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豊洲を初めて問題にした共産党

【不肖・宮嶋 コラコラ記】豊洲を初めて問題にした共産党

 そんな次から次へと出てくる問題…いやもはや犯罪と呼べるスキャンダルのせいで、いまや東京都民は中国国民すら笑えん始末やないか。あの無能なネズミ男やドグサレ官僚は論外としてもや、都議会の最大勢力、自民党のセンセイ方は何やっとるんや。

 それに比べて共産党の活躍たるやどないや。目を見張るもんがあるやないか。豊洲市場の地下空洞を初めて問題にしたのも共産党やろ。その尻馬に民進党や、与党である公明党都議までが乗り、ノコノコ豊洲まで出かけていっとるけど…アンタら初めて行ったんとちゃうんか。


http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160929/dms1609291550003-n1.htm

「株式会社 共産党」と少し前に書いたが、イデオロギーを無視して共産党の「企業資産」は相当なものがあると指摘したい。この場合の企業資産は流動資金や不動産とは違う「情報取材能力」だ。

筆者が共産党の社長なら元東映の岡田茂社長の口ぶりを真似て「おまえら、今日から共産党は赤旗を主力にした報道専業企業に変えるからな。うちは中国共産党とも喧嘩してきたバリバリの自主独立政党やで!伝統も古いし、日本全土にうちの党員が公だけでなく行政の秘密党員や労働組合のオルグをするために潜り込んだ党員がいっぱいおるんや。この意味、解ってるか?日本で最高の情報収集能力があるちゅうことや!ほんだらやで・・・わしら、朝日とか毎日とか日経に劣らん取材能力があるわけやから赤旗一本で新聞社として十分にやっていけるやろ?そしたら・・・月収10数万円の専業党員にもちゃんとまともな給料を払えるやんけ。今のままやったらじり貧やけど、報道専門会社になったらネットも活用できるし、民商が持ってる零細企業も広告を出せる。な?客もちゃんとおるんや。そういうことやから、マルクス主義はやめにして、グーグルやアップルみたいな巨大企業を目指して日本共産党は変身する!もう安給料はおまえら、嫌になってるやろ?わしらの未来は明るいから頑張ろうや!」

ザワザワ・・・・と党大会の会場がざわついてくるが、会場に集まっている党員の表情に暗さは消えた・・・・

「企業資産」にはこういう組織力やネットワークも資産になるのだ。問題は「社長」や「会長」の個人能力であって、さらには教条的な教典」に固執する組織の頭の固さだ。株式会社共産党と互角の競争力を持っているのは株式会社創価学会だが、こちらは体制内革命を狙っているので野党的な報道が聖教新聞にはできない。株式会社自民党の組織力は商工会議所や経団連などの経営層に限定されて顧客が偏ってしまっている。民進党は外国人工作員の巣として世間に知れ渡ってしまったから泡沫カルト集団にまっしぐらで基盤の労働組合もいずれは共産党勢力に取り込まれてしまう。

政治の顧客は日本の有権者だ。顧客の声を無視すればどの政党もやがては潰れる。情け容赦のない市場の力でそうなってしまう。

政治熱心な人は是非とも株式評論家のような視点で政党分析をしてもらいたい。それぞれの政党の潜在能力や、それを生かすことのできない経営陣の無能さが浮き上がってくると思う。
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朝鮮人のお辞儀の由来

日本と朝鮮のお辞儀の違い

では、このおかしなお辞儀のもとになっている朝鮮式コンスは、どのようなものかといえば、
李氏朝鮮の時代まで女性には国王の妻 つまり国内で最高位の女性であっても
名前がありませんでした。

「名前がない」ということは、人でないのですから、当然に人権がない、ということです。
そして「名前がない女性」たちは、野良犬や野良猫と同じで、どこで死んでも誰も見向きもしない存在
だったということです。
まして一般の女性であれば、
貴族階級の両班であろうが、奴隷階層の白丁であろうが、女性に名前はありません。

そしてチマ・チョゴリの下に下着はありません。
ハダカです。
では生理のときはどうしていたのかというと、村ごとに生理用のボロ屋があり、
生理が終わるまで女性たちは、まるで家畜のようにそこに閉じ込められていた。
つまり(これを読まれれる女性の読者の方にはいささか酷な話ですが)、
朝鮮ではほんの100年前まで、女性は単なる子を産む道具、
もしくは男性の性処理のための単なる道具でしかないとみなされていたのです。

