泣かせる掲示板

泣ける掲示板の体験は初めてだった。筆者は毎日のように指原ファンが作った指板を覗いているが、いつもはアンチ指原の書き込みが多くて飛ばし読みをしている。しかし今回はHKTドギュメンタリー映画を指原が監督しているのでネタバレ解禁ということもあって続々と映画の感想が書き込まれた。この感想で泣けてきた。

掲示板は短文だが、しかし次々と人が書き込んでいくと立派な長文の映画評となってしまう。また書き込む人が多彩なので一つの映画を様々な角度で読め、一人の人物が書いた一面的な映画評より結果的に優れたものとなっている。本来、掲示板というのはそういう優れた性格があるのだが、ここに目立ちたがり屋や目的を持った工作員が書き込んでくるとその優れた掲示板の性格が停止する。

しかし皆が書き込みたいという対象が出てくると書き込みは対象から乖離しないまま大きな波を作る。これで本来の掲示板の優れた性格がよみがえってきた。HKTに詳しいと個別のエピソードの量もかなりになるので短い言葉でもすぐにメンバーの顔を思い浮かばせることができる。そして映画で「こういう場面があったが、これはあれと関係がある」などと教えられると「どこで涙が出てきたか」も色々ではあるが、多くは筆者も同じ気持ちになって泣けてきた。この場合、監督の指原はHKTメンバーをつなぐ媒体だ。

筆者は指原ともう一人の尾崎支配人の運営は経営のモデルとして残るものだと思う。秋元康会長の下に指原社長、それを補佐する尾崎副社長という経営の布陣には語るべきことが多い。この布陣の下で10代から20代初期の少女達がビジネスと絡みつつ青春を突き抜けていく。

秋元康のリアル青春群像小説は確実に指原に受け継がれている。「マイケル・ムーアの映画を観ろ」という秋元の指原への助言は見事だ。対象を深く描くことより、描いている自分をも登場させることで平面から立体に映画を持っていったのがムーアなので、指原自身がHKTメンバーということも伴って、むしろムーアより指原の方がこの手法では適切なのである。

映画自体で泣かせるのも、指原の「皆で頑張ろう!」という「皆」を頭に置いている運営姿勢があるからで、この運営姿勢がなければ泣く場面など疑問だらけになって一時的な感傷になってしまう。ちなみに筆者は映画を観ていないので映画評を先入観や思い込みで書くつもりはない。掲示板の続々と書き込みがある映画評で泣いたから、その掲示板と連想が書く対象だ。

前述の「経営モデル」としたのは秋元康が現実主義の側面を持っていることからだ。「HKTは皆で仲良くを路線にしよう」と秋元が提案し、それを念頭に置いて指原支配人も尾崎支配人も運営をしているが、これは前田敦子をスターにしてAKBを確立するという運営方法と真逆になる。秋元康は乃木坂の路線でも対立的な提案をよくやるのだが、これは「検証と実証」の考えから来ているのだろう。真逆にしてそれぞれの強みと弱みを浮き上がらせ、時と状況によって対立的な集団の双方に相手の強み、あるいは相手の弱みを持ち込んでいく。そうして集団の堅牢性を築き上げる。

これを実際に実行するにはこの秋元の基になる考えを理解していなければならない。基になる考えを理解していれば秋元康が「1」を言えばすぐさま「5」や「6」に連想が働く。この理解が指原や尾崎支配人にはある。

掲示板の書き込みに「俺が好きなのは推しメンだけではなく、推しメンが居る場と空気が好きなんだ」という書き込みに「なるほど・・・」と筆者は卒業メンバーのその後を連想して首肯した。「場と空気か・・いい言葉だ」と筆者も思う。時代性もこの言葉で説明できる。歴史を読むときは「場と空気」を働かせなければ見当外れの解釈になってしまう。

次に「皆で仲良く」は日本人の多くが自分を律するための基準としている。それがあるから日本社会は「競争」より「協調」が肌に合い、この協調性が競争を基準とする諸外国に「全体主義」と誤解されてしまう。もちろん市場主義でもあるので競争も日本では激しいが、しかしそれは表層の部分であって、その表層をさらに掘り下げると日本人は協調の顔を見せる。秋元康がそこまで考えてAKBグループをそれぞれ対照的な路線を進ませようとしているなら素直に頭を下げたい。
スポンサーサイト

民主主義社会に王手!

【第一次産業】= 人間が自然に働きかけて営む産業。農業・牧畜業・林業・水産業・狩猟業など。

【第二次産業】=第一次産業の生産物の加工を営む産業。製造業・建設業など。鉱業は第一次産業に含めることもある。

【第三次産業】=商業・金融業・運輸通信業・サービス業・自由業など、第一次・第二次産業以外全部の産業。

主力になる産業構造の推移だが推移していく基になるのは余剰の発生と量だ。農業でも余剰が生まれなければ物々交換もできずに原始生活が続いていく。これが米や麦などの穀物で消費する分を上回る収穫ができると、魚や鹿やウサギなどを主力にする人達と収穫した穀物を交換できる。アマゾンの未開住民の暮らしを記録した動画を見る限り、穀物栽培はかなり水準が高い。ほとんどは果実などの採集生活をしている。山岳地帯では牧畜が主力になるが、こちらも狩猟と違って確実性がある。

専門の分化は住む状況で変わってくるが、食料というのは保存では肉でも魚でも乾燥するしかなく、そうなると余剰に有利なのは米や麦などの穀物だ。こういうことを書いたのは需給による社会構造の変化を再確認するためで、余剰は拡大再生産のための投資であることを再認識したい。投資の歴史は余剰発生から始まっている。これによって文化が生まれ、文化が拡大していくと文明と呼ばれるようになる。

これを基礎的な認識にすると所得格差の拡大は社会を壊す危険な兆候であることに気が付く。個人もまた投資をしなければ生活向上はできない。その投資の原資は生活費を上回る余剰金で作られる。しかし所得格差のメカニズムは農奴がそうであったように「生かさず、殺さず」というかっての封建主義に向かいだす。北朝鮮が現在でも飢餓に怯えた社会を維持できるのは政権の暴力によってだが、この暴力を支えているのは余剰を独り占めすることで住民を弾圧できる警察や軍隊を手中にしているからである。名前が社会主義であろうが国家資本主義であろうが、このメカニズムが働いている社会は封建領主支配の社会だ。

同時にこのメカニズムは拡大再生産をしない循環社会を作る。個人から投資の機会を奪い、現在やっていることを変更させない。階級的言い方であれば労働者は工場は変わっても一生労働者として生きる。封建時代の例で「領地の住民は飼い犬のような私有物だ」と書いたが、飼い犬が勝手に動けばそれはもはや飼い犬ではない。野犬だ。野犬は誰の所有物でもないので所有争いもなしに殺処分ができる。これで領主は飼い犬、いや奴隷を働かせて安穏と暮らすことができた。拡大再生産の必要性が領主にはないのだ。もちろん、奴隷として働かせられる住民はたまったものではないが。

所得格差が酷くなるとこういうことが起きるが、しかし民主主義社会になると金持ちも貧乏人も政権を作る選挙の1票は同じだ。ひとり1票という制度は封建主義と決定的に異なるものであって、封建主義へ逆戻りする堅牢な防波堤となっている。

