには「歓迎されざるお客さん」の言葉が連なっている。ここで弱気の顔を指原は見せて挨拶し、挨拶後、昔の仲間だったメンバーの胸で泣き崩れた。

こういう光景を見せつけられると「指原は終ったな・・・」と誰しもが思う。しかし、ここから指原は鋼の心臓を持った
女として変貌していく。もちろん再起の舞台回しは用意されていたが、用意されていても本人の心が自分自身に否定的な状態であれば何をやっても巧くいかない。

指原はこれを思考を切るという形で対処した。目先に集中してそれ以上のことを考えない。これも女性特有の強さだ。目先に集中して後先を考えないから女性の嘘は自然な感じになる。これで男はコロッと騙されてしまうのだが、騙した当人には「騙した」という自覚が薄い。自覚が薄いから罪悪感もほとんど感じず、このあたり、男とは相当に違う感覚だ。

女性に優れた推理作家が多いが、女性は噂話好きという面から見ても推理が好きなのである。文春で報じられたスキャンダルから男との待ち合わせをラジオ番組で暗号を使うような形で指原は逢瀬を企んだことがあったが、指原には間接的な暗示を色々なところで使ってくる。だから指原の言葉を言葉通りに受け取るのは単純としか言いようがない。指原は言葉に何かを含ませるのが好きな気質なのである。

「指原を語りだすといくらでも言葉が出てくる」とよく言われるが、実際、指原は奥が深い。女性で、しかも二十歳そこらで自分より上だなと思わせる女性は滅多に居ないが、指原は滅多に居ない女性なのである。

例えば評論に秀でていても指原のように臨機応変に対処できるかと言えば、まずできない。指原は「背水の陣を敷く」タイプではなく「逃げ道を用意」してから動くタイプである。しかも、その逃げ道は最後には「郷里に帰ってやる!」という逃げ道だから仕事で失敗しても恐怖心が薄い。

文春スキャンダルでも「博多に行くか?」と秋元に言われて、むしろ指原にとっては命綱が投げ下ろされたと感じたに違いない。「助かった・・・」という気持ちになったから「指祭り」でも平常心で対応できた。指原は保険ができたら強気に出る人物だ。指原を理解するには外せない気質である。

・・・セーフティネットの重要さを書くつもりで指原を取り上げたのだが、指原論になってしまった。

AKBグループ新世代

AKB新世代

アニメの原画というのは1日に同じ絵を大量に描く。そうすると途中で描いている絵の判断ができなくなってくる。文章の場合も似たことが起きる。滑(なめ)らかな文章には落とし穴が待っていて、一定量以上の言葉を連ねると起承転結の「転」の部分に間延びができる。間延びならまだ救われるが、「転」が出せないままタイムアウトとなると最悪だ。

一般的な仕事も目先の仕事をこなしているうちに気持ちの鮮度が失われ、流れ作業のロボットのように何も考えなく仕事をこなすのが常態となる。専門を疑うのはこのような「距離感の喪失」「何も考えずに仕事をこなしていく」ということが起きるためであり、特に「過労」はこれをさらに増幅するから要注意なのだ。

というわけで気分転換をやる。

「欅(けやき)坂」という乃木坂の妹グループができた。「欅坂って・・・読めないっ」という新番組でメンバーの紹介をやっていたが、これを観ているうちにAKBグループは完全に第二世代に入ったなと思った。第二世代はすでに芸能界の王道を突っ走るメンバーを揃えた。第一世代のAKBと違ってゲリラ戦の戦術を使う必要がないコマが揃っている。

独りでも十分に闘える素材が何十人と居るのだから壮観だ。欅坂以外にチーム8や新潟、名古屋・大阪・博多の支店グループの新規メンバーも考慮しての話だが、こうなると野球に模せば球団を超えてセリーグを作ったようなものだ。

第二世代の超選抜となればオールスターのチームとさえ言える。これだけの人材を揃えると問題は運営側に出てくる。ゲリラ戦術は小さな戦いで有効だが、大きな戦い、芸能界の半分をAKBグループで占めるという戦いでは大戦闘の布陣を敷かねばならない。

握手などのゲリラ戦術は「新」戦術であったから残すとして、次の一手は中途半端であった個人の売出しをモデル化できるように完成形に持っていくことだ。秋元は「部活」という案を出してメンバーに専門性を持たせようとしたが、「アイドル」という言葉が邪魔をして中途半端で終った。

