なぜ今、ネットワークか?
自分達の声が言論統制などで届かない状況では口コミ伝達でしか互いの意思のやり取りができない。インターネットの登場で2chの掲示板が「便所の落書き」と攻撃されながらも書き込みを増やして世間に対して影響力の拡大を続けた。今はどうかは知らないが、新聞や出版社のように編集部という事実上の検閲がないので誰でも様々なことを自由に書き込むことが出来た。
そして多くの人間が書き込むから報道検閲で世間に出てこなかったことも多くの人は知るようになっていく。そうなると「多くの人が読む」という事実で今度は2chに権力側は些細な理由を挙げて規制しだしてきた。しかし「言論の自由」は民主主義制度の土台だ。「言論の自由」を奪えば民主主義体制を権力側自体が否定することになる。この自己矛盾があるから徹底的な規制はできない。
ではどうするか?大阪の「ヘイト・スピーチ条例」だ。
この条例はそもそも法律の趣旨と大きく離反する条例であって、法律の趣旨は「実際の行動」を対象とする。「殺すぞ」と口にしても笑いながらの「殺す」と、睨みつけながらの「殺す」では冗談と恫喝の違いが出てくるように意味合いが全く違う。しかし状況を全く取り上げなければ「殺す」の意味は恫喝になって、「恫喝」だから逮捕ということになってくる。
そうなると冗談さえ口にできない監獄ルールだ。
法律の趣旨は「危害防止」にある。この「危害防止」も社会に支障をきたさないために「最低限」の範囲で留める。かって国鉄であった頃「順法闘争」という奇妙なストライキがあった。法律を厳守して鉄道を運営するという闘争だ。もちろん「順法」だから違法ではない。しかしこれによって出勤で利用する鉄道がマヒしだした。法律が社会活動を壊したのである。
「物事に食い違いがあるのは当然」という考えは社会での暗黙の了解だ。コンピューター・プログラムでも必ずバグが出てくる。「見落としが普通にある」という前提で実際にコンピューターを試験的に利用者に試してもらい、そして見落としていたバグを利用者に発見してもらう。
制度やルールも同じだ。実際にやって不都合を発見し、そして不都合を直した新たなルールに書き直す。
現実というのはそういうものだとほとんどの人は経験的に解っている。ところがルール原理主義者はルールを教典のように崇めて、実際に不都合が出てきても見直しをしない。「ルールは何のためにあるのか?」ということを考えないのだ。これは一種のバカである。台風や津波などの災害が来ても「法律を守れ!」とやったらどうなる?非常事態では大衆の判断に任せるしかないわけで、だから大衆の知的レベルで大混乱にもなれば、整然とした対応にもなる。
今度の福島沖地震で車線の片側を空けて車が渋滞している光景が話題になった。これを「バカみたいだ」とする意見もあるが、多くの運転する者は地震による津波の程度をその程度と判断したか、あるいは全車線を車でいっぱいにすると緊急車両が通れなくなると判断したはずだ。いずれにしても、片側を空けても全車線を車でいっぱいにしても車を動かせないことは同じなので、同じならさらに状況が緊迫するまで片側を空けていざというときのために保険とする判断は賢明である。
筆者は日本人の知的レベルは相当に高いと、この光景で安心した。
この日本人の知的レベルの高さを「ヘイトスピーチ条例」は無視したか、あるいは「闇を追及させないための思惑」で条例を可決させた。もちろん重要なのは「闇を追及させない」思惑の方だ。こういう「言論の自由を奪う」条例は対象をいくらでも広げていく「監獄ルール」になる。「監獄ルール」はもちろん独裁社会のルールであって民主主義社会と対立する。だから筆者は「憲法違反の条例だ!」と怒った。
言論は言論で対処すべきであって法律という権力で対処すべき事柄ではない。法律が対処するのは実際に起きる「暴力行為」の「行為」の方だ。
・・・かなり横道に逸れた。「なぜ今、ネットワークか?」に戻る。
「今」がインターネットを指して使った。コミニケーションと「言論の自由」は表裏の関係であって「言論の自由」がなければコミニケーション自体が非常に貧弱なものになってしまう。「こういうことを書けば捕まるかな?」と考え出すと意見の出しようもなくなってしまう。