朝鮮半島の女性に、名前が付き、
彼女たちに人としての権利が認められるようになったのは、
日本が統治して以降のことです。
それまでは、女性たち人間扱いされていなかったのです。

初の朝鮮人女性の遺産相続者も、日本統治時代に誕生しています。
これは、朝鮮の歴史始まって以来初めての出来事として、
当時の新聞に大々的に報道されています。


http://20120901.blog.fc2.com/blog-entry-1131.html

何故、唐突にこの韓国式お辞儀を取り上げたかといえばサンマがヒロミの自宅を訪問する番組があったとき、松本伊代がごく普通に日本式のお辞儀をして妙に懐かしく感じたためであった。そうなのである。筆者が小さい頃には当然ながら日本式のお辞儀が当たり前であったのだ。だから問題は「妙に懐かしく感じた」という一点にある。

テレビである。間違いなくこのテレビが朝鮮式お辞儀を日本に広めようとして、テレビ番組ではめったに日本式お辞儀を観ることが無くなった。日本の文化破壊を日本のテレビ局がやっている。

この朝鮮式お辞儀を皇族がどうのとデタラメを吹聴してマスコミは世間に広めているわけだから看過できない。また、テレビ局を全廃しても構わないという理由も汚染が広がりすぎているためだ。朝鮮人のこの感覚は余りにも幼児っぽく、かつ煩わしいものだから、朝鮮人全部を日本から追い払えという主張にも共感できるのである。その根拠を朝鮮人が作っているからだ。

ちなみにロジック的にも歴史的にも上記のサイトは懇切丁寧に説明されているので、理論武装としてもきちんと読んでいただきたい。

朝鮮人の政治音痴

これは朝鮮人に限らないことだが、「ミクロ視点」での方向性欠如が政治に出てくると政治音痴に陥ってしまう。

今の朝鮮は日本国朝鮮県、あるいは中国朝鮮県と考えれば朝鮮の政治は理解しやすい。頭が「日本」か「中国」でいっぱいになって「世界」が見えていない。しかしインターネットの時代になって朝鮮視点でない世界の光景が国境を越えて広がっている。

インターネットで見える世界は部分的には欧米視点とか中国視点、あるいは日本視点、さらには中東視点、ロシア視点と様々だが、これが「総合」となるとどの国の視点でもない中立的な視点の世界が浮かび上がってくる。

こういう中立視点で見えてくるのは「支配」ではなく「影響力」の動きだ。

「支配」の動きは局地的で一点の動きとなるが「影響」の動きには「互いに影響しあう」という意味で多面的である。この「多面性」は文化や文明と通じるもので強制ではなく積極的に受け入れていく動きだ。積極的に受け入れるから「強制」が限定的で、長期には「強制」の意味も力も失っていく。

かっての日本も「アメリカ国日本県」の様相があった。これを「アメリカの支配」と受け止めるのは事実を直視していない非常に狭い視点であって、米国の開放的な文明は確かに日本人に限らず世界の人々を魅了したのである。その米国の影響力を「米国の支配」という狭量的な視点に米国が変わっていくにしたがって米国の影響力は低下していった。

「支配」の基盤は「損得計算」である。「自分だけ得をしたい」ために「支配」を追う。しかし世界を一つの市場と考えると「市場の価値観」、つまり「需給」という普遍性のある動きになっていく。「普遍性」としたのは市場が参加型であるためだ。積極的に市場に入ろうとする姿勢があるから「強制」ではない。

韓国の場合、韓国の富の60%を財閥系の10%が取り込んで、残る富の40%を90%の韓国人が散りあうという状況だ。そうすると数字で出てくる韓国の経済規模の実質は半分以下の40%でしかなく、この40%の経済規模の中で韓国人は生活を営んでいるということになる。「数字のマジックに騙されるな」ということで、これは日本でも米国でも中国でも同様だ。

その意味で「民族」とか「国家」の生産規模は圧倒的多数の国民が生活をしている「本当」の経済規模を割り出さないと国民にとって意味がないのである。こういうことをやがてどの国の国民も気が付くようになる。

米国が世界に対して影響力を持っていたのは米国国民の生活が他国よりも豊かであったためであり、米国国民の生活が貧困化していけばどの国の国民も米国を軽視しだす。それは世界を2分割していたロシアの現状を見れば理解できるはずだ。ロシア人の生活状態が世界一であればロシアの影響力も世界一になっている。

