近代合理主義から置き去りにされた中国・朝鮮

その中世のような国が日本の隣にあるわけだが、問題はそれに迎合する外務省の体質だ。外務省自体にも中世の価値観が入り込んでいる。典型は大げさな儀式意識だ。

明治維新前の薩長と徳川幕府の戦闘こそが中世と近代の戦いであった。もちろん時代は混合しているので割合の問題でもあるが、一目瞭然になるのは服装だ。薩長がズボンで幕府が袴、あるいは甲冑の軍服に集団の意識が反映してくる。

ズボンを軍服とするのは戦闘で動きやすくするためであり、これは合理が優先している。片方の袴や甲冑は平民・士分という意識が先行して合理が押さえ込まれている。戦闘はもちろん軍服で決まるわけではないが、軍服をどのような理由で決めるかという意識は勝敗に決定的に作用する。身分意識が先行してしまうと組織編成などで合理性が失われ、その集団の目的性が勝ち負けから離れてしまう。

鉄砲は「身分が低い連中にやらせろ!」というわけだが、しかし実際の戦闘には弓や槍より鉄砲がはるかに優れていたためにやがて戦闘は鉄砲が中心に移っていく。

今記述しているのは現在でもそのまま適用できるから書いている。

身分意識は感情であって、合理的な考えから来ているのではない。そうすると身分と言う感情意識が先行していれば「勝つ」という目的から戦術を編み出してくる合理主義者には絶対に負ける。感情はその場限りだが、考えは重ねて広がるのだ。人類が他の動物に圧倒的に優位に立ったのは「考えた」からである。考えても文字がなければ考えの集積はできない。そうすると今度は文字を持った集団が文字を持たない集団を圧倒する。

これも考えの集積が文字を持たない集団よりはるかに多く得られるという物理的な理由で勝ってしまう。

相手が感情的な人間は、あくどい言い方をすればいくらでも「罠」を仕掛けて陥れることができる。善悪ではなく物理の問題だ。思考が短いのと長いのでは結論も判断も違って当然なのだ。

さて中世時代に生きている中国と朝鮮、それに「汚染」された日本人を考えて見よう。

帝国主義の時代と言うが、これは封建主義の延長に過ぎない。形態が「力」に置いた形であるためだ。この「力」の認識も「目先」と「長期」で考え方の差が出てくる。力には「一方的に押す」という力もあれば、「推した分だけ押し返される」反作用という力もある。短期の考え方には「反作用」という力の認識がない。長期には反作用の力を必ず計算に組み入れる。

落とし穴という「罠」も非常に間接的なものの考え方だ。

直接、弓矢で仕留める考えではない。眼の前に獣が居るわけでもなく、単に地面に穴を掘るだけだから初めてその行為を観た人は「何しているのか?」と怪訝に思う。しかし、その穴に獣を追い込む追加の処置でその方法の合理性に驚くことになる。何しろ、穴を掘るだけで巨大なマンモスでもやっつけることができるのだ。しかも単純に穴を掘るだけだから危険性も極度に少なくなる。

この「罠」を成立させるには大きな想像力が必要になってくる。周囲の獣の状況、獣の性格、土地の状況、穴をどれくらい大きく、深く掘るかの想像、この構想を理解できる人間が周りにどれくらい居るかという観察・・・こういう考えが組み合わさったのが「罠」の思考なのだ。

文明の基本はこの「罠」の発展形だ。回りくどいが、しかし一つの目的に組み合わして統一する考え・・・・この洗練が近代を作る。封建主義は感情の割合が濃いから「洗練」とはほど遠くなる。感情をむき出しにする人物を観て洗練されていると感じる者は誰も居ない。

社会の近代性を測るのも「割合」である。賢い人間はどの社会にも居るが、重要なのはその割合なのだ。だからこそ「賢く育てる」ために教育の必要性が出てきた。ここで「教育」が「賢い人間を育てる」ということを認識できなければアホだよ。

ところが現実の社会は「賢い人間を育てる」のではなく「忠実な犬」として育てる方向に向かう。ここで社会が混乱してくる。合理性を社会が失ってくる。権力者は「忠実な犬」が欲しいが、それは自分の欲としての感情だ。しかし一方で合理性の塊である「技術」が人間の優劣を決めてしまう。弓矢の優劣は鍛錬に負うが、銃の優劣は鍛錬よりも銃の製造技術で決まってしまう。火縄銃よりも機関銃の方が圧倒的に優れているなら、機関銃を考えて作った側が勝つに決まっている。


しかし人間の感情で動く要素は「生物」という本能でもあるために強力である。近代に入っても社会は合理主義でなかなか成り立たない。が・・・産業が広く社会に行き渡ると否応なく産業の合理主義が人々の考えを変えていく。感情で機械を動かせないからだ。とことんまで理詰めでないと故障した箇所さえ修理できない。

筆者は日米戦争の記録本も多く読んだが、米国は勝って当然の合理主義が日本よりも強いことを再確認した。目的を忘れない行動が多い。それに比べて日本側は目的が何であるかを忘れた人事や作戦が非常に多い。日米戦争時、日本は間違いなく中世的価値観が根強く残っていたというしかない。しかもなお未だに残っている。目的よりも自分のメンツや身分に非常にこだわる人が要職についている。

それでも・・・中世時代を未だに生きている中国や朝鮮よりはよほど日本は近代だし、国民総体で捉えれば米国をもしのいだ状況になっている。産業の合理主義が社会に浸透しだしてきた結果だ。日本は先頭に立つ者が社会を作るのではなく、全体の状況、つまり全国民によって先頭に立つものを作り、そして社会を変える国だ。日本の歴史を俯瞰するとそうなっているのだ。だから変わるときは一気に変わってしまう。「変わる」ということですでに国民合意ができてしまっているからだ。

しかし中国や朝鮮のような中世時代の感覚を持った人間が多数いると産業が作り出す現実の合理主義と絶えず衝突を生み出す。この衝突で感情が勢いを持ち出し、「社会はこうあるべきだ」という国民合意がいつまでたっても成立しない。

後進国の人間の価値観はビル群だけを観て「進んでいる」「遅れている」という判断をしてしまう。日本でもそういう未開な視点を持つ者も結構いる。ビル群と言うのは「結果」だから、そのビル群は「社会の目的と合致しているか?」という視点が要る。見栄で巨大な建造物を作る国は未開社会だ。「社会は住民のためにある」という基本的な考えを持たない社会だから「未開」だと言った。

ここまで書けば日本社会の暗部もあぶりだせたと思う。

中国・朝鮮を中世時代の国家と位置付ければ日本の中韓政策はそれに対応したものであらねばならない。基本的姿勢はこれらの国が近代に適応できているかを確認するまで距離をとっておくのが正しい。中世国家に日本から近付けば中国や韓国は中世の頭だから勘違いをする。こういう勘違いを起こさせてきたのが日本の外交だ。