冒頭の第2次産業から第3次産業へと社会の主力が移行するのは社会が豊かになってきた証拠でもある。第1次産業主力から飛躍的に生産を増やし、その飛躍的に増大した余剰が第3次産業を生んで拡大させる。江戸末期になると商人は侍を「貧乏侍」と陰で嘲笑った。侍の仕事は有事に備えて武術に励むのが本分であったためにカネを稼ぐことは忠義に反すると白い眼で観られた。身分固定の循環社会でもあったので個人的な投資もできず、一方で商人どもがやりたい放題にカネを稼ぐ。商人は物流も担っているので動くのが仕事だ。この動きと需給が結びついている。

商人のボロ儲けの逸話は紀伊国屋文左衛門などと実に多い。この商人と大名が手を結んでいるので一般の侍は手出しもできず、生活を向上させるには事務方の役職を手に入れるしかないが、侍もまた侍の中の身分があるので簡単には出世できずに貧乏生活を続けるしかない。ちなみに坂本龍馬の実家は豪商と言ってよい商家である。

『坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益の時に長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。 土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。』

こういう環境で育ったために坂本龍馬は海援隊を作って世界を股にかけた商社設立を夢見たのだろう。その夢を実現させるには身分社会の封建性が邪魔と考えたのは容易に想像できる。同じような考えで米国も南北戦争が起きている。年代的にも近い。北軍のバックには産業経営者がおり、南軍は黒人奴隷を使った農場主がバックだ。坂本龍馬の誕生は1835年、米国の南北戦争は1861年で坂本龍馬が26歳の時だ。ちなみにマルクスは1818年。封建時代から産業社会の変わり目であることが解る。

こういう歴史による俯瞰は現在でもやるべきで、でないと目先の事件が何を意味するのかを理解できなくなってしまう。日本の場合は敗戦して体制的には封建主義の呪縛から解かれた。日本の議会制民主主義は1946年の敗戦直後、米国の占領政策として為された。これによって男女、貧富に関係なくひとり1票の選挙制度が確立されたわけで、それまでは明治時代の納税条件、大正時代の男子25歳の普通選挙であって女性には選挙権がなかった。

これは重大な価値観の変更であって男女共に一個の人としてみなすという、今では当たり前の平等主義だ。これによって封建主義の根底が崩された。「米国が作った憲法だ!」などは関係がない。封建主義社会から市民社会に移行するための絶対条件として日本国憲法を捉えるべきだ。でないと領主社会に逆戻りしてしまう。歴史の逆行だ。

経済もこの社会の変遷から外れることはない。というより、経済の拡大が住民の社会意識を変える。領主の支配から鎖を解かれた領民はまず、自分の生活を豊かにしようとする。生活を豊かにするためには繰り返すが自己判断での投資が必要であり、それを皆がやるから社会は拡大再生産に向かう。このメカニズムが働いている限り社会はより豊かになっていく。しかし、ここで封建的頭の持ち主が権力を握っていればどうなるか?このメカニズムを止めてしまうのだ。また封建主義のメカニズムを理解できていない者は自分がひと昔前の封建主義者であることを自覚していない。

だから皆が納得しやすい「社会システム」というような技術的概念で社会を捉えようと言っている。技術に資本主義も共産主義もない。ある目的があったら最適化したシステムを組むだけである。そして様々なシステムが出来上がり、そのシステムをまた最適化するシステムを組む。ここで重要になってくるのは「社会は何を目的とするか?」であって、ここに民主主義制度が出てくる。国民の多数の意思だ。多数の意思が反映する国体こそ民主主義の国である。

そして多数の意思が出せるインターネットという場が出てきた。あとは互いに啓蒙して選挙で決着をつける。「日本が好き」という国民意識は80%を超えるのだから、あとは本当に「自分たちの国」と言える社会を作らねばならない。そして今度こそは可能なのだ。

ノーベル賞と現実認識

スウェーデンが変わったなと思ったのは青色発光ダイオード功労者の中村修二にノーベル賞を与えたときだ。これによってノーベル賞の定義を変えたなと思った。それ以前は学問的成果に偏って「世界に与える影響」という視点が希薄だった。「世界に与える影響」という視点になると現実世界の分析が必要になってくる。

『大学院修了後、日亜化学工業に就職し、開発課に配属される。現場の職人からガラスの曲げ方などを習い、自らの手で実験装置などの改造を行った。これらの経験が、CVD装置の改良に生かされ、後の発明に繋がる。

日亜化学工業時代に商品化したものとしては、ガリウム系半導体ウェハーなどがあったが、ブランド力や知名度が低く売れなかった。その頃、名古屋大学の赤崎勇教授のグループが青色発光ダイオードの実現に絶対不可欠な高純度の窒化ガリウム(GAN)の結晶膜に、世界で初めて実現したという公開された論文を手に入れ、検証実験を繰り返し、基盤となる青色発光ダイオードの原理を学習した結果、まだ実用化できていないものに取り組もうということで、青色発光ダイオードおよび青色半導体レーザーに挑戦することを決意する。青色発光ダイオードの開発を社長の小川信雄に直訴し、中小企業としては破格の約3億円の開発費用の使用を許される。

中村は1988年4月から1年間の予定で、アメリカ合衆国のフロリダ大学へ留学する。有機金属気相成長法を勉強するための中村の希望であったが、日亜化学としては元々、徳島大学助教授酒井士郎の勧めで、フロリダ大学へ誰か社員を派遣する計画であった。中村は修士修了で博士号を持っていなかったため、留学先で研究者として見てもらえず悔しい思いをしており、「コンチクショー」と博士号取得や論文執筆への意欲を新たにした。

1年間の留学後、日亜化学工業に戻り、2億円ほどするMOCVD装置の改造に取り掛かる。会社命令を無視、会議にも出席しない、電話に出ないと、通常のサラリーマンとしては失格と言われても仕方のない勤務態度だったが、度量の広い創業者社長のおかげで破格の研究費の下で実験を続けた。なお、2014年に中村修二へのノーベル物理学賞授与が発表されたとき、中村修二はインタビューに応えて「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べている。』

『なお、アメリカで研究を続ける都合により、中村は米市民権を取得していた。ノーベル賞受賞者発表時には一般に知られておらず、またプレスリリースにある「American Citizen」の解釈でインターネット上の議論を巻き起こした。ちなみに受賞後のインタビューにおいて、本人は米国籍を取得したが日本国籍を捨てたわけではないと答えているが、日本の国籍法は自ら他国の国籍を保持した際の二重国籍を認めていないため、本人の意思とは関係なく米国籍の取得時点で日本国籍を自動的に喪失していると考えられる。

平成26年11月4日官報では、「アメリカ合衆国人 中村修二 文化勲章を贈与する」とされており、日本人として「文化勲章を授ける」とされた他の6人の文化勲章受章者とは明確に異なる取扱いがなされている。』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%BF%AE%E4%BA%8C

『1990年代に青色発光ダイオードが開発されて以降は、LEDによる白色光照明の実用可能性が高まり、局所照明を中心に徐々に市販製品が登場している。

低消費電力で長寿命といった、従来の白熱電球を置き換える電球形蛍光灯と同じような可能性があり、長期的には、今後の技術開発に伴う価格と消費電力、騒音の低下によって直管型蛍光灯を含めた従来型の照明器具のかなりの割合を置き換えるのではないかと期待されている。』
https://ja.wikipedia.org/wiki/LED%E7%85%A7%E6%98%8E