しかし「部活」の案は秋元が何を見据えていたかが判る考えでもある。専門性を持たせるということでAKBの松井咲子やHKTの 森保まどかにピアノのソロCDを出させたが、これはAKBグループの固定ファンが多いのでそれなりに成果は出る。さらにはAKBグループにはピアノをやるメンバーがかなり多いので、この結果を見てヤマハなどの提携話が裏では出ている可能性もある。

一方、AKBは講談社系のキングレコードと繋がっているので講談社の雑誌を使ってモデルをも、こちらは乃木坂中心だが送り出している。モデル分野もやがてはAKBの影響力が増す。モデル向けの人材が増えてきた。

足らないのは俳優部門やバラエティ部門だ。しかし、これも自前の劇場を持っているので養成は比較的簡単で、これを考慮して指原に明治座公演を体験させたと読むこともできる。指原は指原自身の考えはともかく、運営側にとって秋元の後継者にする路線は間違いなく敷いているわけで、「指原を裏方にする」と以前、秋元が語った言葉は今も生きている。

指原はAKBを経営するAKSの社長候補と考えて良い。「社長にならないかとAKSの人に言われた!」と指原は笑い話のように言っていたが、そういう話が秋元を中心に幹部間で出ていたと考えるのが妥当だ。そのためにHKT支配人にして経営の体験を積ませている。

ジャニーズを脱退して消えるかと思った赤西がネットを利用したゲリラ戦で浮上したり、ネットの申し子である指原がAKBグループの顔になったりで芸能界は面白いが、これもネットで背景がどんどんと透けて見えるようになったからだ。芸能界自体が芸能になってしまっている。

ちなみに筆者はふと思ったのだが、イデオロギー対立的な世界はマニアックな世界になってしまって一般人は何の興味もないのではないか?ということである。

「新自由主義」がどうのと言っても、一般人はそもそも「新自由主義」がどういうものか知らないし、関心もないだろう。しかし、関心のない一般人が政治を左右する1票を行使できるのである。そうなると一般人はどういうことに関心を持っているかを探らねばならず、一般人がどういうことに問題を感じているかを見出して問題解決の策を示すのが民主主義の政治であるはずだ。

ともかく時代はもうインターネットの時代になってしまっている。誰も気がつかないうちにそうなってしまっている。

この現実を直視して、あるいは気楽にネットの波に乗った者がこれからの時代の主導権を握るのは間違いない。

赤西仁の衝撃

赤西仁

「前所属先のジャニーズ事務所を離れて、自身のインディーズレーベルGo Good Records から再デビューの元KAT-TUN・赤西仁。待望の新曲「Good Time」がオリコン初登場2位、4万枚越えの好スタート。」

「国内 Blu-ray Disc発売日 2015年11月18日
通常価格 ¥5,184 セール価格 ¥4,406

国内 DVD 発売日 2015年11月18日
通常価格 ¥4,104 セール価格 ¥3,488」

「インディーズレーベルを立ち上げる

まず、私がオススメするのは、 あなたの音楽や楽曲をCD化することです。

実際にCDにしようとすると、いろんな作業があって、おのずと1枚作成する大変さが分かります。

プロ志向のかたは

■マスタリング
■CDへのレコーディング
■ジャケットデザイン
■印刷
■材料の手配

など、ざっと考えただけでも、実際に1枚つくるのにどれだけの工程があるのか自然にわかってくるし、コスト面でもどれだけの金額が必要になるのか、真剣に創ってみると大変勉強になります。

プレス業者さんに作ってもらうとなると、1枚の単価は安いですが、何百枚単位のオーダーになってしまいます。(おおよそ、1000枚で10万~15万円です)

自分で作れば、手間はかかりますが一番安上がりですね。 (1枚100円ほどから1枚単位で作成可能です。)」

勝手にCDデビューしよう!

http://www.potmanrecord.com/cddebutshiyouu.html

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赤西仁のこの売り上げは凄いが、芸能関係者にとっては「いよいよ来たか!」という恐怖感もあるはずだ。

筆者はAKBを注目しだして5年くらいになるが、おかげで芸能商売についてそれなりに詳しくなった。CDの売り上げ割合で実際に歌っている人に入る金額は低い方の数パーセントで単行本の1割より低い。