外務省もまた中世時代の人間の集まりだと断じるしかない。
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日本第一党

党首 桜井誠 / 最高顧問 瀬戸弘幸

https://twitter.com/Doronpa01

瀬戸弘幸って誰だろう?と検索してみた。

福島県生まれ。福島県立福島農蚕高等学校(現・福島県立福島明成高等学校)卒業。「世界戦略研究所」代表・NPO法人「外国人犯罪追放運動」最高顧問・「国際宗教連盟」役員[2]・「在日特権を許さない市民の会」会員・「維新政党・新風」党員(元副代表)。

また、国会記者倶楽部・国土交通省記者クラブ・鉄道記者会に所属。日刊中央通信社社主として『日刊中央通信』を発行。なお、日刊中央通信社という法人は東京都内に存在しておらず、任意団体である。瀬戸本人によると、『環境経済新聞』や雑誌『環境と施設』などの取材・企画と購読料を収入源としているという[3]。国家社会主義者同盟元副代表、元福島市職員。


少年時代から英雄伝を愛読し、中学生のころヒトラーやムッソリーニに憧れを抱く[4]。
農芸高校園芸科を卒業後、実家の農業を手伝っていたが、力不足を感じ後継者となることを断念。福島市役所に臨時職員として入職し、1971年に正職員に昇格し公務員になる。瀬戸の言によれば、左翼系労組の影響が強かった職場に反発して、自民党に入党。東京日比谷で大日本愛国党の赤尾敏の演説に強い影響を受け、個人として右翼活動を始めた[5]。瀬戸の言によれば、1972年に自身が新成人として参加した福島市の成人式の式場とその周辺で、左翼系のデモ隊が、新成人の自衛官を乗せたバスを包囲し、「自衛隊反対・人殺しは帰れ」等のスローガンを掲げて、式への参加を妨害した場面を目撃した。瀬戸は、口惜しい気持ちで一杯だったという[6]。

1974年の第10回参議院議員通常選挙で糸山英太郎の選挙運動を手伝い、その縁でヒトラーの信奉者・篠原節が率いる右翼団体「民族思想研究会」に加入[7](同研究会はのちに、やはり篠原の率いる他の3つの団体と共に「国家社会主義者同盟」(ナチスに影響を受けた排外主義団体)となっている)。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%BC%98%E5%B9%B8

うむ・・・俺、こういうタイプは好きだよ(苦笑。

安倍政権の韓国外交は酷すぎるというか、さらには外務省が安倍政権以前からとことんまで「反日集団の集まりだろ?」と思える外交をやって来たので「日本人」を全面に押し立てた政党は絶対に必要だと考えていた。「日本は日本人の国である」という当然のことがまるで悪いことのようにされる風潮が政治的に出来上がっているから、この風潮を「政治的に」変えねばならない。

一見、思想的に見えるが実は一般的な政策に直接かかわってくる「日本人の国」思想なのだ。「日本人のための政策をやって何で悪い?」という政治的行動を国民が支持すれば、日本人のためのと言うか、日本という国土に住む住民が暮らしやすい社会を作るのに邪魔が消える。それだけ「暮らしやすい社会」の妨害を何者かが、あるいはどこかの集団が妨害をしているのだ。

その政策は「日本人のためになっているか?」

これだけで政策チェックが大きく働く。当たり前の国民チェックがそれだけマスコミを含めて誰もやらなかったからだ。東京都の問題でもこのチェック機能が働いていないからデタラメ都政が続いていた。「主体は誰か?」は判断基準の絶対なのに、「中国がどう思うか?」「韓国がどう思うか?」と顔色を窺う言説や政治家ばかりで、これで「日本人が主体」という当然のことが置き去りにされてきた。中国や韓国がどう思うと知ったことではないし、向こうも「日本がどう思うと知ったことか!」とやってきている。

中国はさらに自国に都合が悪い政策を日本や米国がやれば報復処置を様々なやり方でやってくる。そうであるのに日本の外交はこの敵性国家に援助をまだ続けている。考えられないことを日本の外交はやっているのだ。その延長で同様に韓国にも援助を続ける。その援助資金はどこから来たのか?日本の国民が汗を流して作ってきたカネだ。

日本は実質、世界一高い税金の国である。

つまり世界一高い税金になっているのは国民への還元率が低いということだ。高度成長で世界第二の経済大国になったのに国民への福利厚生が世界第二になっていない。もちろん米国も似ているが、しかし米国は世界1の税金国ではないのだ。日本の方が米国よりも酷いのである。

日本社会の良さは政府によってではなく、日本人自身が自分達で作り上げてきた。この方向性を政治にも反映させれば日本はもっと良くなる。

まずは東京都議会に日本第一党は党員を送り込んで公の政治資金を獲得することだ。これで政治に専念できる体制が生まれる。「がんばれ!」とエールを送りたい。

40歳で気づく前に30歳で気づけ

華原 朋美が有吉の番組で「男選びはおカネじゃなく人柄で選ぶんだと解ってきた」と言っていたが、「華原 朋美」という人物がそういうことを言って「へぇ・・」と思った。どちらかと言えば何も考えずに突き進む、あるいは運ばれていくタイプだったので体験が思考を深くするひとつの例になると思った。

が・・・42歳では悔いの残る遅さでもある。10代から「人柄で相手を選ぶ」という少年・少女もいるからだ。

少年・少女でそういう眼を持つのは「人生」というトータルを意識しだすのが「思春期」であるためだが、この「思春期」を「発情期」としか受け止めない少年・少女も相当に居る。「人生」というトータルの中で「発情期」を受け止めると「発情期」オンリーの子供とは違った視点が加わってくる。思春期でも確かに「落ち着いた眼差し」の少年・少女が居るのだ。この「落ち着いた間差し」の少年・少女は明瞭に「自分の居所を持たない」少年・少女とは違って見える。もちろん、学校の成績などは関係がない。

アイドル関連が面白くなっているのはインターネットが出てきてからだ。週刊誌の記者と言う「大人の視点」だけしかなかったアイドル情報がネット以降、当人の直接な情報発信で人物が具体的に見えだしたためである。そして「大人の影響」が薄い男女ほど発信する言葉が確かなのだ。自分の現実をちゃんと見て自分なりに考え、それが言葉になって出ている。

「大人」というのも年代の幅が広くて40歳と70歳では気の付き方が相当に違う。70歳ではすでに人生が終わった人なので「何が大事であったか?」は口に出さなくとも痛感している。口に出さないのは「気が付かなかった自分が悔しい」だけに過ぎない。口に出してしまうと自分で自分の人生を否定してしまうことになる。最後の最後に自分否定ではあまりにも惨めすぎるから黙っている。