『エジソンの発明した「白熱電球」はエジソンの 業績の中でもっとも価値のある物でした。 この発明が発表された当時「世界から夜が消えた」と呼ばれたように、白熱電球は現代に おいてもなお大きな恩恵を与えつづけています。また、エジソンの白熱電球は京都の八幡 村にある「竹」に出会った事で完成されました。現在、エジソンの発明から発達したあら ゆる機械が世の中に溢れています。そして私達はその恩恵に 与かり非常に豊かな生活をしています。
 しかし残念な事にテクノロジーが発達して、全てが良い方向に進んだと言うことは出来ません。 文明機器が発達して、その機器からは電磁波と呼ばれる人体に有害な電波が発信されています。 しかし「白熱電球」 を完成させた「竹」は今、再び私達に大きな恩恵を与えてくれるのです。 「竹」を炭にした「竹炭」、この「竹炭」は電磁波は防ぐ効能があると言われています。 電磁波自体を竹炭で完全に吸収・遮断するのは難しいのですが、竹炭によって、かなりの電磁波 を生体的には防ぐことが出来るようです。』
http://www.ritsumei.ac.jp/~hyodot/semihomepage/koduchi.take=yama1.html

スウェーデン→ノーベル賞→青色ダイオード→LED電球→エジソンと白熱電球・・・と連想の流れを示した。こういうことはインターネット以前には考えられない思索過程だ。ネット検索なので1時間もかからないから思索の中断がない。筆者はブログをやりだして自分でも感心するほどに物知りになった(苦笑)。連想と検索過程で予想していなかった情報も度々出会う。こういう体験からインターネット以前の「物事を調べない人」に対して侮蔑した感情が出てくる。これは知識の多い少ないことではなく、インターネットに対する認識がないことによる。

だから中学生でもインターネット検索で知識を増やしていく少年・少女をそこらの学者より評価する。ネット以前に育った人間とネット以降に育った人間では人間が違ってしまう。思い込みの思考がネット以降では少なくなる。意見の違いが出てくると「ちょっと検索してみます」とスマホなどのツールで調べるのがネット以降で育った人間。

ノーベル賞の基準が変わったのは学問的成果に偏ると現実認識が弱くなってしまい、ノーベル賞自体がやがて権威を失ってしまうという危機感を選考委員の多くが持ち出したのだと思える。この現実認識で「難民を追い出す」という従来のスウェーデンの持っていた正反対の態度に大きく変えたと観る。それにはインターネット以降、「権威」の認知が大衆からどんどんと弱くなってきた事情がある。

世界に大きな影響を与えるという意味では「カラオケ」も「カップヌードル」も同じだが、こちらは依然、ノーベル賞の候補にはなっていない。しかし、現実認識がしっかりしてくると「カラオケ」も「カップヌードル」もノーベル賞の対象になって不思議ではない。ま、これによって無駄に威張る「権威」は最後の崩壊に至るだろうが。

スウェーデンの決断と欧州の今後

『【AFP=時事】スウェーデンのアンデシュ・イーゲマン(Anders Ygeman)内相は27日、2015年に同国に到着した移民のうち、難民申請が却下された6万~8万人を国外退去処分とする方針を発表した。通常、国外退去処分者の移送には民間航空機を使用するが、対象者が莫大な人数となることから特別機をチャーターするという。全員を退去させるまでには、数年を要する見込みとしている。

 人口約980万のスウェーデンは、欧州連合(EU)加盟国のなかで人口比に対する難民受け入れ数の割合が最も高い国の一つで、昨年には16万人以上の難民申請者を受け入れた。しかし、今年1月4日から国境での写真付き身分証明書による身元チェックが導入され、スウェーデンに入国する移民の数は激減している。

 スウェーデン西部沿岸のモルンダル(Molndal)では25日、身寄りのいない14~17歳の子どもたちが暮らす難民施設で少年が女性職員を刺殺する事件があり、当局は過密状態となっている難民施設での警備強化を呼び掛けている。少年が職員を刺した動機は今のところ不明だ。』
【翻訳編集】AFPBB News
http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51911976.html#more

これは「政治の敗北」と言ってよい。この難民問題によって政治家の頭が粗雑で、しかも粗雑にとどまらず現実認識が致命的に欠けていることを露呈した。また事件隠しをしたマスコミも同罪だ。これによって確実に国民の意識は変わる。だから「政治の敗北」と書いた。以降は国民が現実認識をした対処を要求し、政治家はもとよりマスコミをも強い監視で見守っていくはずである。いや、スウェーデン国民だけでなく世界の国民がインターネットを通じて事態の推移を見守っていく。

これは移民政策と直結するもので、文化や人種・民族と融和することの難しさを教えるものとなったが、また移民政策の偽善性もこれから暴かれていく。欧州の移民導入はヒトラーのロシア侵攻でロシア人を奴隷としてこき使う狙いであるのと基本は同じだ。元々、移民への期待は下層労働を目的としたものあり、だから景気が悪化するとしわ寄せが移民に向けられて一般国民より移民層の失業率が何倍にもなった。この不満と怒りによって移民を中心とした暴動が欧州各国で起きている。

「では下層ではなく上層部の仕事を移民に任せたらどうか?」これが日本の移民討議で出ている。これもまた自国中心のデタラメな論理であって、上層部の仕事をやれる人材は移民側の出身母国が必要としている人材だ。それを奪ってどうする?

それだけではない。上層部に移民を入れることによって移民支配の構図が生まれてくる。上層部は権限をも持っているので間違いなく母国から仲間を引き寄せる。結果、日本国民のための政策がやりにくくなり、日本社会発展は遅れ、まかり間違えば発展の土台さえ崩されてしまう。東日本大災害よりも危険な人災を政治家が引き起こすのだ。実際、在日朝鮮人や潜航している中国人工作員が政治やマスコミに侵入している疑いがある。こういう疑いは地震や津波と同じであって、確証がなくとも対策をする問題なのだ。起きてからでは手遅れになるから事前に予防処置をとる。

次に移民国家である米国と当初から歴史的な国を持っていた諸外国は成り立ちが違うので、米国とそれらの諸国を同一視した議論は論理的にも粗雑である。北米は広大な大陸を持ち、しかも原住民が少ないという状況で移民や黒人奴隷を入れて現在の米国がある。しかも米国の移民史は明確に人種差別で成り立っている。これを考えると米国モデルは特殊であることが解る。特殊なモデルは世界モデルになりようがない。

こういうことは少し考えれば容易に結論が出る事柄だが、それを強引に推し進めるにはそれなりの口にできない理由があるはずだ。何者かの主導による少数勢力の多数支配だ。「世界は大きいのにそれが可能なのか?」という一見、現実主義的な問いが出そうだが、ピラミッド階層の社会では可能であり、歴史を振り返ってもモンゴル帝国や欧州の植民地支配のように可能であった。

『宇野正美氏監修の「ニュー・ワールド・ビュー」誌にはアメリカからの記事として、ロスチャイルド家が中国に肩入れする背景が書かれています。以下に実際の記事を引用します(9月25日号p.10):