影響力は「武力の規模」ではない。その国の国民生活で決まってくる。アジア人の生活が貧困であれば「アジア」は世界の国の人々に何の影響力も与えないのである。これが「世界の現実」だ。

「韓国人の政治音痴」と表題にしたのは「自分達の生活向上」を国民一体で目指す思考力が欠如しているために「間抜け」という意味で書いた。当然、これは日本でも同じ指摘ができるが、日本人の場合は「企業主導」の政治が長年続いているために「市場」という世界認識が身についている。「世界」と「市場」をセットすれば「民族というローカル」視点ではやっていけないから「世界」という視点が広がっていった。世界認識がないのは日本のマスコミだけだ。ま・・さすがに最近のテレビは「世界」を見ようとしだしてるが・・(苦笑。

だからといって民族というローカルを否定するわけではない。「市場」は多様性を求め、多様性を求めるから多様性の供給源としての民族の価値はある。しかし、「民族支配」という邪念を持てば多様性の否定となって市場から追いやられるのである。中国の「政治支配」という強迫観念は世界市場が出来上がっている現在、呆れるほどの事実認識欠如になっている。

最初に「世界」、次に「民族」という優先順位の取り扱いを間違えれば、やること、言う事、全てが見当外れになってしまう。橋下など「血統」と口にする始末だが、橋下はいったい何歳だ?戦前の頭で現在を語るとすれば完全に遅れるに遅れた「マスコミ脳」に浸かり切っている人物だ。戦後教育はこういう人物を次々と生み出してきた。世界が見えないのである。「世界の基準」が「人間」にあることが理解できないのだ。

「人間」を基準とすれば「血統」など問題にもならない馬鹿げた意識になる。そんなことよりも「人間を土台に置いた合理性のある社会」を追求する方がインターネット時代にとって必須のはずだ。排除すべきは「非合理な人」である。

守る姿勢と攻める姿勢

元Epic Records、SME代表取締役社長だった丸山茂雄さんは退任時のインタビューで日本のメーカーはこれからは著作権フリーにして違うビジネスモデルを作り上げないとアジアでも勝てなくなると語っていたわ

2chはこういう洞察力に優れた書き込みがたまに上がるから軽視できない。

実際、出版社も新聞社もテレビ局もNHKですら既得権益に胡坐をかいて、自分で自分の首を絞めている。YouTubeの衝撃というのは幕末の「黒船」に匹敵するという認識がない。

マイクロソフトでも世界を視野に入れて「OS」という支配的立場を獲得した。そのマイクロソフトもネットの登場で支配的立場が危うくなり出している。ここで「絶対に」という言葉を使わねばならないほど重要なのは「ダイナミック」さの有無だ。

ダイナミックの用語解説 - 動的という意味で、パソコン用語では、状態や状況、時間によって変化するさまを表す言葉。

世界は現在、必死に考える者が有利に立つという状況になっている。既得権益を壊す者は直接に既得権益と衝突するわけではない。技術の歴史を眺めても基幹技術が出てくると既得権益など相手にしないで周辺波及で既得権益を追い込んでいく。これは正しく環境に適応できるものが生き残るという自然界の原則そのものだ。

そうすると「基幹技術」を握った者が絶対有利になってくるが、この「基幹技術」の発見がまた難しい。YouTubeを買収したグーグルはその意味で優れた企業というしかない。筆者などは間抜けでYouTubeの評価を完全に誤った。「著作権」という大きな壁を乗り越えることが出来ると思えなかったから読み誤った。これはアップルの音楽進出でも同様だ。

既得権益は武器にもなるが、自分の「手足を縛る」考え方にもなる。

ダイナミックさは「攻め」だ。相手が身動きできない状態ならそのまま攻める絶好の目標となる。しかも既得権益を守る側は少数だが攻める側は次から次へと攻めてくる。この無数の攻めによって既得権益側は崩壊してしまう。

「守りの思考」か?あるいは「攻める思考」か?