男よりも女性の方が「自分の人生ですから」とよく耳にする。NMBを卒業した渡辺美優紀も卒業インタビューでそう言っていた。見聞や体験を基にして「人生という全体」から「現在の自分」という部分を観れば「大人のいう事」の無責任さが見えてくる。無責任な言葉はほとんどが図式的で、例えば「一流企業に入らねば!」という目的は「人生」という全体を掴んでいない。「人生」の総体的な目的は「悔いのない人生」であるが、「悔い」はどういうときに生まれるかを全く考慮していない。

「悔い」が生まれるときは「周囲に流されて自分で判断しなかった」ときなのである。

自分で判断すれば「結果が悪くても」「自分が判断した」から慰めはつく。それを選択したのは自分だから仕方がない・・・そういう自分への慰めは案外と心が落ち着くのである。逆に他人任せで結果が悪ければその人物を「呪う」形になって後腐れが悪い。「悔い」はそこから出てくるのが一番性質が悪い。

「大人のいう事を信じて」は他人任せと同じだ。大人もたいして考えもせずに口にしている。「たいして考えもせずに」は自分がそれなりの年齢に達したときに気が付く。一流企業に入ってもすぐに退社してしまう例がそれなりにあるが、この場合のほとんどは「人間関係」に因ってだ。一流企業の福利厚生が良くても毎日の現実は「人間関係」であり、パワハラ・セクハラなどが日常的であれば毎日が悪辣な刑務所に入ったのと同じなのだ。

逆に福利厚生が低い中小企業でも人間関係が良好であると仕事は続く。嫌な気分になることが少ないので仕事が継続できる。これが現実の社会なのだが、間抜けな大人はこれに気が付かないのである。自分の浅い、いや浅いどころか強迫観念の判断でオーム返しのように考えもしない言葉を若い人に言う。これが「大人の言葉の正体」だ。

だから思春期に入って思考力が育ってくると大人の言葉に首を傾げることが多くなる。どちらが正しいのか?

ここで「悔い」のある生き方、「悔いのない生き方」という人生というトータルが出てくる。間違いのない人生なんてない。人生というのはとてつもなく広い世界の中のひとつの「点」として自分の人生があるから間違って当たり前なのだ。そのときに見えなかったことが後になって見えてくることが普通だ。

この真理を学校の教師も、親や親しい大人も滅多に言わない。もちろんマスコミも同じだ。全部が全部、この「真理」を言わない。だから自分で考えて会得するしかない。この場合、情報ではなく「考え方」の会得だ。とことんまで物事を具体的に想像していく。「具体的」に想像するのは想像で現実をなぞっていくためだ。現実をなぞるには具体性がないとなぞられないためだ。

こういう考え方で慣れてくると実体のない言葉に逃避することをしなくなる。思い込みや先入観、予断の判断がかなり少なくなる。皆無というわけにはならないが、これは情報取得に時間などの限界があるためである。

さて・・・最初に戻る。「40歳で気づく」ということは自分で自分の人生を考えてこなかった空白の人生を送ったに等しい時間がその期間、あったということだ。30歳で気づけと書いたが、本当は10代の思春期で気づけ!と書きたいところなのである。

昔の人間も「今を生きる」ことに色々な人が書き残している。ぼんやりと流されずに、しっかりと現在を見つめて生きよ、ということなのだろう。それができていれば「人生に過ちはない」ということすら言える。自分が考え判断したのだから結果は「自分の人生」そのものだからだ。「間違った」あるいは「正しい」なんて誰にも言えない。「他人の人生」は「自分の人生」ではないからだ。そもそ「他人の人生」に含まれている膨大な記憶を、判断する人は何も知らないのである。

「人生」という総体は徹底的に個人的なものだ。この事実を直視すれば自分のやるべきことが見えてくる。

朝日の息の根を止めた新潮!

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160823/dms1608231140003-n1.htm

これは決定的であるがゆえに、往生際が悪いと関連する集団は次々と毒が飛び散って社会的に集団自殺することになるはずだ。それにしても「新潮」は大スクープだよ。週刊誌復活級の大特ダネだ。文春も最近は頑張っていたが、週刊誌はインターネットを敵視せず、ネットを利用する戦術を編み出せばいいだけの話だが、これまでは編集部にバカが増えすぎて本筋を考える頭を持った人間を採用してこなかった。

週刊誌やスポーツ新聞は読者にとってスナックや居酒屋のようなものだ。

軽い話、重い話、笑える話、怒る話・・・それを提供してきたのが週刊誌でありスポーツ新聞だったはずだ。それが韓国などの政治偏狭集団に潜り込まれてスナックや居酒屋の雰囲気が一変に悪くなり・・・そして客、つまり読者が離れた。

理屈好きの人間はスナックや居酒屋ではごろつきと同じように要注意人物なんだよ。「自分が居る場はどういう場所か?」これを考えない、あるいは配慮できない人物が理屈好きには多い。理屈好きも「場」を心得ていたら面白い人になって店も歓迎する。一種の芸人みたいだからだ。しかし、芸人と思っていた人が犯罪に走ったり、ごろつきめいた喧嘩を吹っかけてきたりしたら、これは店の営業妨害だ。ロックコンサートでもそういうのが出てきて問題になったことがある。

テレビの疑似報道番組でこの妨害してくる連中を擁護する若手の評論家風アホが居たが、テレビ局も自分達の仕事がどういうものか、これをまるで考えないのが増えてきて自分の首を自分の手で絞めだした。まともな人間は「嫌気」という形で店に来なくなってしまう。視聴率が悪くなっているのはこの結果だ。

ともかく分析力がまるでない人間がマスコミ関係に増えている。受験教育というのはテスト結果が全てだから常識的な「思考力」を育てない。「常識」にカッコをつけず「思考力」にカッコを付けたのは「思考力」があって「常識」という基準を自分で作るからである。

本がなぜ売れなくなったか?

確かに表層的にはインターネットの登場だが、しかしネットでは本はそこそこ売れているのだ。ただ大手出版社のキャンペーン販売の効力が弱くなっているに過ぎない。なぜキャンペーン効力が弱くなったのか?大手出版社の感性が異常になってきたからだ。

こういうのは「工作員の書き込み」に接していればすぐに判ることなのだ。

「工作員の書き込み」は異常なのである。バランスの欠けた書き込みが普通だ。やたらと攻撃的で、この攻撃性に異常さを感じてしまう。最近のマスコミはどうだ?ちょっと自分達を鏡で見てみろ。鏡に映る攻撃的な自分を日常生活で付き合いたいと思うか?

水商売は客に好かれてかろうじて営業が保てる。客に好かれるような営業をマスコミはしているか?してないだろ?