(引用始め)
これによってわかるように(注:ダボス会議が大連で開かれたこと)、ロスチャイルド家が中国経済のゆくえに大きく関係していることと、中国経済を世界的な視野で指導していることが分かる。中国共産党が指導する中国にロスチャイルド家が大いなる関心を抱いているのである。昨年、リーマン・ブラザーズが倒産して、世界大恐慌への動きがゆっくりと始まった。アメリカばかりかヨーロッパも、世界中がその津波にのまれるようになっているのである。その津波の勢いをそのまま放っておくならば、全世界はロスチャイルド家の予想をはるかに超えて、大いなる崩壊の道を歩まざるを得ないであろう。特に生産業においての打撃は大きすぎる。
このようなことからロスチャイルド家は、世界経済における生産業、また製造業を支える必要があるとして、中国への関心、投資、指導を深めていっているわけである。
そして今年9月10日~12日に、中国・大連で夏季ダボス会議を開いたわけである。その日程を見れば、ちょうどリーマン・ブラザーズ倒産の時から1年が経過していることが分かる。
今日、中国経済が崩壊していくならば、世界経済も勢いを増して全体的に衰弱していくことは誰の目から見ても読み取ることができるであろう。
しかし、現実は「中国経済が頼りである」と言われるように、不思議に中国経済は立ち直りが早く、多くの人口を抱えているがゆえに、経済は内需によって保たれている……ロスチャイルド家がその中国経済の背後にいると言うことは、非常に大きくて、かつ重要な情報と言えるであろう。
(引用終わり)』
http://kirisutoinochi.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=130167579

この引用部分は他にも色々な人が書いているので抜粋した。世界的謀略というのは空想あるいは妄想と片付けようと思えば簡単にできる。しかし、やはり自然災害と同じように備えは必要だ。後戻りできな地点までことが進めば元には戻せないからだ。「元」というのは現在の民主主義体制のことだ。

中国が提唱し設立したアジアインフラ投資銀行(AIIB)もロスチャイルドの意向が働いていると言われ、また「中国ではロスチャイルド派とロックフェラー派の代理戦争が始まっている」とどこかの記事で読んだ。これを主題にすると検証だけでも膨大なページ数になるから避けるが、少数の多数支配については今まで書いてきたようにマスコミを押さえれば比較的に簡単なのである。マスコミを使って言論統制をやり、かつ政治宣伝を継ぎ目なくやればよい。筆者がダボス会議に疑念を持つのはこのメカニズムに乗っているからだ。

英国の植民地統治は間接統治であって、当地の支配階級を代理人として使った。また民族的対立を利用して、シンガポールならインド人を警察に取り入れて憎しみをインド人に向けるようにした。日本も満州支配の時には朝鮮人を警官として多数採用し、中国人の憎しみを朝鮮人に向けるようなこともしている。こういう間接統治の歴史があるので筆者はダボス会議に警戒心を持っているのだ。

政治的な話はこのブログの中心課題ではないのでここで切るが、欧州はこれから論理の混乱に向かうと考えている。ピラミッド型社会はインターネットの登場で試行錯誤、つまり権力の抵抗によってふらつきながらも本来の民主主義の理念通りに収斂していく。市場経済を認めるならそうなるしかないのである。市場とは全員参加によって成り立つから基本的に民主主義なのだ。供給に対して多数の需要があれば値段は上がり、少数の需要なら細々と商売を続けさせる。あるいは儲からなさ過ぎて廃業。

この市場による民主主義と封建主義のピラミッド統治主義は必ず対立する場面が出てくるが、しかし近代に入って市場経済を否定する封建主義や統制主義の欠陥が、ヒトラードイツやソ連などの共産主義諸国によって証明されてしまった。「何が民主主義か?」、むしろこちらで意見が増えてくる。「衆知」というのは侮れないのである。

テレビ電話による潜在需要の凄さ

筆者は「インターネットとは何か?」と3年以上考え続けている。もちろんインターネットが世間に広まる初期の頃からやってはいるのだが、ある時期までインターネット解説の範囲で収まっていたので強い疑問がわいてこなかった。初期のころは「ネットサーフィン」などの言葉が飛び交うお気楽なものだったが、知人に勧められてというか、強い要請があって嫌々ながらSkypeを始めたことによって急に眼が開くことになった。「情報革命とはこういうことだったのか?」という驚きだ。

もちろんそれまでにもワープロがパソコンに替わったり、インターネットが始まって手紙や葉書がメールに替わったり、それ以上に唸(うな)らされたのは動画までディスプレで観れるようになったことだ。ディスプレ画面いっぱいに動画が出てきたのには驚いた。これは伝送量が飛躍的に増大した結果ではあるが、理屈では理解できても感覚では「うわぁっ、すげぇなぁ!」となってしまう。この変遷がわずか10年もかからずに起きた。こうなると色々と考えずにはおられない。

技術の進展速度は商品やサービスの変化で現れる。この速度がインターネット以前と比べると間違いなく速くなっている。速度慣れしているからより以上の速度に驚くこともなくなったが、改めて振り返ると猛烈な速度変化だ。だから技術に関心を持った。これは現在まで続いているが、技術のこれまた猛烈な速度変化にもかかわらず、社会は一向に変わる気配がない。いや、所得格差の拡大などでさらに悪化している。「これはどうしたことだ?おかしい・・・」と、今度は社会に関心を持ち出した。

社会に関心を持てば必然的に政治にも関心を持ち出す。若いときに政治活動はやったが周りの非合理な連中に嫌気を差して自分の黒歴史として封印した。だから改めて政治に関心を持ったときは頭の中がリセットされている。しかし多少の知識や体験があるので分析はできる。政治のメカニズムを考えると日本は議会制民主主義の体制なので結局は選挙で政治の方向が決まってくるが、とすると選挙運動が焦点になるのでマスコミという存在が浮かんできた。マスコミは歴史を振り返るとヒトラー・ドイツも共産主義運動も一番重視した言論統制の部門である。

クーデターでもかっては議会とラジオ局を最初の制圧目標とするくらい政治的に重要な部門だ。この部門を制圧して言論統制をすることになるが、それは言論を抑え込むだけではなく一方的な政治宣伝にも使う。この政治宣伝として何者かが使っているとしたらマスコミは言論の場ではない・・・ここまで考えて「政治を変えるには最初の敵はマスコミだ」という考えが出てきた。しかも、この「社会の敵」という観点で観るとマスコミは社会を良くしようという方向にまったく動いていない。しかもインターネットの登場で「社会の敵」である姿勢を隠すこともしなくなった。

これはこれでいくらでも論じることができるが、ひとまずはSkypeの話に戻る。テレビ電話をやりだして生の会話の重要さに気が付いた。それまでのメールのやり取りはやはり言葉不足がはなはだしかった。これはテレビ電話をやりだして気が付く。同時にこの雑談以外の応用はものすごくある。例えば病院だ。薬をもらうために月に1回病院に向かうわけだが、待ち時間1時間で問い診5分ということがざらにある。これをテレビ電話にすると、気になる新たな症状が出ない限り看護師でもやれるはずだ。新たな痛みなどがあれば医者に替わってもらう。その問い診で「病院に来てください」となれば行けばいい。

老齢になると病院の「はしご」が多くなる。内科に眼科、さらには歯医者と、ひとつだけの病院通いではなくなる。こうなると費用も時間もばかにならない負担になってしまうが、さらには若い時と違って体の負担も無視できない。こういう個人的な負担だけではなく健康保健組合などの公機関の負担も比例して大きくなる。これが健康保険料として病気になっていない人まで巻き込んでいく。