「コミニケーション」の役割は妥当な意見に収斂さして、わざわ法律が出てくることを抑えるためにある。要するに柔軟度の維持だ。
そしてインターネットによって実に細かいことも知ろうと思えば知ることが出来るようになった。それだけニュースサイトは千差万別でかつものすごく増えた。しかもさらに増える。こういう状況に現在はなっている。
この状況を現実社会に生かそうとするのが「IoT」だと解釈している。「インターネットを現実社会で活用しましょう」という意味になるが、そうするとIoTが進展していくと否応なく「闇」を照らし出すことになる。「社会の見える化」現象が起きる。
「社会の見える化」現象が起きると、今まで見えないことで利益を得ていた集団が猛然と、かつ陰湿に抵抗・反撃をしてくる。ろくでもないことをして利益を得ていたわけだから「抵抗・陰湿」なのだ。公然とやれば世間の袋叩きに遭うから「陰湿」なのだ。要するに「嫌がらせ」が中心になる。
こういったことが予想できるから「見えない反撃」が必要になってくる。「見えない反撃」となればナチ制圧下でのフランス国民がやったレジスタンスを想起すれば解りやすい。ネットワークは「見えない組織」にもなれる可変性を備えている。同時に個人の主体性によってネットワークはできるので軍隊のような命令と服従の組織でもない。ネットワーク内のどこかからくる指示に納得できなければ「やれない」と簡単に拒否できる。
つまりネットワーク自体が多変性なのだ。色々な種類のネットワークがあるということだ。
こういう多くの種類があるネットワークを結びつけるのがインターネットという基幹ネットワークなのである。ここで実社会とインターネトという仮想社会・情報社会が結びつく。
極端に言えば様々な種類のカード会員はカード発行者のネットワークに組み込まれているということになる。単にカード発行者側にネットワークの概念がないだけだ。しかし、どこかがカード会員をネットワーク化していけば他のカード発行者も必ず追随してくる。
こう考えると日本社会がネットワーク社会になるのは目前だということが見えてくる。日本社会が絡み合った二重構造になるということだ。だから「ネットワーク社会とはどういうものだ?」ということを筆者も考えている。
そして多くの人間が書き込むから報道検閲で世間に出てこなかったことも多くの人は知るようになっていく。そうなると「多くの人が読む」という事実で今度は2chに権力側は些細な理由を挙げて規制しだしてきた。しかし「言論の自由」は民主主義制度の土台だ。「言論の自由」を奪えば民主主義体制を権力側自体が否定することになる。この自己矛盾があるから徹底的な規制はできない。
ではどうするか?大阪の「ヘイト・スピーチ条例」だ。
この条例はそもそも法律の趣旨と大きく離反する条例であって、法律の趣旨は「実際の行動」を対象とする。「殺すぞ」と口にしても笑いながらの「殺す」と、睨みつけながらの「殺す」では冗談と恫喝の違いが出てくるように意味合いが全く違う。しかし状況を全く取り上げなければ「殺す」の意味は恫喝になって、「恫喝」だから逮捕ということになってくる。
そうなると冗談さえ口にできない監獄ルールだ。
法律の趣旨は「危害防止」にある。この「危害防止」も社会に支障をきたさないために「最低限」の範囲で留める。かって国鉄であった頃「順法闘争」という奇妙なストライキがあった。法律を厳守して鉄道を運営するという闘争だ。もちろん「順法」だから違法ではない。しかしこれによって出勤で利用する鉄道がマヒしだした。法律が社会活動を壊したのである。
「物事に食い違いがあるのは当然」という考えは社会での暗黙の了解だ。コンピューター・プログラムでも必ずバグが出てくる。「見落としが普通にある」という前提で実際にコンピューターを試験的に利用者に試してもらい、そして見落としていたバグを利用者に発見してもらう。
制度やルールも同じだ。実際にやって不都合を発見し、そして不都合を直した新たなルールに書き直す。