ま・・・週刊誌にしてもテレビ局にしても今回の新潮と・・・紹介したザクザクだな、の大スクープは自分達はどういう事をやればいいかを強く示唆していると受け止めるべきだ。「大スクープ」と認識できないマスコミ界隈のアホは確実に仕事を失うよ。アホにはさすがに需要がないからな。

中国の戦争準備と時代錯誤

https://www.youtube.com/watch?v=DMZdRnxLlvQ

AKBINGOの今回は寒気がするほど最悪だったな(苦笑。ちょっと珍しいくらい。

AKBINGOに限らず水戸黄門のようなマンネリの安定感という面白さが、AKBINGOは進行役を変えることによって失ったのは確か。マンネリの安定感というのは水商売の安定感と同じで、仲間内の安らぎ提供という性格がある。ここでスナックのママが交代したと考えればこの人事は相当にリスクを伴うことが予見できる。

ネットがテレビ番組に影響を与えるとすればネットの掲示板になるが、この掲示板の書き込みの質がネット工作員の激増や、そのクズ書き込みに触発されてさらにクズが新たに出てくるといった悪循環が現在ある。今の主力はツイッターの書き込みかもしれないが、ネットの新たな展開は各種SNSツールを利用した意見のグループ化になりつつある。これはネット事業者が随分と以前から予見していたことだが、それが実際になってきた。

そうすると一つの掲示板やツイッターの書き込みだけで判断することは完全に時代からずれてしまうことになってしまう。かってテレビは時代を先導してきた。また時代を先導するという自負があったはずだ。この狂いが出てきたのはもちろんインターネットの登場によってだが、時代のずれをマスコミにもたらせたのはネット認識の方である。敵対意識が先行してネットの利用を決定的に遅れさせた。

一方でネットはテレビを動画と言う形で取り込んでくる。最初にアドレスを置いたのがその典型だが、このテレビ番組の取り込みも日本国内だけに限らない。世界中のテレビ番組がネットに流れている。こういう状況をテレビ番組制作者は理解しているか?という問題がある。それは番組間で視聴率を競い合うと事ではなく、もっと最低限の、時代のずれをどれだけ取り戻せるか?と言うことに繋がることだ。

「時代のずれ」は黄金期を持った業界ほど大きくなってしまう。成功体験が現実の変転を見えなくさせ、システムも黄金期のままであるから修正もできずにどんどんと時代から後れを取ってしまう。これは軍隊でも自動車でも家電でも映画でも全部同じ事が起きるし、起きた。

「時代はどうなっているのか?」この物事を直視する目があったなら修正は可能だが、そもそもリーダーが時代から大きく乗り遅れた感覚なのである。社会は上から変わるのではなく下から変わっていくのに権力ごっこに酔っているリーダーはその傲慢さから下を観ない。日本や世界の歴史を読んでいくとこの事実に気が付く。

話が芸能のヨタ話から一気に変わるが中国の戦争準備についての記事が出た。

筆者はこの記事の連想からソ連やトルコのクーデター未遂事件をすぐに思い起こした。ソ連もトルコも何故クーデターが未遂で終わったのか?簡単に言えば時代がクーデターを起こそうとした集団より先に進んでいたためである。「時代」という曖昧さは掴みにくいが、しかし時代の雰囲気は確実にある。時代の雰囲気を探るには自分が入っている「穴」から顔を出さなけばならない。どの人物も何らかの井戸の中にいる。だから時代を観ようという意識がなければ時代は観ることができない。

「中国の戦争準備」という記事に触れたなら、世界の雰囲気を観る必要がある。世界の雰囲気で本当に戦争が起きるのか?あるいは戦争準備で終わるのかの予見がしやすいからだ。

世界の雰囲気の基本はインターネット状況だ。時代はインターネットである。インターネットの出現によって世界中の人間の意識が変わりつつある。まず、この認識が必要だ。井戸の中だけの判断ではこの世界の雰囲気が見えない。中国の軍部はそれができているか?という疑問が筆者にはある。中国は軍部だけ成り立っていない。いや、軍部の資金を支えているのは中国の企業活動だ。中国の企業家は戦争を欲しているのか?

ここで米国の世界観になるが、米国はすでに世界を征服したという認識は持っているはずだ。

米国が世界を征服して実現させたいのは自国企業が自在に動ける環境を確保したいためであり、それがすでに実現しているのである。その企業が自在に動ける保障として世界各国に米軍を置いている。米国が「世界の警察」とするのは標語ではなく現実なのだ。

この米国の軍事観は米国と連携する日本などの軍隊の性格をも決める。こういう風に考えていくと米国が叫ぶ「ならず者」国家という言葉が実に警察的非難だと理解できるはずだ。そして中国の戦争準備は米国支配の警察による世界秩序という現況を破壊することに繋がってくる。

米国と中国で世界を2分割するという発想は1945年で終わったのである。1945年で帝国主義の時代は終焉したのだ。この認識が中国にはない。1945年以降、米国は圧倒的な軍事力を背景に世界の警察を目指し、着実に現実化していった。「世界の警察」という標語は米国国民を不安にさせない実用性のある標語だ。だから遅滞なく警察化がどんどんと進んで今日がある。

世界を米国の警察監視下に置く目的は米国企業を自在に動かせる環境を維持するためだ。それが現在の世界の姿なのである。

筆者は米国がこの姿勢を維持する限り歓迎できる姿勢だと思うし、多くの国も同じだろう。同時にこれは現在の時代でもある。この時代に逆らうような中国の戦争準備は、1945年以前の世界認識だから必ず挫折する。実状に合っていないためだ。この実状の中には中国の企業もある。

経済は需給に即しているために常に時代を作り出し、時代を表しているが政治は逆だ。権力争いに眼を奪われて需給が見えず、時代から取り残される。時代から取り残されてやがて時代に合わせるために政変が起きる。地震の発生と同じだ。

中国の戦争準備が中国自壊に結び付くことになるから楽しみではある(笑。

「男と女」を男女双方で研究しよう

筆者は死にそうな年齢になってもなおアクションを求めて、実際にデジタルアニメなどを作っている。飛んだり跳ねたりはしないがデジタルアニメも物作りだ。ま、庭掃除をするようなアクションではあるが(苦笑。

受動的な性格と能動的な性格は確実にある。積極性と消極性と言い換えてもいい。

自分なりの体操もしているのだが、スクワット30回はともかく、10回飛ぶという運動は意外にも意思が必要な運動だ。気力が要る。これは発見だった。運動にも惰性と気力のいる運動があるようだ。歩くのと飛ぶのはちょっと気持ちが違う。引力の逆らい方で飛ぶ運動は惰性から離れてしまう。

今、男と女をテーマーにしたことをやっているので女について考えたことを書いてみたい。こういうことは女性も男について考えたことを書くべきだ。でないと男女双方、解ったようで実は何も解っていないことが続き、無駄に男女の抗争が起きてしまう。