自分の姿勢がどういうものであるかを再点検する時代に入っていると考えたほうがいい。

株式会社は大航海時代からの歴史

大航海時代は15世紀半ばからだが、海賊と類似行為であっても「出資と成果分配」の資本主義的形式はそれだけの歴史を超えてきた。要するに「実務」の洗練。理屈に実際の諸問題を上乗せして妥当性を探る歴史。実際の諸問題は時代ごとに変わっていくから「変える必要のない」つまり「妥当性」だけが残って現在まで続いている。

会社法(かいしゃほう)とは、会社の設立・解散、組織、運営、資金調達(株式、社債等)、管理などについて規律する法分野(実質的意味の会社法(イギリス:Company law、アメリカ:Corporate law, Corporation law)、あるいはそのような名称を有する法律(日本の会社法、英国の Companies Act など)である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%B3%95

この法律をじっくりと読んでいけば「大衆参加」の実際の形態がどういうものかが理解できる。

で・・・政治も民主主義の理念では「大衆参加」「国民主権」となるわけだが、前回、政党の「株式会社」化を冗談ぽく提唱したが、政党を株式化にすることによって「政党の経営」が、経営の巧拙が、あるいは需給による淘汰が非常に解りやすく浮き上がってくる。

経済論の実際の実態は企業なのである。企業活動によって経済の浮き沈みが出てくる。

これで連想するのは刑務所などの行政の株式会社化であるが、これも株式会社法という土台があるのでイメージ的な善悪の論じ方とは違ってくる。株式会社の「利益追求」を問題にしてNPOなどの非営利法人も出てくるわけだが、NPOでも運営の巧拙で発展や消滅がある。また株式会社の「利益追求」は何のためにやるのか?という問題を考えると組織維持が大前提となるはずだ。組織運営に必要な資金を利益追求で補う、という考え方では非営利法人と営利法人の違いは全くない。「利益追求」などは可能性の話に過ぎない。あくまで組織維持の収益がなければ「利益追求」など絵に描いた餅に過ぎない。当然であって、組織維持の収益がなければ組織は存続できないからだ。

これは政党でもまったく同じで、だからどの政党も資金を得ることに熱心だ。いや、行政ですら全く同じなので、予算の分捕り合戦をやっている。この予算の奪い合いも基本は需給である。石油時代に石炭発掘の予算を要求しても通らない。

政治もまた需給だ。福祉政策の需要に対して「供給」の問題を討議していく。

政治を会社の考え方で見直せば無駄と必要性は非常に解りやすく浮かび上がる。人情論などのような曖昧な討議は経営に馴染まないからである。たたき台がすでにある・・・という事実は論争の混乱や混同も回避できるのだ。

ま・・・一度、会社経営の視点で政治を見て欲しい。経団連などでも問題を生む発言は全部が「政治」的曖昧さから出ている。自分が経営する会社でそんな曖昧なことを言えば株主総会で袋叩きにあって経営者交代だよ。

政党が株式会社であれば

政党の価値は時価総額で現れる。もちろん、政党株の売買ができるという前提だ。

株価というのは「期待値」も入っている。「期待値が低い」と、当然、株価も低くなる。

どの政党を支持していようが実際に政党が株式会社であれば支持とは別に持ちたい政党も出てくる。A社という会社で働いていても株を買っているのはB社というのは普通にある。政党では活動方針が変わると株価が高くなるかもしれない。ということは、それまでの活動がたいして社会にとって有益でなかったことを意味する。

要するに政党が株式会社であれば「毎日が選挙」なのである。

その選挙をやっているのが市場なのだ。市場が政党の株を売買し、その政党を独占したいとなれば買占めもある。独占の目的は政党が作り出す法律であって、独占したい側にとって有利な法律を作ってもらおうとする。

・・・・・こういう風に視点を変えてみると案外と、これなら「政党」という本質に迫ることが出来る。単純に政党が株式会社でないだけで、政治に対する姿勢は資金提供も含めて同じだ。

宗教団体も株式会社にして株の売買ができるようになれば経営の公開などで現状よりよほど明朗になると思える。資金が欲しければ増資するだけでいいわけで、「寄付」など無用だ。

こういう事を考えるのは評価「基準」の統一ですっきりさせたいためである。株価という数字に表れると、株式会社共産党も株式会社自民党も、あるいは株式会社日本第一党も「経営」という視点で皆が政党を観る。その株の売買ができるのだから、間違った買い方をしないために「経営の透明化」も要求する。株式会社創価学会であれば税金が特別待遇されていないかが問題になる。企業競争の公平さで問題になってくる。

株式会社NHKであれば、民放各社と同じ土俵に立つ。そうなるとやはり「経営」が焦点だ。

株式会社日本であれば従業員も株主も日本人である。もちろん世界市場で売買できるわけだから株式会社日本の株価も売買で決まる。従業員に外国人割合が多いと、それが有益なら株式会社日本の株価も高くなるが、有害であれば逆に低くなる。株価が下がって損をするのは株主の日本人だ。

・・・・「株式会社」視点は・・・・けっこう、いけるな

嘘が横行すれば社会は成り立たない

この簡単な道理が理解できない言論・報道の世界はどういう試験を受けて採用されたのか?そもそも応募者の書類が嘘だらけであれば書類の受付さえ意味が無くなってしまう。「本当」を知っているのは知人・縁故関係だから一般採用は消える。

科学でも同じだ。嘘の実験結果が学会で発表され続けると学会そのものが無意味になってしまう。実験結果のデーターも嘘であれば実験するのもやはり無意味だ。嘘のデーターを信じて何かを作り上げるととんでもない事故が起きてしまう。

社会のインフラも、例えば時刻表が嘘だらけであれば列車に乗るのも覚悟が必要になってくる。列車の運転でも何を信じて計器を見るのか?街の信号も同じだ。交差路は命がけで走り抜けねばならないし、歩行者も車は止まらないものとして道路を渡らねばならない。

当然ながら政治の嘘も深刻だ。政策は全て「嘘」となれば政党の公約も無駄な言葉の羅列にすぎず、自分達の代理人として政治家を選ぶには約束を反故にすれば命はないぞと脅して政界に送り出すことになる。要するにマフィアなどのギャングのボスが集まってことを決めるのが政治となるわけだが、そうなれば政党はギャング集団にするのが一番効率がいいということになる。

以上から「正直」は倫理ではなく、社会においては絶対的な約束事だと理解できるはずだ。

この絶対的な約束事をマスコミは自分達で崩し嘘をついても大丈夫という世論にし、これによって政治家も平気で嘘をつきだすようになる。嘘が横行する社会に向かっているのが今の日本だが、そういう嘘の社会は前述した上記の社会でもある。

社会の正常化は「正直」からとは・・・なんとでたらめな社会になっていることか!どんな思想でもいいよ、もう・・・正直に物事を語ってくれ!と頼むしかないが・・・これ、大変な状態だよ。

面白い社会・面白い国

【コミュニティの一生】

面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする

面白くないので皆居なくなる

>>3
高確率でこうなるよな


「技術の寿命」でも似たようなことを学問的に述べていた。「流行の寿命」でも「バブルの寿命」でもパターンは似たようなものだ。

「面白い人が面白いことをする」を、実はSNSは拒絶することがある。フェイスブックなどは宣伝メールをしょっちゅう送ってくるが筆者などは登録するだけで何もアクションを起こす気がしない。ライブドア・ブログから逃げたのも似た理由だ。ライブドアなどお尻の絵を載せただけで規約違反だとされて、それで「こいつら、バカの集まりか?」とFC2ブログに移転した。

どういう人を集めたいかという戦略を持つのは否定しないし、当然だと思う。昔流行ったテレビでのホームドラマのような風景をSNSで現出させたい→スポンサーが付きやすいという考えだ。

「技術の寿命」では新しい発明に対して真似の発明が次々と出てき技術は行き詰まって停滞する・・・というのを数値化してグラフで示していた。「真似」である。「真似」は試行錯誤が最小で済み、需要も立証されているのでリスクも少ない。この効率性で参入者グラフを跳ね上がらせるほどに増える。実際、供給が増えると需要もさらに増えるという現象は起きる。この場合の需要の増加は供給過剰による価格低下で引き出された増加だ。

真似は効率的ではあるが供給も増えるのでその分、利益は薄くなる。が、資本が巨大であれば真似元をひっくり返すことも可能だ。この資本の強大さで中国や台湾・韓国が伸びた。

こういう競争力については書きだすときりがないので「コミュニティ」に戻る。「面白い人が面白いことをする」である。

「面白い人が面白いことをする」ではかって米国にそれがあった。今でも「面白い人が面白いことをする」は多いと思うが、勢いが過去ほどではない。こういう場合、「面白い人が面白いことをする」人の存在だけではだめで、それを「面白い!」と評価する人がさらに10倍、100倍、千倍と居て「面白いコミュニティ」が出来上がる。評価する人が少なければ自然消滅で最初に貼った「コミュニティの一生」通りになってしまう。

SNSと同様に国でも地域社会でもこの図式は通用する。「誰が」面白くない方向に持っていくのか?・・・この発見は社会の活性に関わってくるから重要だ。

コミュニケーションとは何か?