現実というのはそういうものだとほとんどの人は経験的に解っている。ところがルール原理主義者はルールを教典のように崇めて、実際に不都合が出てきても見直しをしない。「ルールは何のためにあるのか?」ということを考えないのだ。これは一種のバカである。台風や津波などの災害が来ても「法律を守れ!」とやったらどうなる?非常事態では大衆の判断に任せるしかないわけで、だから大衆の知的レベルで大混乱にもなれば、整然とした対応にもなる。
今度の福島沖地震で車線の片側を空けて車が渋滞している光景が話題になった。これを「バカみたいだ」とする意見もあるが、多くの運転する者は地震による津波の程度をその程度と判断したか、あるいは全車線を車でいっぱいにすると緊急車両が通れなくなると判断したはずだ。いずれにしても、片側を空けても全車線を車でいっぱいにしても車を動かせないことは同じなので、同じならさらに状況が緊迫するまで片側を空けていざというときのために保険とする判断は賢明である。
筆者は日本人の知的レベルは相当に高いと、この光景で安心した。
この日本人の知的レベルの高さを「ヘイトスピーチ条例」は無視したか、あるいは「闇を追及させないための思惑」で条例を可決させた。もちろん重要なのは「闇を追及させない」思惑の方だ。こういう「言論の自由を奪う」条例は対象をいくらでも広げていく「監獄ルール」になる。「監獄ルール」はもちろん独裁社会のルールであって民主主義社会と対立する。だから筆者は「憲法違反の条例だ!」と怒った。
言論は言論で対処すべきであって法律という権力で対処すべき事柄ではない。法律が対処するのは実際に起きる「暴力行為」の「行為」の方だ。
・・・かなり横道に逸れた。「なぜ今、ネットワークか?」に戻る。
「今」がインターネットを指して使った。コミニケーションと「言論の自由」は表裏の関係であって「言論の自由」がなければコミニケーション自体が非常に貧弱なものになってしまう。「こういうことを書けば捕まるかな?」と考え出すと意見の出しようもなくなってしまう。
「コミニケーション」の役割は妥当な意見に収斂さして、わざわ法律が出てくることを抑えるためにある。要するに柔軟度の維持だ。
そしてインターネットによって実に細かいことも知ろうと思えば知ることが出来るようになった。それだけニュースサイトは千差万別でかつものすごく増えた。しかもさらに増える。こういう状況に現在はなっている。
この状況を現実社会に生かそうとするのが「IoT」だと解釈している。「インターネットを現実社会で活用しましょう」という意味になるが、そうするとIoTが進展していくと否応なく「闇」を照らし出すことになる。「社会の見える化」現象が起きる。
「社会の見える化」現象が起きると、今まで見えないことで利益を得ていた集団が猛然と、かつ陰湿に抵抗・反撃をしてくる。ろくでもないことをして利益を得ていたわけだから「抵抗・陰湿」なのだ。公然とやれば世間の袋叩きに遭うから「陰湿」なのだ。要するに「嫌がらせ」が中心になる。
こういったことが予想できるから「見えない反撃」が必要になってくる。「見えない反撃」となればナチ制圧下でのフランス国民がやったレジスタンスを想起すれば解りやすい。ネットワークは「見えない組織」にもなれる可変性を備えている。同時に個人の主体性によってネットワークはできるので軍隊のような命令と服従の組織でもない。ネットワーク内のどこかからくる指示に納得できなければ「やれない」と簡単に拒否できる。
つまりネットワーク自体が多変性なのだ。色々な種類のネットワークがあるということだ。
こういう多くの種類があるネットワークを結びつけるのがインターネットという基幹ネットワークなのである。ここで実社会とインターネトという仮想社会・情報社会が結びつく。
極端に言えば様々な種類のカード会員はカード発行者のネットワークに組み込まれているということになる。単にカード発行者側にネットワークの概念がないだけだ。しかし、どこかがカード会員をネットワーク化していけば他のカード発行者も必ず追随してくる。
こう考えると日本社会がネットワーク社会になるのは目前だということが見えてくる。日本社会が絡み合った二重構造になるということだ。だから「ネットワーク社会とはどういうものだ?」ということを筆者も考えている。