男の社会性は本能みたいなものだから女性はこれをきちんと考えたほうがいい。逆に男は女に「社会性」を間違って期待してはならない。女は好き嫌いで自分の行動を決める。正しいとか間違っているとかは関係がない。男と向かい合っているときに女の関心は「私を好きなのかしら?」とまず、考えている。

アイドル板を6年ほど居座っての筆者の結論である。掲示板の書いたものは男が書いているから関係がない。そうではなくて掲示板に乗る情報の方だ。どうでもいい番組や動画の情報があるので、そこからどうでもいいアイドルのやり取りを眺めに行く。そのどうでもいい内容こそ、女の本質が浮かび上がってくる宝庫になっている。

女は夢を語っても基本的には悲観主義が多い。容姿に優れながらなお自分の欠点が気になって仕方がないらしい。それも当然で容姿は年齢に伴って「可愛らしさ」が消えていくからだ。「女は生まれた時点で勝負が決まってしまう」と女性の誰かが書いていたが、これは男の認識が浅すぎる解釈だ。キャパクラやクラブだけが男の生態ではない。

同じようなことは女にも言える。女が男を好きになる要素は年齢によって変わってくる。この変化を考慮しないで「女はこういう男が好きだ」と自分が考えるモテる条件から外れた男が嘆くのは間違っている。男も女も好みの面ではけっこうマニアックなのである。

このマニアックさはきちんと考える必要がある。単純に「変態!」と決めつけてもその人の人生で得るものは少ない。しかし「マニアックさ」について熟考すると視界が急に開けてくる。もちろん犯罪性のある「病的な変態」は除く。ま・・・これも考えて見れば面白いかもしれないが・・・。

日経の記者がアダルトビデオに出ていたと話題になったが、目ざとい筆者はちゃんとその動画を探して観た。「あ・・東大卒なんて邪魔になるだけだっただろうな・・・」と思わせる容姿だった。男にとっても東大卒なんてどうでもいい顔と体なのである。「これはモテる女だな」と思わせる顔と体。

ここで「結婚」という男と女の関心ごとになることを絡ませたい。

結婚というのは生活がからむ就職みたいなものだ。「結婚した」というのは「正社員になった」という意味に等しい。だから「愛してくれている」と女性が考えるのは間違っている。間違っているから結婚したあとで「こんなはずでは・・・」という悔いが出てくる。「就職した!」と考えれば悔いはないと思う。要するに「個人問題」と「社会問題」を混同しているわけで「結婚」は社会問題に属することなのだ。だから結婚式は「契約」ごとを厳かにやる。

「就職」となると合コンなどは「就職活動」そのものである。男に「採用させたい」という気持ちを起こさせるように女はあの手この手を考えてくる。もちろん、人材として優秀な人物は企業の多くから誘いの手が伸びるように男人気のある女性は高根の花になっていく。ただ就職と違うのは「高根の花」は年齢が行くにしたがって暴落してしまう厳しい現実があることだ。

客観的にはそういう法則性があるわけだが、男女関係は一方で徹底的に個人的嗜好の世界でもある。しかも厄介なことに女性の年齢が高くなるにつれて若い男に惹かれるようになってしまう。自分は暴落しているのに、自分が望むのは高値の若い男なのである。もちろん若い男でも稀に熟女好きが居る。「稀」ではあっても実際にそういう若い男が居るのは確かだから期待が消えない。

かなり横道に逸れたので軌道を修正する。

男女関係で公然と口にされないことの一つに「性感」がある。セックスは奥が深く、「気持ちがいい」のにもピンからキリまで何段階もあるのだ。これも刑務所上がりの人間が間違って「性技」にやたらとこだわるが、女の性感は状況で決まってくる。動物で子供が居るときは発情しないという種が多いが、これは逆に言えば子供を殺すと発情するということでもある。だからチンパンジーでもライオンでもメスの子供を殺すことがある。この場合、子供を殺されるという異常事態が重要なのだ。異常事態でメスは興奮し、そして発情してしまう。

性的な興奮と異常事態は連結しやすいのである。

人間も含めた動物の生態を調べていくと男女関係を語るのは単純な視点では収まり切れないとつくづく思う。筆者は結婚して落ち着いた時期にやたらとモテた。この場合、自分から声をかけるのではなく、向こうから誘ってくるという意味での「モテ方」だ。しかも相手は処女から人妻まで立場に関係なくだ。当時はあまり自覚はなかったが、今なら「モテる」理由が見えてくる。自分が喋るのではなく話を聞く側に回っていたためだ。それも当然で、筆者はまだ新婚時代なのでちょっかいを出す気など欠片もなかったからである。

女に縁がない男性には助言をしたい。女性は身近な相手を交際相手に選ぶ。だから身近なだけに「嫌われる」ことをやっていれば絶対にモテない。断言する。では嫌われるとはどういうことなのか?極端に言えば相手に関心を持つことだ。そもそも女性の関心ごとは相手が自分を好きでいるのだろうか?ということだから、女性に関心を持てば「好き」か「嫌い」かのどっちかに傾いてしまう。一方、女性に関心を持っていないと逆に女性は、ま、誰でもというわけにはいかないが・・・女性は関心を持ちやすい。観ていないようでちゃんと見ている。

これも男の社会性本能では見落としがちな事柄だ。女は社会性本能が希薄だから、希薄な分だけ男を異性としてちゃんと見ている。これに気が付けば女性との関係は良好になるはずだ。

女性に対しての助言としてはやはり男の社会的本能である。有能な女性は好かれる。かっこよく見える。話していて楽しい、という気持ちは男女ともにあるが、この楽しいという気持ちが「異性」として「好き」に変貌するのは男の方が多いかもしれない。筆者もそうで、肩の凝らない女性と話友達として長年付き合っていたが、ふと「やりたい!」という気持ちになった。性的にぜんぜんアピールしない女性なのにだ。そしてやっている光景まで気楽さの伴ったセックスに見えた。「気楽なセックスか・・・」これはこれでいいだろうなと思った。

筆者は心の切り替えが早いのですぐにそうなった気持ちも消してしまったが、ここからセックスの伴った女友達という関係は十分にあると思えた。

不倫とか何とかで想像力の貧弱な意見が飛び交っているから一石を投じるつもりでこの一文を書いた。








誰が「日本人」という言葉を使えなくくしたのだ?