かって診察料が安いときは病院が老人の社交場となっていた。わざわざ病院に行くまでもないのに馴染みの人と話をしたいために病院に足を向ける。が、今は本当の病気持ちが増えたので病院はそういった老人でいっぱいだ。そういう状況では社交気分で病院に行けるはずがないが、しかし病院通いに慣れてしまうと医者の言葉を聞かないと不安になってしまう。こういった軽度な患者は相当の数に上るはずだ。この数を減らすにはテレビ電話が一番なのである。

もっとも、テレビ電話の登録相手は10人くらいまでが適数で、それ以上になると専門の通話調整の会社が必要になってくる。そういうサービスをする会社の出現を早急に願いたい。問題は医師会がどう出てくるかだ。あと、薬局。これは将来的に「健康システム」として繋がると思う。「健康システム」が生まれると国家の医療費削減にもなるわけだから政府が動かなければならない。

自分の体験を一例として提示したが、就職でもテレビ電話は雇う側でも雇われる側でも負担を一挙に軽減する。これも面接調整のサービス会社が必要になるからそういう形態のサービス会社が出てくるはずだ。テレビ電話は人対人の関係を復活させるツールなので潜在需要はものすごくある。しかもサービス会社設立の初期費用は設備関係ではないのであまりかからない。・・・・これ、乱立する可能性があるぞ。

ともあれ、サービス社会の実際はこういう展開になると思える。

迫るサービス社会

「スイスの企業The Wall AGが提案するのは、なんと「紙でできた家」。気になるお値段は5000ドル(×119=59万5千円)。広さはおよそ120平方メートル。8人が住めるようになっています。素材は古紙を原料に、レジンで固めたセルロースを使用。壁などはハニカム構造となっており、充分な強度があるとのことです。

現在すでにナイジェリアやアンゴラから問い合わせが入っていて、ナイジェリアからは既に発注をかけた企業もあるそうです。そして世界中の都市部の生活困窮者の需要もある気がしますね。いい技術の使い方だと思います。」
http://www.gizmodo.jp/2009/01/44kami.html

「「建築のノーベル賞」とされるプリツカー賞を、坂茂(ばんしげる)氏が受賞した。同氏は、安価な材料を再利用し、災害に遭った地域に低価格の住宅を建てたことで、国際的な評価を得ている。紙の筒で建物を作る彼の技術は、自然災害だけでなく、人災による被災者のシェルターとして、ルワンダやインド、日本でも利用された。」

「1995年の神戸・淡路大震災、1999年トルコ地震、2001年インドの地震でも、坂茂氏は迅速に動き、被災地にダンボールでできたログハウスを建てた。2004年のスリランカの津波災害後には、瓦礫やココナツチーク材などを用いて建物を造った。2008年には、中国四川省の地震被害があった地域でも活動した。

 2011年には、東日本大震災の復興支援にあたった。さらに、ニュージーランド地震で損壊したクライストチャーチの大聖堂建設にも、無償で協力したという。建設に使われた表面を加工したダンボールは、少なくとも50年の耐久性があると報じられる。イギリスの建築雑誌アーキテクツ・ジャーナル(AJ)は、一時的なものとして建てられた大聖堂だが、クライストチャーチ再生の象徴として今後も在り続けるだろう、と報じている。」

「 坂氏は、安価な材料を用い、職人技を駆使し自然光を利用した建築をデザインする。これが、日本デザインの伝統だと言ってしまうのは容易い。しかし彼は、建築についてはアメリカで学んだのが始まりだ、とウォール・ストリート・ジャーナル紙は報じている。

 彼は、「日本建築の影響は、リチャード・ノイトラ、ルドルフ・シンドラーから受けた。カリフォルニアのケース・スタディ・ハウスを見学に行き、建物の内と外の関係を学んだ」と話したという。また、アルヴァ・アールト(フィンランド人建築家)の素材の用い方、環境の空気を深く理解した建築手法にも学んだ、と同紙は解説している。」
http://newsphere.jp/national/20140325-6/

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最初に紙の家の値段を持ってきたのは、安価と言っても具体的な値段が提示されないと見当が付きにくいし、また値段が出れば紙以外の家とどれほどの値段の差があるのか?を知ることができる。これは東日本震災の仮設住宅の妥当性と繋がるから見落とせない。「妥当性」と書いたのは震災便乗商売を防ぐためである。

こういうことを考えたのは坂茂が東日本震災のときに「紙の家を提案したとき難渋した」と講演で述べていたためだ。「構想力」絡みで坂茂を取り上げたのは「建築設計」+「構想力と実行力」の人物であるからで、人道性はややこしくなるので考慮していない。東日本震災のときに「紙の家を提案したときは難渋した」ということだが日本の役所を思い浮かべると「あいつらは、ま、そうだろうな」とすぐに首肯できた。この時期は民主党政権であったが、民主党云々よりも役所の動き方が官僚的、あるいは軍隊的なので自主的な判断をしないのが主因だ。

情報時代では組織の在り方を問うような大変化を伴うもので、この「組織の在り方を問う」には行政も例外ではない。東日本震災については震災状況を撮影した大量の動画がネットに上げられているが、ある意味、人類史で初めての現象でもある。

「ストリートビューで被災地の状況を記録しようというアイデアは、震災直後からクライシスレスポンスコアチームの間で出てはいた。しかし、すぐに役立つわけではないストリートビューで現地の救援活動を邪魔するようなことがあってはならないため、優先度は下げられた。それに実際のところ、震災直後の被災地はあちこちで道路が破壊され、給油所にもガソリンが供給されていなかったため、物理的にストリートビューカーを走らせることが不可能だったのであるが。

 震災直後の混乱がある程度おさまってきた 4 月になると、コアチームは再度ストリートビューの検討を始める。中心となったのは、仙台出身で米国本社勤めの河合敬一である。被災地のストリートビューを撮影することは、はたして該当地域の人々に受けいられるだろうか? 社内にも慎重論は多かった。

 しかし、被災地を取材しているジャーナリストや大学の研究者らにヒアリングしてみると、肯定的な回答が寄せられた。彼らは資料として残すためにあちこち撮影をしていたが、東日本大震災の被害地域はあまりにも大きく、各人のカメラで撮影するには限界がある。位置関係も含めて膨大な地域を映像として記録するには、専用機材を搭載した自動車から撮影するしかない。コアチームの河合らは、被災した各地の自治体に足を運び、被災地の迷惑にならないよう撮影を行う旨、説明を行った。」
http://www.google.org/crisisresponse/kiroku311/chapter_24.html

これはグーグルの動きであるが日本企業でこういった動きが出ないのはどうしてか?と思ってしまう。この記事は最小に抜粋しているために彼らの考え方が解りにくい。で、本文をきちんと読んでほしい。

「紙の家」での安価は仮設住宅の費用が安くつけば、その分だけ災害復興の他の部分に費用を回すことができる。ボランティアの問題点は無報酬が基本なので災害復興に本当に必要なコスト計算を邪魔してしまうところにある。また災害復興の優先順位は迅速性だ。災害が起きた時期は冬なので着の身着のまま路上に放り出されていれば助かった命も危うくなってしまう。だから仮設住宅の完成に時間がかかってはならない。その点、紙の家は迅速性においても合格だ。