これが自主レーベルになると制作費・販売費を引いた全てが自分の元に入ってくる。コミックマーケットでも自分で本を出せば1割でなく、CDと同じように必要経費を引いた全額が自分の懐に入るので、雑誌掲載はカネを貰って宣伝してもらっているような状態になる。

必要経費を抜いた実際の利益が8割だとすると、出版社は1割なので本の売り上げが1冊5百円で1万冊だと500万円の売り上げで、出版社から得た利益は1割の50万円。これに対して自分で出版すると8倍の400万円が利益になる。逆に出版社から貰える50万円の利益を得るには自主出版だと千冊の売り上げで50万円、そこから経費を引いて40万円と言ったところか。

1万冊の売り上げと千冊の売り上げの大きな違いは損益分岐点に出てくる。現実問題として単価500円で1万冊の売り上げ見込みなら出版社は経費倒れになるので積極的に本を売り出さない。しかし個人出版なら千冊の売り上げでも生活が成り立つ。

この理屈はかって「問屋無用論」で出ていた。

生産から販売の中間部分が大きいほど販売価格は高くなるという理屈で、「中抜き」の考えが広まり、問屋や商社は「情報」ビジネスに転化していった。チェーンストア理論もこの発想からきている。製造から販売をシステム化すればどこが主導権を握るかでダイエーは松下電器と衝突した。

今から40数年ほど前でも「製造の利益率は高いが商社の利益率は低いですね」と先輩社員に筆者は言ったことがある。「頭脳って案外と儲からないからな」と先輩社員は苦笑しながら答えたものだ。

技術・・というより技能の方だが、こっちは勘に頼る部分が大きいので簡単にコピーできない。その理由で需要が増えるとすぐに供給不足になって売値が上がり、売値が上がった分、製造側の利益は大きくなった。

商社が生き残るには足を使うしかないのである。また製造や販売に比べると足を使う場面が圧倒的に多い。足を使う=情報取得なので、より多く動き回っている人間にはその分だけ情報を取得している。その情報は生きた情報なので製造も販売も聞き耳を立てる。

「主導権を握る」には主導権を握れる状況がある。

インターネットは従来の主権を握った主体を脅かす環境を作りつつある。このブログでも「情報寡占」と、「寡占」という言葉をよく使っているが、「寡占」が成り立つ理由が崩れると寡占によって得た主導権も崩れる。

赤西衝撃を「たかが芸能」と考えれば間違いを犯す。宣伝媒体が限られていた状況で成り立った「寡占」の一角が崩れてしまったのである。インターネットを媒介としたブログやツイッター、755などのSNSというツールを駆使したとき、どういうことが起きるか?赤西の売り上げはそれを示して見せたのである。

これが農民一揆なのか?あるいはもっと大きな社会変動に繋がるものなのか?ちょっと興味深い出来事である。

夢を追う生き方

妙な階級論的イデオロギーに毒されていなかったら、企業は実に色々なものを輩出していることが解る。実際、何かを作ろうとしたら企業形態が一番便利なのだ。しかも企業形態のモデルは山ほどにある。

ドローン撮影001
ドローン撮影002


ドローンに関しては撮影好きの人間にはたまらないほどの魅力を感じるだろう。空中撮影がいかに困難でかつ費用が掛かるかを熟知しているためだ。本来ならヘリコプターや高度撮影用のクレーンが要ったのだが、ドローン出現でいとも簡単にそういった撮影ができ、しかも車やバッグに入れて持ち歩けるようになった。

真空コップも元々は魔法瓶の仕様であったが、真空であれば何でも保冷できるから、真空技術を持っている企業は需要があると観ればすぐに参入してくる。筆者は所番組でそれを知ったのだが、調べてみると陶器メーカーも作っていて驚いた。陶器によって真空を作っている。

ここで生産というものを復習したい。

生産は市場に出して売り、売上金を回収すれば回収金をさらに再生産に回して生産サイクルを作る。これが事業の第一歩である。発明・発見も「売れてナンボ」の世界だ。売れなければいったん眠って次のチャンスを待つしかない。

真空タンブラー


経営者の頭の80%はこのことで占めるが労働者はこういったことを普通は考えない。与えられた仕事をして賃金を貰うだけなので、少しでも高い賃金をもらえるように資格を取ったりなど色々と考える。経営など雲の上の世界だと思い込んでいる。