筆者はスパイものが好きで中野学校はもとよりCIAやKGB、モサド、数え上げるときりがないくらい何十年と気が向いたら購入して読んできた。こういう傾向だと「謀略もの」が好きになりそうだが、一方で「技術」が好きなために結果に至る「工程」で「謀略」も読み解こうとする。

「機械」の面白いところは工程なのだ。夢の語る部分など全くなく、水道を各家庭に設置するなら、どの工程でも壊れたり、未熟であったりすると断水か、あるいは濁った水が出てきて使い物にならない。

謀略も同じだ。ただ違うのは各工程で必ず人間が介在し、そのために潜水艦のような組織構造を作ってくる。どこかが浸水ししてもハッチを閉めれば浸水はそこで止まってしまう構造だ。謀略でこの組織構造をとっていないものは単なる犯罪組織に過ぎない。しかし独立した部署をいくら作っても連結した指揮系統がなければこれは百姓一揆のようなもので正規軍に簡単に制圧されてしまう。

こういうパターンがインターネット以前にはあった。しかしインターネット以降、指揮系統が暗号化されたようになってくる。指揮系統の所在がものすごく解りにくくなっている。結果、現在のようにテロの制圧が不可能になってしまった。

IT企業とテロ組織の区別が事実上できなくなっているのだ。

組織論で言えば「ピラミッド組織」はITの進展によって技術的にも意味を為さなくなった。それでもなおピラミッド組織が維持できているのはニューギニア戦線で餓死状態になりながら上等兵が「中尉殿、自分の推薦状を本部に送ってくれましたか?」と問うてくる兵が居るからだ。情勢認識を自分で全くしないのである。「呆気にとられ、それから、こういう兵によって日本軍は支えられていたのだなと改めて思った」と中尉は書いている。

しかし当然ながら日本は負けた。技術的に言うと「負ける工程」になっていたから「負けた」と言える。

物事を「工程」として考えると言葉には騙されない。大言壮語や感情論など何の意味も持たないと解ってくる。都知事選での桜井が得た11万票は11万の東京都民が桜井を支持したわけで、この数字は現実を語っているものとして捉えるべきだ。桜井を敵視した勢力ほどこの現実の威力を認識している。それまでは桜井がどれほどの支持者を得ているかが全く読めなかったのである。

「工程」は石を積んで目的に達するようなものだ。石を積まないで目的を語るのはバカの寝言でしかない。

東京都で桜井は11万の票を得たわけだから日本全国ではどれくらいの眠った票があるのだろうか?この場合、「桜井」はすでに代名詞となっている。代名詞であるから代わる実態がある。かってサラリーマン新党などの泡沫政党が浮かんでは消えたが、どの泡沫も11万票は得ていない。桜井は何を代表しているのだろうか?これを正確に掴んでおかねばならない。

政治好きならヒトラーのナチ政党が最初にどれくらいの票を得て、そして議会に代議員を送り込めるようになると見る見るうちに大政党になっていった歴史を知っているはずだ。ヒトラーは何をドイツ国民に訴えたのか?そしてその訴えが何故、ドイツ国民の心に届いたのか?ヒトラーを批判するの簡単だが、歴史的事実を批判しても無意味だ。そのとき、ドイツ国民は明瞭な意思表示をやったのである。

ナチ党は社会主義政党である。この事実を大戦後、ほとんどが無視している。いや、ドイツではナチ時代の政策を公表するだけで罪になった。誰にとってナチの政策は都合が悪いのか?ナチは民主主義の手続きをとって政権の座に就いたのである。ヒトラー独裁は議会が承認したためであるから、問題は当時のドイツ議会にあるはずではないか?これは民主主義が変質する重大な問題であるのにマスコミで大きく取り上げられたことがない。この問題は誰にとって都合悪いのか?

物事の進行で変質する過程は工程で言ってもものすごく大事な場面だ。

民主党の管総理は「限定的独裁」にしろと言った。この言葉を記事で読んだとき、「こいつ、ヒトラー独裁の過程を模倣しようとしているな」と筆者はすぐに思った。しかし語弊があるが、神風のように大災害が起きた。政治の独裁など吹っ飛んでしまって、直ちに対処する事態が起きた。

韓国の日本乗っ取り計画はいまだに諦められず、ユダヤ人が米国を乗っとった手口を執拗に模倣して続けている。ユダヤ人が米国乗っ取りに成功したのは報道機関、それも全世界の報道機関を事実上、手中に収めたからである。日本も孫が新聞王と言われた人物を引き込んでテレビ局の乗っ取りを狙って挫折した。筆者は全面的に「孫」を否定するのではなく、ネットの興隆に孫は大きく貢献したと考えている人間だが、テレビ局が日本人の手から離れて久しいために、この問題はきちんと捉えておかねばならない。

NHKを含めたテレビ局は「日本人のものか?」と世間が大合唱するのを一番恐れているのがこの連中だ。

韓国の慰安婦に高額のカネを与えて、台湾の慰安婦には一銭も与えないという政策は怪しさ満載ではないか?あれだけ慰安婦問題を政治化されて、さらに親日の台湾まで敵に回そうとする外交政策は明らかに日本人の手から離れた外交だ。

外務省にしても財務省にしても「日本のため」という視点で観ると怪しさが実に多い行政機関なのである。「日本人視点」など当たり前すぎる視点なのだが、報道機関が怪しげな連中に握られると「日本人」という名前を出すだけで悪人呼ばわりされてしまう。これはおかしすぎるし、あってはならないことだ。

日本人視点でひとつひとつ点検する時代に入った。東京都知事選はひとつの一歩だ。これからは様々な場面で「日本人」を取り戻す必要がある。

優しさは文章にも出てくる

筆者が愛読していた週刊新潮や週刊文春に見切りをつけたのはネットの出現だけではない。週刊誌の文章がある時期から「優しさ」を失っていったためだ。

スクープ記事でも、記事を書く文章に優しい人柄が垣間見えると、以降大した記事でなくとも読む気は起きる。これはスナックに通い続ける常連と同じ人の心理である。週刊誌は水商売と変わらないから人の気持ちを汲まないと客が離れてゆくばかりになってしまう。

ではどうして「優しさ」を失った文章ばかりになったのだろう?

思い当たるのは「競争」至上主義でしかない。そして、それが団塊世代と繋がってくる。圧倒的に数が多い団塊世代は中学時代から「ゆりかごから墓場まで一生競争だぞ!」と言われ続けてきた。だから「競争に勝つ!」という強迫観念に縛られて、その影響が団塊世代の子供にまで及んだ。

しかし団塊世代は文字通り棺桶に片足を突っ込んだ年齢になってきている。人生はもうすぐ終わるのだ。

そうなって初めて「いや、人生は競争ではないな」と解ってきた。重要なのは人との関係なのである。胸を熱くさせるのは人の優しさだ。勝ち負けしか考えていない人間にはこの優しさの表現が見えない。ひたすら「勝った!」「負けた・・・」だけで生きているために「優しさ」という繊細な感情が見えないのである。

ま、そういうのとは関係を持っても不快になるだけだからどうでもいいのだが、文章の場は自分との対話であるために書いている。

筆者の大きな出来事は動脈瘤の手術、それも2回。心臓の方は入院も1日で済んだが、腹部動脈に人工血管を入れる手術は入院が10日間あった。たった10日間で・・と言われそうだがその10日間で10キロは痩せた。痩せるだけの10日間の苦痛があった。入院中はテレビばっかり見ていて、それで「テレビも案外と面白いな」と思った。つまり筆者は何十年もテレビを観ない生活を送っていたということだ。暇があれば釣りかパソコンという生活だ。