問題は「紙」という言葉で起きる。「紙は雨などの水に弱い」という思い込みだ。この思い込みで担当者は検討もしないまま提案を退(しりぞ)けてしまう。こういう態度は権限を持った者に多いから一般的だと考えたほうが良い。しかし、東日本の役所の態度は他の地域の震災も予想される現在、あってはならないものだ。今度は自分が寒さで震えるかもしれない。

筆者は公務員採用で一番重視すべきはパソコン使用能力だと考えている。学校の成績など住民にとっては全く役に立たないもので、上記の震災の例では提案があれば直ちに検索して概要を知るくらいのことはやれる能力を求める。これが情報時代の組織であって、公務員全員がパソコン操作をやれなければ組織の情報の流れが断絶して仕事にならない。同時にこれはトップが命令すべきことなので、トップである市長や知事が「情報時代の組織とはどうあるべきか?」を考えている人でなければならず、住民も知事や市長を選ぶとき、これを目安にする必要がある。

大きな時代の変化は、その時代に生きる人すべてに考えの変更を迫るものだ。

サービスとは「人の役に立つ」行為であり、この行為が新たな需要と供給を生む。基準は「人の役に立つ」である。もちろん「人を楽しめさせる」も立派に「人の役に立つ」供給であり、サービス業の展開はさらに広く、より緻密になっていく。この流れで製造の在り方も変わり、製造の在り方を変えろと需給で迫ってくるのが「サービス」なのだ。でないと製造が生み出す製品が売れなくなってしまう。同時に「サービス」はコンピューターなどの機械ではできない人の心に訴えかけてくるものなのでコンピューター社会に怯える必要もなくなる。コンピュータはあくまで人の「道具」だ。

コンピューターに勝つために

今回は確かめもせずに削除した前々回記事の続きなので繋がりが怪しくなってしまったが手直しせずに載せてみる。

液晶一本のシャープとペンタゴン方式、つまり5角形経営の鐘紡は経営方針が正反対だったのにインターネットの波に共に乗り損ねてしまった。組織が大きくなると官僚型組織になってしまって守りの考え方が会社内の多数派を形成していく・・・突き詰めるとそうなってしまうが、ここでも中小企業は官僚型組織になりようがない規模なのでインターネットの時代では有利になってくる。もちろん社長次第だが即断即決がやりやすいのである。相場の例にすると建て玉が少ない。何をやるにしても投資金額が少ないので損失も同じように少なくなる。少なくとも身の丈を考えた経営ではそうなる。また少ない設備投資では思惑が外れても投資金額が少ないために負の循環から抜けやすい。

問題はいっぱいいっぱいの経営状態が普通なので目先に考えが集中してしまうところだ。こういう零細話では秋元康のAKB初期の態度が参考になる。秋元はギャンブル好きなので撤退すべき状況を色々と考えていたはずで、その土台がAKB劇場の維持だったはずだ。AKB劇場を持った思惑はAKB劇場自体が情報発信になると読んでいたからで、だから新聞や雑誌、あるいは思惑外のアイドル好きNHKのプロデューサーを劇場の幕開けに呼んだ。後になるが関西のAKB番組で「格安でAKBメンバーを送り込みますので宣伝に使ってください」と呼び掛けてもいる。

「零細が生き残るにはまずは宣伝だ!」・・・この考えが現在に至るまで秋元は一貫している。しかし当初提携していたソニー系の音楽会社はCDの売れ行きが悪くて提携解消を決め、その跡を継ぐように講談社系のキングレコードが加わってきた。これには内心、秋元は「しめた!」とほくそ笑んだことだろう。ソニーは雑誌をやっていないが講談社は本業だ。グラビア需要にAKBメンバーを送り込むことができる。ソニーより講談社の方がAKBとしては役に立つのである。

CDやDVDはネットに負けて「もうダメだ・・」というのがAKB登場時の風潮になりつつあったが、秋元はそれをひっくり返した。「ダメなのはあんた達の想像力不足、つまり企画能力のなさだ」と勝てば官軍で言いたくなっただろう。もちろん娯楽もサービス業の一つだ。ソニーミュージックが後に撤退の誤りを認めて「もういちどAKBに加わらしてくれ」と懇願してきたとき、「『逃がした魚は大きい』というCDを出すならなら考えてもいい」と言ったそうだ。そしてソニーミュージックと共同で乃木坂を作るのである。

しかしソニー側も意地があるのかAKB劇場のような「劇場を持たないグループ」を作った。この是非は未知数だが路線勝負であることは確かだ。それでも乃木坂を売り出すためにAKBとタイアップしているわけで、そうでありながらAKBグループと一線を画そうと時折ソニーの独自性を出してくる。些細なことだがショー前の円陣に加わらないことなどだが、ま、つかず離れずといったところか。

この要点は「企画」の力である。実際、ネットの新企業のほとんどは企画勝負で会社を立ち上げている。いや、そもそも昔から会社の出発点は「初めに企画あり」なのである。これがインターネットによる情報時代に入って資金や技術以上に重要になってきた。「企画」が重要になってくると簡単にはネット上の表に出さなくなる。技術の流出と同じ意味合いを「企画」が持ってくるからだ。商売として出てきたときに「ああ、そういうことを考えていたのか!」というようなことになってくる。この場合、商品開発の企画とは違うことに留意すべきだ。他の企業も巻き込んだ「構想力」に限りなく近くなる。

「製造からサービスに」ではあっても情報時代のサービスはチップをもらうようなサービスではない。様々な企業を巻き込んだ構想力と実行力だ。この構想力を養うには社会全体を俯瞰できる「眼」が不可欠になる。何にでも首を突っ込む野次馬的資質を身につけることだ。そういう人が増えると「サービス」の認識が大きく変わってくる。「サービス業の賃金は安い」と言われるが、それは単純労働としての賃金である。「構想力」が武器になれば賃金は跳ね上がるし、また新たな時代に突入しても新たな時代が追い風になってくる。

うむ・・こういうことを書くと今度は「構想力と実行力について」を書く必要が出てきたな。ともかく過去の踏襲癖は自分の値下がりの道を進むことになるのでいったん、足を止まらせることだ。

前回の書き直しで前回は削除

さて仕事についてである。業種別推移グラフを観れば簡単に判るが拡大を続けているのはサービス業だ。コンピュータ化によって失業者が溢れるという将来予測は多いが、コンピューターの性格を分析しての経済予測はめったに見ない。しかし、失業者増大の主因が社会のコンピューター化だからコンピューターの性格を知らないと人はコンピューターに仕事を奪われてしまう。

コンピューターも大・中・小と様々である・・・まずこれを念頭に置いて記述していく・・・というか、筆者の場合はパソコンと20年間の付き合いがあるのでパソコンを念頭に置く。

まず最初に指摘したいのは「コンピューターは責任を問われない」ということだ。責任を問われるのはプログラムを書いた人物である。これでコンピューターのやれる範囲が一気に狭くなる。コンピューター依存と言っても依存には限界がある。SFの未来映画ではスーパーコンピューターがロボットに命令する話もあるが、しかし現実には命令や指示の間に必ず人間が介在してくる。ロボットや類似知能機械は端末でもあるので誰かが購入して使っているからで、要するに「サービス補助」としての機械で売り出すためだ。コンピュータ処理と言っても一律に同じように処理はしない。