「マイ・ファーム」という農業会社を作った青年は外見だけではとてもじゃないが経営者になれそうになかったが、しかしそこらの経営者より経営に長(た)けていた。「経営というのは構想だ」と読んだのである。初めに構想があって、そして行動する。これが経営者の第一歩だ。

この青年もニトリの社長も商売上手とは言えそうにもないが、しかし商売上手だったのである。

情報番組はいくつもあるが「カンブリア宮殿」がひとつ頭が抜け出しているのは商売、つまり経営視点を持って事業を紹介しているところにある。だから「2年間、苦しかったです」という言葉をベネフィット・ワンの代表からちゃんと引き出す。

商売経験のある人なら「2年間」という言葉を聞き逃さないはずだ。商売が軌道に乗るには軌道に乗る過程がある。「2年間」というのは実に微妙な年月であって、「誰もが倒産すると思っていた」ギリギリの線だ。

昔の人は「3日・3月・3年」という区切りの言葉を残している。仕事に自分が合うかどうかの判断は3日、仕事を覚えるののに3月、中堅と言われるようになるのに3年という区切りだ。

だから3年の1年手前である「2年」で事業の可否の目安が見える。見えないなら撤退を考えねばならない。だからギリギリの微妙な線と言った。

事業内容にもよるが、だいたいどの仕事・どの事業にもこれは適用できる。これを知らないまま突き進めば崖を目指して飛び降りるようなものだ。

こういうことを「カンブリア宮殿」はちゃんと描いている。知る者が観ればすぐに解る。

そして社会に必要なのはこういったプロセスであって、高所演説は雑音に過ぎない。企業国家である米国人にとっては常識みたいな事柄だからベンチャービジネスも盛んになるし、投資家も同じ目線で見ているから有望な事業には資金が集まる。

ところが日本の官僚はこういったことの土台である市場を眼の敵にする規制をやってくる。事業にはリスクがあり、リスクに応じた利益があるということに呆れるほどに無知なのである。

ベンチャー事業は元々、リスクの大きい事業なので、その分、見返りがリスクに比例しないと誰もカネなど出さない。この理屈が官僚には理解できない。もちろん労働組合もだ。

こういうことはギャンブラーである孫が言わなければならない・・・ま、マスコミがアレだから言っても無駄か。

ともかく(苦笑)、「マイ・ファーム」のあの気弱そうな青年が立派な事業家になれば、「あいつでやれるなら俺も!」という若者が次々と出てくるだろう。事業は夢を追う生き方だ。夢を追って失敗しても人生そのものは失敗ではない。何かに、ま、人事だが、他人に人事権を握られて顔色を窺うばかりで人生を終えるのはアホらしい。

夢を追えば生き方も堂々としてくる。これは立派な人生だと思う。

企業国家と旧来国家の並存

「トヨタ自動車が人工知能(AI)研究を本格化する。AI研究・開発の拠点となる新会社を、2016年1月に米カリフォルニア州シリコンバレーに設立する。

当面の目的は自動運転技術やロボット技術の高度化。興味深いのは、そうした既存の業態の延長線上にとどめず将来の新産業創出も視野に入れていることだ。クルマが今の形でなくなったら―。トヨタのAI研究は、そんな未来も見据えた布石でもある。(名古屋・伊藤研二)

 新会社「トヨタ・リサーチ・インスティテュート(TRI)」の最高経営責任者(CEO)に迎えるのは「AIの分野で米国の至宝とまで呼ばれる」(豊田章男トヨタ社長)ギル・プラット氏。期待するのは、その知見だけではない。TRIは、数年で200人規模の研究者を集める計画。優秀な研究者集めにプラット氏の知名度や人脈を生かす。

 TRIの当面の目標についてプラット氏は「安全、アクセシビリティ、ロボットの3分野」を設定した。自動運転を進化させ交通事故ゼロに近づけるほか、高齢者ら誰でも移動の自由を享受できるようにする。TRIの運営予算として20年までの5年間に約1200億円を投じる。

 ただトヨタはAI研究の出口を、自動運転やロボットに限定しない。会見で印象的だったのは「トヨタグループはグループ全体のモデルチェンジを経験した企業群」(豊田社長)と、創業期の織機から自動車へと主力製品を変えた歴史に触れたこと。長期目線でとらえればトヨタが自動車で生きていけない時がくるかもしれない。カーガイで知られる豊田社長も「自動車がいつまでも四つのタイヤで走っているかわからない」と危機感を抱く。

掲載日 2015年11月10日

http://biz.nikkan.co.jp/news/nkx0420151110beam.html」


 新潟県の地方紙「新潟日報」を発行する新潟日報社は、県弁護士会の高島章弁護士に対する暴言をツイッター上に投稿していた上越支社の坂本秀樹報道部長(53)について、25日付で職を解き、経営管理本部付とする人事を発表した。過去の投稿も調べた上で、最終的な会社としての対応を「27日付の新潟日報朝刊で公表する」としている。

 同社の25日までの調査で、坂本氏が今月20日、新潟水俣病第3次訴訟の原告側弁護団長でもある高島氏に対し「はよ、弁護士の仕事やめろ」などと中傷する内容を匿名で投稿したことが確認された。

http://www.sankei.com/affairs/news/151126/afr1511260032-n1.html

このふたつの記事を並べるとトヨタは日本を捨てて本拠を企業国家である米国に置き、トヨタ・グローバル国家を作るのではないかと疑ってしまう。それほど日本のマスコミは劣化が著しい。いや、左翼と連なるマスコミと言うべきか?

実際、トヨタは国家を作れるほどの資金力と技術力と、トヨタサイトを観れば解るが宣伝力を持っている。この宣伝力は外交力と繋がるもので、米国に工場新設したときの地域住民への接し方は見事であった。

一方、朝日・毎日・共同通信・NHKなどを筆頭に、地方新聞などのマスコミ勢力は製造メーカーに比べて呆れるほどに事実認識が浅い。世界を股にかけて活動していないから世界がどうなりつつあるかを掴んでいないのだ。

要するに新聞・テレビ界は情報を商売にしながら情報時代に取り残されるという奇妙な状態に陥った。「報道とは何か?」を自問いせずに政治に熱中した結果だ。実際、地方新聞の政治熱は相当なもので、しかもその政治熱が恐ろしいほどに地域振興からほど遠い事大主義なのだ。東大教授を定年した人物の寝ぼけた話をコラム記事にして一面に載せるということをやったと言えばその程度が知れる。

地方政治=中央政界への陳情という頑迷固陋な考えが骨の髄までしみこんでいるから事大主義に陥る。

これが通用したのはネット登場以前の情報独占時代だけであり、ネットが出てくると途端にどの新聞社も経営が怪しくなりだした。それも当然でネットには最先端の知識がこれでもかという具合に流れているために、古臭いイデオロギーにしがみついた記事など、報道の品質からも商品価値がないと知られてしまった結果だ。

日経新聞も政治宣伝に走ったとたんに紙面の信頼性が見事に落ちた。中国・韓国を礼賛した記事のあとに、すぐに中国・韓国の経済がおかしいと書く。それもネットで出回ってから1年も経った後追い記事なのだ。

権力が怖いのは、こういった誤った姿勢を権力者が持っていると誰も変えることができない点だ。言い出せばクビや左遷になるから服従するしかなく、さらに怖いのは盲目的服従者が信頼されて後釜に座るところだ。

こうなれば新聞社自体が読者離れを招いて潰れるしかない。市場認識がないとそうなる。

ま・・・その意味ではネットでの報道立ち上げは代替需要があるので敵失で有利にはなる。ただし、旧来のマスコミ報道を克服しているという条件付での話だが。

しかし・・・事実上の企業国家が次々と出てくると国民は企業国家と普通の国家の二重国籍となってしまう。これはじっくりと考えねばならない重大な危惧だ。

「常識」あるいは「慣行」を疑う

栄養価の高い野菜01
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栄養価の高い野菜06

栄養価の高いニンジンはその栄養数値を標準的なニンジンと比較した表を売り場に出せば売れる・・・この事実は物の販売がさらに一段高いステージに入ったことを示している。規格品を揃えて売るというチェーンストア理論が負けたのだ。

何に負けたのか?情報に負けたのである。

思い込んだ常識に妥当性はあるか?これに破れかぶれで挑戦したのが九谷焼の昆虫シリーズである。そして思わぬヒットになったが、このヒットの背景には生活様式の変化がある。生活様式の変化を考えない常識はやがて非常識になってしまう。

栄養価の高いニンジンも九谷焼の昆虫シリーズも、状況が変わったからこそ市場に受け入れられた。

人が新たな行動を考えるとき、この状況変化を計算するのは基礎中の基礎だが、しかし案外と多くは考えていない。官僚組織が崩壊する場合、「前例主義」で変化に適応できないところから始まっていく。

しかし官僚の前例主義を嗤(わら)うことはできない。一般社会での基準の大半は前例に倣(なら)うからだ。しかし変化に対応したところが生き残り、変化に対応できないところは消えていく。

この事実があるから「守ろう」とする考えが意思とは反対の「破滅」に向ってしまう。

「前例」にはちゃんとした理由があり、その理由が現在も生きているなら「前例」も生きる。しかし前例が生まれた理由が消えたなら「前例」の意味を失ってしまい、意味の失った「前例」にしがみつくのはバカのすることだ。このバカを官僚は平気でやる。平気でやる理由は「自己保身」のためだ。周りに倣(なら)うのが安全なのでそうする。そうして集団全体が集団自殺に向いだす。

戦前の日本軍にはこれが支配したのである。理由を問わないで気分に従い、気分で負けていく。

我々が暮らす仕組みのどれだけが前例の理由を維持しているか?これを考えていく必要がある。知人が「農機具の中古品が高くなってやりにくくて仕方がない」とこぼしていたが、農機具の中古品が高くなるということは、高くなった分だけ新たに農業をやる人が増えたということでもある。

「石油の値段が安くなった」場合は石油を使用する状況が安くなった分だけ減ったということだ。「石油を使用する状況が減った」理由は何であるのか?世界的な事柄なので理由はゴマンとあるが、ここに思惑も入り込んでいる。「石油の値段はこの調子では上がらない」という思惑だ。思惑にはそれなりの根拠がある。

その根拠を探るには事実報道を丹念に集めるしかない。そして集めているうちに「何が変わった」ということに気がつき出す。ひとつの情報では判断できないが一定の数になると矢印の方向が見えてくる。これは玉突き現象の法則だ。

この玉突き現象の基になるのは、現在で言えばコンピューターなのである。さらにはインターネットだ。

ここを起点にして玉突き現象が放射状に広がっている。この放射状の広がりは必ず政治にも、だから行政にも及んでくる。それも及ぶ影響は外部からだけではなく、内部からも起こる。当然の話で仕事から離れたら人は市民の立場になるからだ。

今、政治家に要求したいのは法律のデジタル化である。

手を付けやすい地方自治体から始めるのが現実的だし、だから中心になるのは条例のデジタル化だ。条例のデジタル化が進むと、それを核にして地方情報を次々とデジタル化していく。デジタルというのは連結させるのが簡単だし、また簡単に連結できる仕様でないと後々、余計な労力と出費が出てくる。

筆者は相場歴がそれなりにあるのでネット証券の変遷も目の当たりで見てきた。証券会社の変遷ではなく売買ツールの変遷だ。これがどんどんとプロ仕様になっていった。

プロ仕様というのはより簡単に売買できる仕様であって、「プロ」という言葉の連想から来る専門的な難しさとは違う。少し考えれば解ることだが、プロの道具というのは仕事をしやすくする道具なので扱いが便利なのだ。素人向けの道具の方がかえって扱うのが難しい。

今度は「標準」という意味を探ってみることにする。

情報革命は民主主義革命でもある

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孫子003

コンピューターは記憶と演算の技術だが、これに通信が加わると記憶と演算は社会全体に広がってしまう。「誰でも、どこでも」リアルタイムに情報を引き出し、現在の直面する問題と照合して解決策を見つけるか、見つけられないときは社会全体にその問題を提示する。

秦の始皇帝や孫子などの理詰めの論理は二千数百年経った現在でも錆び付いてはいない。こういう論理がありながら現在の光景を作れなかったのは伝達技術が未成熟であったためだ。未成熟であった理由は数え切れないほどあるが、情報が日々、生まれてくるという性質に負うところが大きい。

具体的な例として法律を考えよう。

現在、我々の前にあるのは膨大な法律の山だ。日々、起きる出来事に対処するために法律が次々と作られてきた。この法律の山を全部記憶している人物は居ない。図書館の本を全部記憶している人物が居ないのと同じだが、しかし、どの棚にどういう系統の本があるということは図書館の係員も知っているし、知っていないと仕事にも職業にもならない。

しかしコンピューターは棚どころか、全ての本の内容を記憶しているのだ。

法律を全部、デジタル化すればどうなるか?産業革命では機械に代替される職業に従事する者は全部、失職した。代替というのはそういう事態を引き起こす。しかし、機械化によって新たな職業も生まれてくるので社会は崩壊するどころか、さらに発展し、かつ社会を高度化させる。

情報化も産業革命と同じ事を引き起こすが、情報という性質から産業革命をさらに上回る社会変化を引き起こすことになる。

要するに知識職業がコンピューターに代替されてしまうのだ。しかし知識職業というのは階層化された社会では上部構造の職業だ。ただ、コンピューターの記憶はすでに過去の知識の記憶であって、これから生まれてくる知識の記憶ではない。そして、これが問題なのだが、旧来の知識職業は過去の知識に依存した職業であって、これに当てはまる分野は非常に広範囲に及ぶ。数え上げても弁護士や、教師・学者、会計士・経理士、医者等々、きりがないほどだ。

もし法律が全部デジタル化したらどうなるか?

法律に関係した仕事は無数にあるので、その影響は社会を大きく変えてしまう。当然の話で法律は強制力を持った社会のルールであるからだ。これによって専門という蛸壺さえ消えてしまう。蛸壺に秘められた情報がいっせいに世間に放出され、文字通り「誰でも、どこでも」かって専門家が誇っていた知識を一般人が自由に駆使しだす。

ここで「またか・・・」とうんざりする自分話をやってみたい。AKBグループにHKTというのがあるが、このメンバーの一人がやたらとウィキペディアから引用した薀蓄(うんちく)を語る。しかし、17歳の少女の薀蓄に筆者は「なるほどな・・」と感心して聞いているのだ。

ネットに蓄積された情報を誰でも引き出すようになれば年齢など関係なく、知識は知識として聞き手を説得する力を持ってしまう。昔なら「天才少女」と言われた者がそこらに掃いて捨てるほど現れてくる。

これが情報社会の現実なのである。

知識を産み出す者と、知識を使う者に決定的な差が出てしまう。知識はネットから「誰でも、どこでも」流れてくるから知識を使うことが特別なものではなくなってしまう。しかし、知識を産み出す者の知識はなにしろ、現時点でネットに流れていない。ここから、産んだ知識を秘匿する者が出てくるのは簡単に想像がつく。ネットに流れていない知識には価値があると考えてしまう。

しかし知識は表に出して評価されるものだ。評価されて値段がつく。だから泣く泣く産んだ知識を結局は表に出してしまう。だから世間に知れ渡るまでしか知識の価値が保てない。

要するに情報社会では知識の秘匿は長い時間で見ると不可能なのである。

そうすると知識職業の特権性は消えてしまう。だから情報社会の初期には産業革命初期に起きた機械の打ち壊しのようなことを知識職業に就いている者はやってくるはずだ。いや、連中もバカではないから裏に回ってやっている。ネットに出回っている記事や書き込みにそれが散見できる。

しかし「それでも地球は回る」である。

ここで本当の民主主義社会の萌芽が出てくる。この萌芽は需給という形で姿を現してくる。実際、巷(ちまた)のいたるところで見えている。

筆者が企業活動を重視するのは多くの企業が需給で動いているからであり、需給は情報社会の反映でもあるからだ。体制べったりであるはずの企業が需給に従うので、結果的に従来の価値観を壊してしまう。

市場というのは強者の介入がない限り、民主主義なのである。需給そのものが多数の意思によって現われるから民主主義なのだ。これによって専制主義は息の根を止められる。

企業家は民主主義の考えを持たないと事業を興せないのである。多数の潜在需要を探るから多数の意向を読み取る必要があり、多数の意向を読み取ることこそ民主主義の出発点なのだ。

従って、当面は民主主義対専制主義の争いが続くはずだが、民主主義が社会の理念である限り、選挙という形で決着がつく。民主主義の風は政治にも及んでくるわけで、だからこの風に逆らうのは愚の骨頂とも言える。

風の方向が解れば自分の生き方も自然と解る。
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