コミュニケーション能力を「社交性」と受け止めやすいが、むしろ反対概念の「意固地さ」とは逆の態度と捉えるのが正しい。

黙っていても「意が通じる」のは普通にある。「相手にしない」という態度は相手への拒否だが、こういう相手に強引に話しかけるとさらに相手は頑なになってしまう。こういう「社交」は外国人に多いが、逆に日本人は少ない。それをもって「日本人は社交性がない」とするのは目配りをしない世界に慣れているからだ。

むしろ人の心に刺さってくるのは「目配り」の方だ。

「社交性」が表立ってなくても多くの人に好かれている人が居る。そういう人は細やかな「目配り」のできる人で、不愛想でも、というか、不愛想だからこそとする方が適切だが、「おっ!」と心の中で感嘆することやる。これは愛想笑いや猫撫で声の言葉と違って行為がその人の人格になっている。こうなると、むしろ「社交上手」の方がコミュニケーションでは間違った態度になってしまう。

ここで繰り返すことになるがコミュニケーションの目的だ。

人との疎通は連携を支障なくさせるためにやる。「疎通」という目的がなかったらコミュニケーションなど必要がない。文章も同じだ。他人に見せないメモなどの文章は判読できない字で書いても構わない。人に読ませるから字を丁寧に書く。「丁寧」であって「巧く」は関係がない。筆者などが若いときは「丸文字」が流行ったが、丸文字が「可愛い」というよりも先にまず読みやすい字体なのである。年配の人には顰蹙をかっていたが筆者は「字が意思の疎通」なら問題にする方がおかしいと思っていた。

日本の絵文字が海外にも流れ出しているようだが、これも「疎通をさらに細やかくさせる」日本人の性格が生み出したものだ。「丸文字」も文字に柔らかさを加味する気持ちで誰かが作り出して広がった。

こういったコミュニケーション技術も相手が雑な人間では顰蹙をかったり、バカにされたりで疎通ができなくなってしまう。「顰蹙」の場合は「雑」よりも「固陋」な人だが、伝統は無条件に受け入れられるものではないと釘を刺したい。世の中は変わるのが普通だからだ。変わることを拒めば、極端な話、人類は原始人生活を今でも続けていることになる。だから伝統も「意味」を探らなければならない。意味を探りもしないで「伝統」に固執するのは自分の判断ができない操り人形と同じだ。

筆者は物心がついてから「意味」を探り続けてきたから放談を恐れないようになった。恋愛や結婚でも「何のために?」と問うてきた。だから「意味」での思考履歴は相当にある。ま・・・もう先は長くないから「言い放つ」傾向にはなっているが(苦笑)。

ともかく「コミュニケーション」。

ネット時代になってさらに日本人の民度は上がったと思える。コミュニケーションの前提は相手を斟酌することであるが、相手が斟酌しない人であれば深い心の交流はできない。そして、ここが重要だが、民度が上がるということはそれだけ相手を読める人が増えているということなのだ。「時代が変わった・・・」と痛感するときはこういう状態になっているときだ。

「コミュニケーションが巧くなる方法」を書いたものは多いが、ま、それだけ需要があるのだが、しかし「方法」は単純で「相手を知れ」の一言で済んでしまう。「相手を知る」その姿勢で十分なのだ。そこから自分の対応がはじき出されてくる。繰り返すがコミュニケーションは「社交術」ではないということだ。

筆者も都会から離れた飯場暮らしを3年間ほどやってきたが、「観察」と「読み」がなければ危ないことに巻き込まれることが数多くあったので言い切っている。社交好きはこういう場所ではかえって危ない。必要最小限の言葉で済ませて、それでいて憎まれもせずに好きなことをやって来た。前回書いた「敵」「味方」「無害」の判別がそれを可能にした。で・・・筆者の自分の立場は「無害」に見せることだったのだ。

基本的にこれは組織作りをやってきた人なら首肯するはずだが、仲間作りは演説をすることではない。相手と二人っきりで話をすることで仲間を増やすことが出来る。これが「近さ」の意味するところだ。神輿は派手だが何の力も持っていない。

人間として・・結局はこれ

組織論とか経済論とか政治論とか・・・こういう事を論じだすといつの間にか「人間について」という思索を忘れてしまう。だから「人間」を置き忘れた考え方に筆者は猛然と反発してしまう。

中国や韓国を忌み嫌うのも「人間」についての基本的な受け止め方がない社会だからだ。見せ方、つまり「虚栄」に熱心な韓国が一番性質が悪い。中国は単純に遅れているだけだから中国共産党が潰れたら正常に向かうと思う。「人間として」という意識を持っている人はそれなりに居るからだ。

「人間」を考えていけば自然と「良心」も備わってくる。「良心」は特別なものではなく、親しくなればそれなりに気遣いが出てくるがその延長が良心だからだ。犬や猫に対して多くの国の人々が特別な扱いをするのも人間に親しい動物だからであって、そういう人に「近い」動物の扱いが非情だと人間性に欠陥があると疑われても仕方がない。習慣などの問題ではない。

人に近いか遠いかで動物も扱いは変わるが、これは知能のある多くの動物でも観られることだ。一緒に育てられた犬や猫、いや猛獣のクマとライオンさえ同じ仲間のような対応を見せる。動物の本能で強いのは「敵」の認識だ。昆虫まで「敵」をちゃんと認識する。

「差別」だのなんだろうと主張する前に「自分は敵と観られているか?」どうかの自己診断が必要なのだ。

「敵」「味方」「無害な相手」と、動物の多くはこの判断で対応や行動が変わる。その意味で基本的な客観性がそれにある。人同士のコミュニケーションも全くこれに準じているが、この判断は「観察」だ。が・・・観察されていることを自覚していない人間が結構多い。こういう連中は動物以下の能力しかないが、動物以下の癖に何らかの「権力」がつくか、ついているために「観察されている」という意識が育たない。あるいはそもそも、そういう考え方があることさえ知らない。繰り返すが、こういう人間は「欠陥人間」なのだ。

義務教育で絶対的に必要なのは「欠陥人間を作らない」ことだが、教育関係者はこれを自覚しているのか?

人間の能力で一番必要なのもこのコミュニケーション能力だが、「一番必要」という理由を知らないと、これまた「欠陥人間」になってしまう。人は単独で生きていけない集団動物なのである。その集団が成り立つにように個と個の日常的な調整を動物は本能的にやっている。メキシコなどの犯罪多発地域でも「昔はもっと平和だった」と嘆く声が多い。

人と人の距離が遠くなったためだ。工場の労働者、牧場の農夫として「モノ」扱いされて次第に人が本来持っていた「優しさ」を失っていく。「モノ」扱いする使う側は「権力」を生まれながら備わっていたか、智謀と非情で獲得していったなどで、「人に対する配慮」という感覚を衰弱させた「欠陥人間」である。こういう現実が出てくると「欠陥人間になった方が得だ」と思う者が増えてくる。そして社会自体が欠陥社会に変わっていく。

「人間」について何も教えず、教えられないから自分で考えるしかなく、しかし自発的に考える者は「自発性」故にもの凄く少なくなる。だから「教育」が必要なのだ。

はっきり言うが、どんな有能な能力があってもコミュニケーション能力が劣っていると「人」としての評価は低いよ。評価が低いから何かがあると潰されてしまう事さえ出てくる。パソコンで言えばハードディスクは素晴らしいが、差込口がどれにも合わないという状態の製品だ。こういうのはゴミとして処分するしかない。ゴミになってしまうのだ。

この差込口に該当するのがコミュニケーション能力だ。これで重要性が理解できたはずだ。

中国や韓国でもこの理屈はそのまま当てはまる。社会も国家もコミュニケーション能力を育てようとしていない国なのである。だから「欠陥国家」と断じた。同じことは日本の政党でも通じる。

人類史を観ていくと殺戮が周期的に、断続的に起きているが、これを問題にした場合、政治論や経済論は意味がない。一見、迂遠に見えるが「人間論」で向かうのが一番早く対処できる。「人間論」は民族や人種を超えて言葉が届くのである。

その上で政治や経済を語らねばならない。「人間の認識」がない者が政治や経済を語っても頭のおかしいものが何かをほざいているに過ぎない。根本が空白だからだ。
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