無人自動工場を観ると人は不安を覚えるが、しかし工場の機械は独自の判断で工場外に出ることはない。そんなことをする機械は欠陥商品であってすぐに取り換えか、処分される。これはスーパーコンピューターでも変わらない。人間を超える知能と言ってもあくまで「人間を補助する機械」であって人間に命令する機械にはなりようがない。「そんなことはない。軍事システムではコンピューターが人間を指示するぞ」という意見が出そうだが、それはシステム運営内での範囲に限定される。

知能ロボットも含めてコンピューターの考えることは最適化である。この最適化をするには過去のデーター、ものすごい数のデーター量であっても全て過去のデーターを処理する。・・・・こういうことを書いているとコンピュータ相手にチェスや将棋をやっている気分になってくるな。論理で負けそうな気がしてきた(汗)。

いったん逃げさせてもらう(苦笑)。

相場は勘が必要な分野だが、ここにもプログラム売買というツールが登場してきた。このプログラムは確率論で組まれている。だからメカニズム的に全勝はない。というのも確率は人間心理の分析によって変動するためで、だからに変動の兆候を先読みしなければならない。情報端末をほとんどの人が持っているので兆候になる動きが出ると直ちに玉を新規に建てるか反対売買をやるわけだが、「兆候」を何で読み取るのかは人によって千差万別だ。いずれにしてもパターン認識が主流であることは間違いなく、このパターンの種類に応じて売買プログラムも何十とある。

プログラム売買の有利な点は感情に左右されないところと、同じことの繰り返しを飽きもしないで黙々とやることだ。24時間、しかも毎日。今では極小の値幅からの鞘取りもやっている。こういうことは動物としての生理がある人間にとっては苦手以上に不可能と言ってよい。特に瞬間的な決済は人間には到底できない。米国が製造を放り出して金融商品に移行した気持ちはよく理解できる。コンピューターを駆使すればギャンブル的ビジネスは大儲けができる。しかし・・・他もまたコンピューターを使ってくる。そうなるとコンピューター同士の戦いになってしまい、ぼろ儲けのチャンスは失ってしまう。

話が横道に逸れそうなのでサービス業に戻すが、「サービス業」と改めて考え直すと、「人の役に立つ」という「サービスの意味」では人間の生活のすべてが当てはまってしまう。農業でも工業でも目的の多くは「人の役に立つ」ことであり、だから「補助」という言葉を付け加えて「補助的に人の役に立つ」と定義した方が一般的に使われる「サービス」に近い。その意味で「サービス」業が拡大していく社会は便利な社会だと言うこともできる。

製造業の社会に占める位置が相対的に小さくなるというのが人類社会を俯瞰しての予測であるが、これがコンピューターと繋がっての製造だとそうは簡単に決めつけられない。コンピューター管理で無人化できると想定しての予測だと思えるが、これはあくまで規模の大きな工場に限定されたもので小さな町工場では無人化を拒むはずである。というのも「勘」が必要な製品を作っているからで、無人化できるような製品を作っているような町工場はとっくの昔に潰れているか、または先がない。

製造には必ず供給過剰になるという宿命があるが、小生産・小販売となるとこの原則から外れる。というのも海にゴミを捨てる、この場合、魚や細菌が食べる有機物のゴミだが、ゴミを捨てる量が少なければ海はゴミを消化してしまうことを連想すればよい。この海が世界市場なのである。インターネットが世界の情報インフラでなかったとき、小規模の零細工場は商品の宣伝費も都合できないので小さな町が商圏であった。宣伝できる資金を持った大企業は世界市場に進出し、その延長で工場も移転させた。これは日本に限らず先進国の大企業が一斉に海外進出したので開発途上国に次々と大規模工場ができ、これによって世界的な生産過剰が始まるのである。

しかし生産過剰は大企業の製品だけだ。小規模の街工場レベルではそもそも商品そのものが世界市場で認知されていないので生産過剰が起こり得ないのである。小規模の町工場製品はむしろこれから世界市場に参入する。順序としては中規模が先で、そのあとに零細企業といったところか。

相場には投資のメカニズムはないが企業の設備投資にはメカニズムが働く。思惑が外れると負の循環が始まってしまう。シャープが液晶投資で倒産寸前までになったのが好例だ。単一製品に巨額の資金を投入はできないと考えたのは鐘紡であって、ペンタゴン方式を採用した。ペンタゴンの建物は5角形だが、その形を経営方針にした。しかし・・・ここで戦争の例が出てくる。戦争で戦力を平均化するとどの戦場でも中途半端な陣形になってしまい、集中攻撃を受けたら固守すべき防衛線が突破されてしまう。また、実際、平均化した戦力をどの国も採用しない。それぞれの国で事情や状況が違っているためだ。

・・・・・・今回は長くなりそうなので今日はここまで。

得体のしれない詐欺集団

「【東京】菅義偉官房長官は25日午前の記者会見で、沖縄県宜野湾市長選で政府・与党が支援した現職の佐喜真淳氏(51)が再選を果たしたことを受け、名護市辺野古の新基地建設に対する沖縄の民意について、「前から申しあげているが、『オール沖縄』との言葉は実態とかけ離れている。これで一目瞭然明らかになった」との認識を示した。}

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160125-00000016-okinawat-oki

『オール沖縄』・・・どこから「オール」という言葉を持ち出したのか?という左翼の常套言葉騙しだが、「世界の国は日本の歴史認識欠如に対して・・・」という韓国の「世界」という言葉とそっくりの使い方だ。具体的な国名を指すどころか、指せば中国と韓国、北朝鮮の3国しかないから具体的な他の国名を出さない。

こういった言葉による欺瞞に引っかからない方法は具体的な内容、あるいは事柄を提示させることだ。具体的な事柄はまた連想を喚起させる。「人間は平等です!」とあれば「どのように平等なのか?」という問いであり、「人道的に」とあれば「どういうことが人道なのか?」という問いで、相手がすぐさま答えられないなら中身のない空疎な言葉に過ぎない。

また物事をきちんと考えているなら「反問い」が出てくる。「移民を導入しよう」とあれば「欧州の移民や難民で地元民が大きな被害を受けているが、それについてはどういう考えを持っているのか?」などであり、その問いにすぐさま答えられないなら無責任な移民政策になる。その無責任さを追及する。

詐欺師というのは相手を騙すためのストーリー、つまり台本を持っているが、真剣に言ったことを実行するつもりはないから具体性に欠ける。だから具体的に追求すれば詐欺師はすぐに言葉に窮し、話を変えるか、あるいは怒り出して理屈から感情に状況を変えようとする。要するに情緒に訴えようとする。

しかし問題を解決するのは理屈だ。例えば在日朝鮮人問題では差別よりも前に在日朝鮮人が何故、日本に居るのか?この経緯を述べさせなければならない。この経緯で不法入国となれば「不法」が差別以前に問題になってくる。法治国家では明確に合法と違法の区別があるからだ。これを曖昧にすると法治主義の体制が崩れてしまう。

次に対処の仕方がある。違法と合法では、つまり外国人訪問者がパスポート改造などで入国した場合と本当の観光で日本を訪問したのでは扱いが違う。違法入国者は留置場行きだが観光客には保護が与えられる。この「違法性」をごまかすために「可哀想じゃないですか?」とやるのがテレビ局。この場合でも法律に従って解決する場合、本当に同情すべき事柄なら「情状酌量」という法的処置がとられる。そのために審議などの一連の法律の流れがある。