入院とか手術というのは自分の命と直接かかわっているから否応なく人生というものを考えてしまう。

「死んだらそれまで!」というのは否定できない現実だ。そうすると「生きるといことは自分を見つめて、自分が納得できる生き方」をするのがベストという平凡な結論になってくる。他人が口出しできない厳粛な事柄が一人一人の人生なのである。

何が正しくて何が間違っているかは「人生」という基準で考えると簡単には答えが出せない。筆者の場合は「体験」を自分の人生の指標にしていた。筆者の若い頃は小田実や開高健、あるいは天井桟敷の寺山修司など、「行動派」とも呼ぶべき人が多く居て、筆者もその影響をモロに受けている。イデオロギー的なことはともかく、「行動する」という生き方は現在の歳になっても間違いではなかったと思える。行動した分だけ想い出せることが多いからだ。

しかし「行動」には常にリスクが伴っている。が、リスクこそ生きている証しとも言えるのだ。冒険家はそのために命を投げ出す。

行動していると作の前での想像とは比較にならないほど微細かつ多彩な出来事に出遭う。この微細で多彩な出来事に接して人は「優しさ」を身に付けることができる。単純な生き方をしている人は想像の範囲が狭いので「思いやる」範囲も狭くなる。井戸の中が世界だと思い込んでいる。しかし現実は信じられない世界が数多くあるのだ。筆者も色々と体験しているのでそれを言い切れる。

事件などである人物を考える場合、多彩な体験は確実に役に立つ。その人物の周りをも想像してその人物の動機を探ることができる。サロン政治と揶揄してこのブログでも書いているが、サロン政治の場、そこに集まる人々の関心ごとが手に取るように見えてくる。重要な役職だからと言ってその重要さに比例した体験をしているわけではない。その世界もやはり井戸なのである。サロン政治という井戸の世界なのだ。これは貴族の世界と同じで、刺激がほとんどない生ぬるい世界でもある。

前回「新世界秩序」という目論見を弾劾したが、これは完全にサロン政治の酷薄さと軸を一つにしている。「生活」という意識が希薄なのがサロン政治の場なので、現実離れした政策が次々と打ち出されてくる。政策にも酷薄な政策と「優しい」政策がある。政策も言葉で成り立っているからそれが窺えるのだ。

右でも左でもどっちでも構わないが重要なのは責任のある立場の人格だ。人格に優れていれば無茶なことはやらない。逆に酷薄な人物、毛沢東など典型だが、あの大きな体を周囲の人間が担いで毛沢東は戦争を指揮した。毛沢東の伝記を読むとそれが描写されている。描写した人物は毛沢東を憎んだであろう。少なくとも人格者として尊敬はできなかったはずだ。

日本共産党のリーダーはどうだろう?共産党員はそこを見直した方がいい。

財界でも尊敬できる人、唾棄すべき人と実に多彩である。我々は何を基準にして人を評価すべきか?この評価基準をじっくり考えることは自分にもつながってくる。

下書きをしないで書いているから文章が散漫になったきらいはある。

米国防総省で650兆円の使途不明金発覚

米国防総省で650兆円の使途不明金発覚、9.11前夜と全く同じ事態が進行中

ペンタゴンに設置された監察総監室が同省における巨額の使途不明金を指摘したのは、これが初めてのことではない。2001年に「2.3兆ドル(当時のレートで約276兆円)もの使途不明金がある」との監査報告がなされていたのだ。この事実を当時のラムズフェルド国防長官が公表したのが、現地時間9月10日。彼は「徹底的に調査し、議会に報告する」と約束した。ところがその翌日となる9月11日、あの米国同時多発テロ事件が発生してしまうのだ――。


http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201608_post_10676.html?_p=3

この記事は久しぶりの刺激的な記事だ。全記事をミラーとして保存するつもり。

さて「650兆円」という天文学的な使途不明金の使途については世界中の人間が様々な推理をやることになるだろうと思う。
筆者も妄想的予測を考えてみた。

9.11事件前でも同じように巨額の使途不明金が出てきたが、むしろこの9.11事件は今回の使途不明金の試し事件ではなかったかと推測している。というのも筆者は通信盗聴システムの「エシュロン」を追いかけていたことがあり、そして「エンロン」と続く超巨大な謎に出くわした。

エンロン(Enron Corp.、2007年3月にEnron Creditors Recovery Corp.に改称)は、アメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに存在した、総合エネルギー取引とITビジネスを行う企業。

2000年度年間売上高1,110億ドル(全米第7位)、2001年の社員数21,000名という、全米でも有数の大企業であった。しかし、巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て、2001年12月に破綻に追い込まれた(エンロンショック)。破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われている[1]。2002年7月のワールドコム破綻まではアメリカ史上最大の企業破綻であった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%B3

これだけの記事ではエンロン事件の性格が見えないので、エンロンのビジネスモデルは資源の金融化とすれば次に続くリーマンショックと繋がってくる。エンロンの結果を確認してリーマンショックを引き起こし、不正の何かがうやむやにされたと観れば大事件の底流で何かが繋がっていることを容易に想像できる。ちなみにこのブログでもたびたび触れている「世紀の空売り」はリーマンショックの記録小説だ。しかし、このドギュメンタリーももっと巨大な陰謀を隠すためのトリック小説とも読めるのである。

そして9.11。

事件と巨大な陰謀を繋げる「目的」があるとすれば「新世界秩序」以外にはありえない。

「新世界秩序」という世界的な統治システムを作るには途方もない天文学的な資金が必要になってくる。その使い道の多くは世界各国の有力者に対する賄賂みたいな不正使途に使われる。「こういう計画が進行しているので、あんたたちは黙って従ってろ!」というわけだ。

ここにグーグルやアマゾンなどのネット支配企業が絡んでくる。グーグルも謎の動きがあって、グーグルに流れ込んでくる巨額の資金はどこから来ているのか筆者には読めないのだ。

簡単に整理しよう。

エシュロンで世界的通信傍受のシステムが完成した。

次にエンロンで金融犯罪の結果、体制が揺るがないことを確認した。

次にリーマンショックで金融混乱に乗じて旧形態のシステムを破壊し、新たなシステム建設を築き上げた。

これによって世界の階層は超2極化し、奴隷状態にまで落ち込んだ国民が反乱を起こさないように縛り付ける法的処置が必要になってきた。そのために9.11事件を起こし、この事件で一気に米国は警察国家と化した。言論の自由を事実上、失ったのである。

しかし、ここまでは米国社会での展開だ。「新世界秩序」は世界を米国のような警察体制に持っていかなければならない。極小の支配層と圧倒的多数の奴隷状態になった世界国民という構図では統治するためにそれが絶対に不可欠だからだ。

そうすると資金は?という問題が出てj来るわけで、ここで表題の650兆円の使途不明金という具体的な数字が記事になって現れた。

世界支配の資金というのは巨額であるがゆえに最初から用意はされていない。様々なやり方で資金を作り上げていく。国家運営でも同じだ。貿易では「関税」収入が政府の入ってくる資金だ。海外が絡んでくると国内の政策で資金を作るよりも不正がやりやすいのである。しかも海外との協定ではどこまでが正当で、どこから不正であるかの線引きが難しい。

650兆円は巨額だが、世界を巻き込む作戦であれば呼び水程度の金額でしかない。

グローバルはこういう天文学的な不正がやれる世界でもある。これを実現させるにはまず報道機関を黙らせる必要がある。いや、黙らせるどころか、作戦に加担させねばならない。

しかし世界には「正義感」のある人物も多数いる。こういう戦いの場合、ゲリラ戦のように、あるいはベトナム戦争のように勝敗の決着はつきにくい。

「新世界秩序」という超巨大な陰謀の存在を信じて世界を見渡してみよう。そうすると・・・符合するような事件が多数起きていることが見えてくる。「移民政策」などその代表的な事件だ。「移民政策」が本当に必要かを誰が信じているのか?移民政策の結果は惨憺たるものでないか?にもかかわらず執拗に「移民政策」を進めようとする勢力がある。まるで誰かに指示されているかのように世論を無視して強行しようとしている。

繰り返すが「新世界秩序」の陰謀は「民主主義社会」への挑戦であるために警戒し過ぎるということはない。この対抗策は「民主主義」の実行、貫徹だ。

民主主義体制ができている国では非常に選挙が大事になってくる。この意味で「新世界秩序」を側面援助する左翼のような連中も民主主義を守るために壊滅させねばならない。問題を混乱させる勢力として存在しているためだ。

「新世界秩序」という地球的謀略の存在を信じて、その視点で世界の出来事を観ていただきたい。首肯するような出来事が次々と出てくることを請け負う。

辰吉一郎の的確な言葉

辰吉一郎のボクシング絡みの番組を観ていた。

https://www.youtube.com/watch?v=YQ2d0zeU7hk

ここで「お前の速度は遅い、いや、パンチの速さが遅いと言っているのではなく、次の攻撃が遅いんや」と言っている言葉を聞いてハッと筆者は感じた。

人の運・不運はある局面での選択で決まるように思われがちだが、実際は違う。大きな選択の前後に小さな選択がある。戦争の決定の前には小さな決定が何十も重なっている。ボクシングの試合でも一発の重いパンチが入ると、それまで優勢に試合を運んでいた相手が崩れてしまう。その重い一発はカウンターでのパンチになりやすいからどの選手もカウンターを狙い、カウンターを警戒する。

辰吉が言っていることはコンビネーションのことだ。一つのパンチだけに頭を使うなと言っている。頭の中に攻撃の組み合わせを置き、そしてパンチを放てと言っている。

これはあらゆることで通用する考え方だ。しかし、コンビネーションを身に付けるのは容易ではない。日本の学校教育では単発主義の教育をやっているから数学なら数学、英語なら英語の成績がいいものを優秀とする。しかしこれではコンビネーションを「磨く」ことはできない。「組み合わせ」を作るのは冷静な思考力による。覚えることではないのだ。

辰吉でもコンビネーションの考え方をするようになったのは実際での試合で「彼と我」の対比を考える必要に迫られたからだ。戦う相手は多様なのである。そういう多様な相手と戦うには1種類の戦い方では相手にも手の内を読まれて勝つには相当「無駄」な努力が必要になってくる。そういう「無駄」をやるよりは相手との比較で勝つ方法の組み合わせをやれば済む。

1芸に秀でるのは相当に時間を要するし、また資質も要る。が、ある程度までの水準に達するには資質があれば案外と早くたどり着く。時間がかかるのはその先だ。ここで人は「無駄」な道をさらに進もうとするのが普通だ。今までやって来たことの延長だから立ち止まって考えもせずにさらに進む。

しかしそれでチャンピオンになれるのか?この自問が要る。「ここから先は資質が決定的な意味を持つのだぞ!努力だけでは追い付かない世界に入るのだぞ!」という自問だ。この自問は自分の資質も再点検することに繋がってくる。「俺は何が強いのか?」という自問だ。

人は生まれたときからさまざまなハンデを背負っている。そのハンデも資力や容姿、頭の回転の速さ、鉄面皮から顔色をやたらと窺う気質まで実に多様であり、同時に克服可能なハンデと克服不可能なハンデもある。

コンビネーションとはこういうことを頭に入れて自分が優位に立てる戦法を編み出すことを指す。だからボクシングだけでなく全てに通用する考え方だと言った。それでも勝利は簡単には自分のところに来てはくれない。何故か?弱っている相手から打ち出された思わぬ強いパンチで、それまでの勢いが崩されることが現実には常にあるためだ。

人が生きるというのはどの時点でも一つの局面でしかない。人生という流れの中の一部分だ。一つの局面で勝っても次に来る局面では負けるかもしれない。「思わぬこと」は普通に来る。そうすると「勝つ」という努力と運による成果よりも「負けない」選択肢の方が確実性がある。「負けない」ために勉強する、あるいは努力するという姿勢になるわけだが、しかし、これもまたこの境地に達するにはそれだけの資質が要る。

書いていて「う~む・・・人生は簡単には語れないな」と思ってきた(苦笑。

ともかく「単発」にこだわって巧くいかないなら「連続の考え方」に変えてみることだ。それだけで今まで見えなかったことが見えてくる。見えなかったことが見えるというのはそれだけ選択肢が増えたということでもある。選択肢が増えれば組み合わせ方の範囲も広くなる。

「アマゾン帝国の全貌」というカンブリア宮殿の番組があったが、創立者の言っていることは誰でも思いつくことだ。しかし、誰もが「アマゾン」を作ることはできない。たった一人だけだ。「何故彼ができて他の者はできないのだ?」こう考えると「連続した選択」の重さが解ってくる。選択の積み上げというのはピラミッドを作り上げていくのと似ている。いや、もっとか細く、積み木をどんどんと積み上げていくゲームに近い。一人の人生ではそうなる。

SMAP解散でも一人一人が人生の岐路に立たされた。

解散という局面とそれからの自分の人生は繋がっている。この「連続」を見据えた者は「連続」を見据えていない者に対して的確な判断ができるはずだ。この場面でも「全体」を観ていたかどうかが関わってくる。

「次の攻撃が遅いんや」という言葉はけっこう含蓄がある。辰吉は自分が口に出した言葉を誇っても良い。
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