この一連の流れをすっ飛ばしていきなり「無罪だ!」と叫ぶのがマスコミ左翼だ。無罪の理由が「可哀想」であるなら裁判所は要らない。「可哀想」かどうかを審議しないと本当の実態が解らないわけで、この「審議」をマスコミ左翼はすっ飛ばす。

基本、社会の考え方は裁判所的なもので検事と弁護士の役割を誰かがやって、双方が集めた事実の列挙により事の真相を浮かび上がらせる。日本人の多くは自覚しないままにこれをやるから冷静な人が多いが、隣の韓国や中国はこれができない。「法治主義」とはどういうものかを実際には知らないためだ。泣き喚いたり、大声を出して怒鳴ったりすれば自分の都合のよい解決ができると考える人間が大半だ。

日本政府も日本人の冷静さはどこから来ているのか?これを考えたほうが良い。隣の韓国や中国と同一視してもらったら迷惑以上に政策自体がデタラメになって困るのは日本国民だ。情緒に流されて論理に欠けることを政策として実行すればどうなる?目先、相手をなだめてもすぐに問題がぶり返される。そういうのが通用したのはインターネット以前の時代だ。

三橋ブログでダボス会議に触れていたが、ダボス会議など烏合の衆の集まりで黙殺すべき会議だ。こういう世界会議は思惑だらけで、その思惑に乗せられたら乗せられる側がバカになってしまう。実際、世界のモデルとなる国がどこにあるのか?ということで、世界は犯罪で満ち溢れているのだ。自分の国の「安全」を確保できない連中はそれだけで単純に「バカ」なのである。

日本は外国から学ぶべきものは学び、学ぶ必要のないことは受け入れないという歴史を持った国である。優れた社会を作った国の人の意見は聞くに値するが、悲惨な社会を作っている国の人の意見は聞くに値しない。せいぜい反面教師的価値しかない。

この姿勢は本来、どの国にも有益な姿勢となるはずなのだ。ところが・・・・世界の国々はできない。だから、そういう愚かな国々と日本は一線を引くべきなのだ。日本は日本自体やるべきことが無数にある。世界は世界、日本は日本である。

政治とは何か?

「そういう点で「列車のスピードが遅かろうが早かろうがとにかく都心に行く」という表示をキッパリと行っているのは、パリのドゴール空港駅だ。ホームへの入り口には、エッフェル塔のマーク付きで「PARIS」とだけ表示。ちなみにパリには「パリ駅」は存在しない。パリは東京と同じようにあちこちに繁華街が分散しているため、空港からの電車1本で目的地にたどり着ける人はそんなにいないはずだが、それでも「街へはこちら」と言い切ってしまっている。しかも、同じホームから停車駅数も行き先も違う列車が交互に出発するが、とりあえず全列車がパリの都心までは必ず行くから、こういう「わかりやすい」表示をしているのだろう。

このような表示を行っているケースは、ロンドン・ヒースロー空港の地下鉄駅でも見られる。本来、電車の行き先を出すべき電光掲示板に「セントラルロンドン」と掲示、これに乗れば街中に行けることをストレートに伝えている。」

・・・「プロから見て羽田空港には大きな欠点がある訪日客からの評判が悪いのは、なぜなのか」より抜粋
さかい もとみ :フリージャーナリスト
2015年07月28日
http://toyokeizai.net/articles/-/78147

「共産主義・社会主義は悪なのか?」というスレッドが立っていたのでこの記事を持ってきた。この記事は羽田空港の批判記事でもあるが「誰それが悪い!」というのではなく「こういう改善ができるのに何故しない?」という提案記事でもある。この記事の姿勢には共同体に対する参加意識が底に流れている。

社会主義を除いた共産主義はこのブログで何度も指摘しているように「全体主義」という名の「独裁主義」だ。「プロレタリア独裁」と自ら「独裁」と宣言しているわけだが、では「プロレタリア」というのは具体的に誰を指すのか?その範囲が漠然としすぎているのに「プロレタリア独裁」と言う。さらに問題なのは社会は自然発生的なシステムで成り立っているという認識がない。急病になれば救急車を呼び、救急病院に運ばれるというような「システム」であるが、こういうシステムが社会には至る所にあり、それによって人々の生活が成り立っている。

最初に上げた記事も空港システムの不備を指摘しているから政治的なものとは違う。社会の改善を提案している。

ところが全体主義は政治に力点を置く。「権力を握れば何もかも巧くいく」という考えをしているから社会改善という方向に眼が向かない。「権力を握れば何もかも巧くいく」という考えの裏には「権力を握った者が立案して命令を下し、逆らう者は処罰する」という一連の流れが隠されている。こういう姿勢では国民の声を拾う必要もないから実際の状況を調べようともしなくなる。

上から下への一方的な流れを持ったメカニズムでは「下から声を拾う」ことがメカニズムの逆流になってしまうのでメカニズム的にやらない。やればメカニズムが機能しなくなってしまう。

これを企業に変えると「消費者の声を拾わない」企業だ。消費者の声を拾わない企業など需給無視の行為なのですぐに潰れてしまう。しかし政治は権力という力を持っているから力任せで押し通すことができる。独裁政治が恐怖社会にしてしまうのは「力任せ」の政治をやるためだ。

次に「社会主義」を共産主義と区別して除いたのは「社会」という言葉があるからで、社会は政治で成り立っていないという事実があるからだ。社会はシステムが集まった共同体を指す。普通、一般の人が「社会」という言葉を使うときはそのイメージで使う。権力争いなど関係がない。生活と密接しての「社会」だ。これを「共産主義・社会主義」と一体化してして使うのは水と油を同一視した、それこそ欺瞞的な詐欺的使用である。

「社会」つまりシステムの連結した生活共同体に焦点を合わせれば「政治」自体が「生活共同体」を脅かす存在に見えてくる。視点というのは大事なもので、下から見るのと上から見るのとでは光景の見え方も違うし、光景が違って見えれば考え方も違うようになる。コンピューターなどは機械であるから「権力」など全く欲しないだろうし、接合がうまくかみ合っていないなら警告信号を出すだけだ。

冒頭の記事は「システムがおかしい」と警告する内容なので社会的に有益な記事となる。

社会をシステムと認識するなら政治も変わらなければならない。無人自動工場で機械のそれぞれが権力争いをしている光景を思い浮かべれば誰もがその工場は工場として成り立っていないと考えるはずだ。生産が目的なのに権力争いで生産できないのである。

社会もシステムとして考えるならシステムの流れを重視しなければならない。火事が起きて消防車出動まではやれたが現場に行くと消火栓がない、となれば消火システムが壊れている。これでは生活の安全が保障できないのでシステム点検を普通はやる。しかし、ここで権力がシステム点検をされると都合が悪いからと強権を発動すればどうなる?強権を発動する「権力」の存在が社会をぶっ壊してしまう。

「生活共同体」は下からの目線だ。権力を奪うのではなく生活を正常に営むために意見を言う。この視点を現在のどの政党が持っているのか?生活改善の提案はいい。しかし、それを権力を握るための手段として用いれば提案自体が怪しくなってしまう。これをどの政党もやっている。この政治状況は絶対に変えなければならない。
プロフィール

haizara

Author:haizara
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる