CIA、ザ・カンパニーというテレビドラマの感想

CIA・ザ・カンパニー

米国テレビ番組の映画は世界の眼を意識しているからか見ごたえのあるものが多い。諜報関係者にとってもこのテレビ・ドラマは教本にしてもいいくらいにスパイの実態をよく描いている。ま、スパイ物にしているから主人公はCIAのスパイになっているが実質の主人公は防諜の専門家であるアングルトンだ。

学部生時代にアングルトンは詩作に興味を持ち、リード・ウィットモアと文芸誌「Furioso」を創刊し編集を務めた。1953年まで続いたこの雑誌は当時流行していた小規模な同人的雑誌である「little magazines」の代表として成功を収め

とwikipediaでは紹介しているが諜報と人間心理は切り離せないところがある。スパイ小説で面白いものは心理ゲームとして描いているものに尽きるが、恋愛小説で面白いものもやはり男と女の心理ゲームを描くものが一番だ。

しかし心理ゲームの分野は人間が関係している分野は全て心理ゲームだとも言えるわけで、そうすると人間心理の読み方は生きていく上での必須思考になってくる。であるのに人間心理を読み解くのは難しい。これは体験パターンの質や量で読解力が限定されくるためだ。体験パターンが少ないと体験外の人物がどう考えているかを読むのはよほどの想像力を持たないと無理だ。

昔の人が「子供には旅をさせよ」としたのも体験の重要さを理解しているためで。本のページをいくらめくっても360度の世界にはかなわない。本というのは結局は一人の人間による説明になってくるが、吐き出せる言葉の量と体験で得るデーターではもの凄い差が出てしまう。

このブログでも体験量の違いで言葉の解釈や受け止め方が違ってくる。だから筆者も読み手側の想定でけっこう苦労しているし、また内容によっても想定する読み手の姿が変わってくる。今回の内容では世界情勢というか、現代史をある程度知っている人が対象だ。でないと「ザ・カンパニー」は面白いテレビドラマだと言ってもピンと来ない。

歴史的な事柄は解っていてもドラマとして肉付けされた光景は「へぇ・・・」と思う場面が結構出てきた。ハンガリー動乱での殺し合いなど、どういう風に殺されたのかが歴史の行間から浮かび上がってこないわけで、それを映画で観ると「情け容赦がないな」と感じる場面が出てくる。ここまでは普通のアクション的な映画だが、スパイ映画は政治映画でもある。冷戦という米ソの思惑がアクションの背景となるし、その背景も描かないとスパイ映画にはならない。これが007シリーズと違うところだ。

この政治的思惑が心理ドラマと結びついていく。互いに体制を信じての諜報活動だが、スパイ映画の特徴は相手側での活動が主体になるわけで、これが話を複雑にさせる。複雑になるのは相手側の社会を分析しつつ理念は反対なのに、その反対の社会に自分を溶け込ませなければスパイ活動が出来ないという曲折だらけの状態があるためだ。善悪で語れないほど複雑になっている。

・・・ここまで書いてブログはツイッターと違って書きやすいなと思った。ツイッターは短文形式だから触りで終わってしまうし、せいぜいヒントの提示までだ。また短文を重ねて長文にすると自分でも読み返すのに疲れが出てくる。文章には流れがあるが、この流れを短文では作りにくいから読むのに疲れが出てくる。

このテレビドラマは以前にも観ているので3回目くらいの視聴だが、歴史ものというのは事件が主役なのでドラマの流れも事件の重なりとして描くしかなく、結果、密度の濃い話になっていく。それで普通のドラマよりも繰り返して観ることが出来る。その意味では普通のドラマも時代背景を取り入れたら面白いものになると思うのだが、時代を描くにはそれだけの知識も要るので逃げてしまうのだろうと思う。

筆者もブログを書き始めたころは「一話完結」みたいな意識で書いていた。しかし、書き始めると横道にやたらと逸れていく。ま・・今も逸れているのだが(苦笑)・・・が、逸れ出したところの方が考えに乗っているのだ。ツイッターが書きやすいのもタイムラインに書いていることとは関係のない記事が流れ、それが刺激になって新たな考えが生まれてくるところにある。

ブログもツイッターも小説も漫画も頭が刺激を求めているのでその刺激を満たすために読むというところがある。「知識を得る」というような行儀のよい気持ちで読んでいるわけではない。

最近はこれくらいの分量を書いて疲れてきだす。なので日記みたいな感じでここで今回は書くのをやめる。
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民主主義という革命的な理念

下請けピラミッド

新世界秩序ピラミッド

多数が少数に支配される構図というのはもちろんピラミッド型社会構造で可能であるし、実際、今の社会の現実でもある。しかし一方で「市場」という参加型のフラットな構造も生活スタイルの中にある。

実際の現実はこの両者、ピラミッド型と消費社会というフラット型が併存している。で、ここにインターネットという仮想世界が出現した。このネットは参加型の情報世界なのだが、これがどんどんと大きくなっている。

世界的ツールでもあるこのインターネット世界は自分が住んでいる社会の体制がピラミッド型であろうがフラット型であろうが関係なく、全世界の人間にフラット型である民主主義の世界を体験させている。この「体験」が次の世界を創る原動力になる。

人類社会の変遷は「体験」の影響が凄く大きい。日本人なら選挙を基盤とした民主主義体制に慣れているから言論も含めた規制だらけの刑務所のような社会には拒絶反応があるはずだ。「刑務所と一般社会の暮らしではどちらを選びますか?」という問いでは圧倒的多数が一般社会を選んで刑務所を忌避するはずだ。だから「刑務所」暮らしは罰となる。「犯罪を犯したら刑務所に入れられますよ」という社会的な脅しであり、この脅しが社会のルールを守らせている。

全体主義では「全体」という言葉はイカサマであって実際はひと握りの連中が「全体」という言葉の偽装で圧倒的多数を支配する。全体主義というのは実際には独裁主義の体制ということ。

で、「新世界秩序」の構想が下のピラミッドイメージとして提示されているが、世界を「全体」という名の超少数支配で統治しようという陰謀的企み。これを推進するには世界の人間を騙さなければならない。ヒトラーにしてもスターリンにしても国民を騙して独裁体制に持っていった。政権を握るには国民の支持が必要で、そのためには国民受けのいい理念を掲示しなければならないが、しかしその理念は「嘘」だから「騙す」ことになる。

北朝鮮も「共産主義」という「嘘」で独裁体制を作り、独裁体制が出来れば「恐怖政治」に変貌させる。中国でも死刑などの執行では見せしめ効果を出すために公開処刑をよくやる。恐怖政治による独裁体制というのは「恐怖」という人の本能に働きかける力を使うから言論戦なんか吹っ飛んでしまう。だから意見の統一もできない。これで恐怖統治が安定する。安定するということは恐怖政治がいつまでも続くということだ。

だからこういう恐怖政治の体制になる前の初期状態が恐怖政治を防ぐ唯一のチャンスとなる。言論がまだ保証されている段階だ。

筆者は民主主義の理念を断固として支持する考えの持ち主だから言論を脅かす法律に対しては非常に強い警戒心を持っている。この警戒心でマスコミを注視し、マスコミの在り方を問題視するようになった。「マスコミの在り方」で問題になるのが恣意的な「検閲」を編集部や、編集部に該当する部署がやる構造だ。少数の人間が様々な意見の採用・不採用を決める構造になっているから性質として独裁体制と同じ。独裁体制も報道部署があるが、それは検閲済みの報道しか流さない。これとマスコミ寡占は同じなのだ。

この検閲を正当化させるためにエリート主義を宣伝している。「バカは黙って従え!」という理屈だ。しかし「バカ」をどのように決めるのか?ここで「学歴」や学歴を付けるための「試験制度」という「仕組みを作り出した。「偏差値」などもこの仕組みの一環だからマスコミはこぞって宣伝し続けている。これに慣らされるとエリート支配を多くの国民は疑わなくなってしまう。共産主義もこの類似形態で「共産党員」という仕組みを作って「共産党員」が大多数の国民を支配する構図を共産主義国家は作り出した。

しかし「エリート主義」は根本的に現状認識の出来ない考えでもある。

世界の発明・発見のひとつひとつを観ていけばそれが判る。アイシュタインでもエリート階層に属して相対性理論などを発案したわけではない。

言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。なお、この頃には兵役義務を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。

こういう人物である。が、エリート主義は何か重要なものを生み出した者を直ちにピラミッド上層に取り込んでいく。これはエリート主義で何かを生み出したという事ではない。市井の階層の人物をエリート階層に取り込んだだけの話だ。これもエリート体制維持の欺瞞だ。ノーベル賞もこの体制維持のための演出であって、世界がどういうところから発明・発見が行われているかを隠している。現実がどうであるかを隠すために「権威」という偽装をする。

こういったエリート主義は、しかし、インターネットによって確実に崩されていく。発明・発見は現場からでしか出てこないという現実を世界の人間に事実という形で見せてしまうからだ。だからインターネットは「衆知の世界」だと言っている。農業をやっている人が野菜や果物を改良していく世界なのだ。農夫がエリートなのか?という話になってくる。

同時にこれは民主主義社会の実際の姿だ。互いに影響しあって社会を発展させるというのが民主主義社会の形だ。こう考えれば「民主主義は絶対に守る!」という考えになってくる。エリート支配というろくでもない社会構造を崩さねばならない。

表現は技術を伴うもの

インターネットがこれからメインの戦場になるとしたら表現技術の巧拙で勝負が決まるケースも出てくる。「勝負が決まる」としたのは人の集まり具合と表現技術が繋がっているためだ。これはテレビ番組を観ているとはっきり判る。素人の「芸」は観ていても辛い。もっとも素人の「辛い芸」も編集で、つまりカットしたり抜き出したりで観られるものになるのも確かだ。

筆者は今、密かに(苦笑)動画編集に凝っているのだが、コンテンツを圧縮するために画面を3分割することを試している。こういう技法はテレビ番組の選挙報道などでよくやっているが、この技法をドラマでも適用できないか?と考えて試しだした。この発想は漫画のコマ割りからの発想だ。全身、顔だけ、仕草の特化場面の3画面。これを一つのディスプレで観ると人物の印象が立体的になる。

この3画面の一つに心象となる風景を入れるともう一段、登場人物を掘り下げることが出来る。音声は3画面のどれかに焦点を当てて、必要なら音楽で代替する。こういう描き方は「作品」の作り方であって皆が観るお茶の間の作り方ではない。しかし企業広告や発明・発見を視覚化する場合はお茶の間の作り方では焦点が絞れないからこっちの方が向いている。

お茶の間コンテンツは漫然としたものの方が相性がいい。が、その分、「何を訴えたいのか?」が曖昧になってしまう。人は考えるときは一人で考えるからだ。カンブリア宮殿が筆者は好きだが、こういう番組は考えを散らす家族と観るようなものではない。内容が発明などの出発点から苦労話、経営で勝ち抜く技術や商法が詰まっているのがカンブリア宮殿だからだ。

人との対話でヒントになるものは確かにある。が、ヒントを掘り下げて考えるには思索が要る。こういう思索は一種のシミレーションをやってるわけで、そのシミレーションが何通りも出てくる。この結論を持って人と臨(のぞむ)なら人との対話も益になるが、相手がシミレーションをやっていなければ対話など無駄もいいところだ。

だから国会など無駄もいい場であって、どうせ話し合いをやるなら要約した動画を見せあう場にするべきだ。が、そうなるなら国会よりもよほどインターネットの方が話し合いで優れる。しかもコンテンツとして記録されるから24時間、いつでもどこでも議員の主張を視聴できる。この視聴によって選挙の投票結果を生むならインターネット国会は真面目に考えねばならない。

国会としたが意見の表明が必要な場なら何でもこの方法でやるべきだと思う。これによって時間が節約できるし、頭も整理できる。頭が整理出来たら判断も適切になっていく。

こういうことを考えていくとますますインターネットは社会で重要な役割を背負うことになる。

ともあれネット時代に旧来のテキスト頭ではどうにもならないなぁ・・・と・・テキストで書いているから、ここは手抜きで反省したい(苦笑)。まぁ・・・肩ひじ張った姿勢ではブログも続けないから・・・いいでしょう。

ネットが作り出す新しい価値

Yahoo!オークションストアに登録していた家電ドットコム株式会社が落札金額を受け取っておきながら商品を発送しないという事件が発覚。落札件数は1,713件、落札総額は約1億9440万円に達するとしている

ネットオークションの総額を調べようとしたが出てこなかったので、事故記事から推測すると1件の事故で落札総額が2億円近いのだから途方もない金額がネット空間で動いていることは解る。この途方もない金額が飛び交う市場はネット以前には古物商いとして微々たるものだったわけで、情報空間のポテンシャルの巨大さが判る。だからこそアップルやマイクロソフトが時価総額で世界の1位を争うようになった。この潜在的な巨大市場がなければパソコンだけで巨大企業に成れるわけがないのだ。

同時にこの仮想空間は現実空間を丸ごと代替して生まれたものではない。現実空間の上に新たに積み上がって「仮想空間」を作り出した。だからこのブログで考えを「平面から立体にせよ」と訴えている。実際、現実もそのように動いている。今度は仮想空間が現実社会に大きな影響を与え始めてきた。

経済は社会が動いての結果だ。社会が動かなければ経済理論も生まれない。なので社会分析が出来ていないと経済分析も見当外れになってしまう。デフレ・インフレなどは社会の変化から出てくる結果だ。

では社会変化を推進するのは何か?需給だ。この需給で仮想空間は新たな需要を生み出し、その需要に応じるように供給が生まれ、それが途方もなく巨大に拡大していっているのが現在の社会の姿だ。その需要の発掘を仮想空間では地位も資金もない人々がやっている。パソコンから出発したアップルでもマイクロソフトでも出発点は子供の遊びみたいなところから、つまり「ガレージ」ビジネスとして始まっている。ネットオークションを始めたのは米国の主婦だ。YouTubeもPayPalの従業員が生み出したものだ。

この仮想空間の分析も夥しい解説書によって為されているが、分厚い本を開いたところで、むしろ言葉が多いために事の本質を掴めなくなってしまう。ネットオークションの主婦もPayPalの従業員も分厚い解説書から発想はしていない。単純に「ネットを利用してこういうことがやれるかも?」という考えで動き始めている。この姿勢こそ新たな潜在需要を発掘する姿勢だ。

市場というのは売買によって値段を決める場所だが、この市場を個人でも拓けるのがインターネット。結論としてそうなってしまう。

筆者は発明・発見を記述したものもかなり読んだが、共通するのは全て現場によって発明・発見が生まれている。企業でも同じだ。研究所という重苦しい言葉に騙されがちだが実際には配属されたところでの発見や発明であって企業そのものが生み出したものではない。企業は従業員が発明・発見をやった成果、つまり権利の所有者に過ぎない。

そして「現場」はインターネットによって途方もなく多種類に増えた。社会で実際に生活をしている全てのことが発明・発見の現場になった。これが現在進行中の社会なのだ。だから「誰にでもチャンスはある」と言っている。このチャンスが見えないのは事大主義に陥っているからだ。事大主義、物事を大げさに受け止める姿勢は自分を否定することに繋がってくる。否定した自分から何かを生み出す考えは出てこない。だから「事大主義から脱せよ」と繰り返し、このブログで書いてきた。

とんでもない発明に繋がる最初は見てくれが悪いからバカにされやすいが、想像力がきちんとできていると事の本質は見抜ける。何もない地面を掘ると水が湧いてくるという発見をした人は天才なのだ。これによって水だけでなく石油や石炭が発見され、鉱物資源も次々と発見されていく。そうすると何もない地面が実は宝庫であったと人々は気が付いてくる。

これは経済理論ではない。創造の分野だ。技術で社会を大きく変えたことは歴史を通読するだけで気が付く。そうすると創造こそ次の社会を生み出すものだと納得できるし、それが社会認識になると教育も報道も重点が「創造」に向かう。インターネットのこれからは途方もない数の創造者を生んでくるわけで、それらをネットを通じて人は知り、人によっては「自分も!」と触発されていく。

こういう価値観・世界観の大変換をするには事大主義の人物を社会の重要な位置に置いておくわけにはいかない。次に來る社会の邪魔をしてくる。ここで政治にも新しい価値観で向き合う必要が出てくる。

政治にも「創造の価値観」が必要になるということだ。政治の現実を観て「おかしい。これはこのようにする必要がある」という考えを引き出さねばならない。これもまたネットで出てくる。どこかの名もない人がそれを言い出し、そしてその共感が広まっていくと大きなうねりを作り出す。「王様は裸だ!」という少年の出現はネットからでないと出てこない。社会は事大主義で動いているためにそうなっていく。

事大主義から創造社会に転じると今までのやり方の全てを見直すことになっていく。衆知による合理主義が事大主義の不合理さを糾弾し、是正していく方向だ。これはネットが健在する限り確実に起きる。人は一見感情や情緒で動くように見えるが、その感情や情緒の基になるのが理屈であるためだ。理屈は人を考えさせ、物事の適否を理屈で判断し、その理屈に合わないことを誰かが、あるいは行政や企業がやりだすと怒り出す。そしてインターネットはそれを瞬く間に世間に広げる社会ツールなのだ。

新しい視点で社会を見直そう。






パソコン20年で学んだこと

実際には1995年からだから22年だな。これで顕著になったのは頭の整理。フォルダーというデーターの引き出しを作る癖が身についた。パソコン自体は和式箪笥みたいなものだ。引き出しをいっぱい持っている箪笥。この箪笥がバカみたいに大きくなっていったのがパソコンの歴史だよ。最初はメガ単位でも大きいと感じたが、今はテラだよ。ギガを超えてテラ。初期には考えられないデーター量になっているが、そのテラも今は8テラでもうすぐ満杯になってしまう。

だから自分のパソコン内で検索をやることが結構ある。ファイルのある場所を見失うわけ。社会とか経済、美術、映画、音楽などのカテゴリー分類もやっているが、これも次々と増えてくる。というのもカテゴリーが複合的になってしまうファイルが非常に増えた。

この状態からシステムという考えになってきたんだよ。システムは複合機能だから。釣りなら釣り道具や餌、車に地図、車の中で仮眠するから寝袋も要る。また筏釣りや岩礁での釣りでは船の予約が要るし出航時間も確認しなければならない。釣りという遊びでもシステムの考え方が必要になってくる。このシステムが社会にはいっぱいあるからシステムを繋ぐネットワークという考え方も生まれてくる。

ネットワークという考えで社会を観ると農家や漁師からの魚や野菜などを冷蔵保管する倉庫の存在が浮かび上がるし、それを出荷する冷蔵トラックの存在、またトラックターミナル、出荷したものを受け入れる最終消費業者、スーパーとかコンビニだが、それに通販で購入する個人という図式が浮かび上がってくる。これらが網の目状で繋がってネットワーク社会が我々の生活を支えている。

パソコンでファイルの整理をしているとこういう社会の現状が自然と理解できてくる。しかし・・・理解できない連中もいっぱい居る(苦笑)。理解できない連中の多くはこういう社会の現場を知らないから理解できない。多くはデスクワークの人だな。机仕事は筆者も長いことやっていたからよく解るよ(苦笑)。現場を観ないと想像力が生まれないんだよ。

でパソコンはこのネットワークを管理・監視の機能を持っている。ネットワークの図で赤ランプが点滅しているとその箇所に問題が起きていることをすぐさま察知する。これは新幹線の運営がやっていることだ。こういうシステムとネットワークの融合は随分と前から行われていた。問題は実際に自分がやっているのにネットワーク社会という認識を持たないところで生まれてしまう。

どうしてネットワークという認識が持てないのか?最大の原因は「教育」だよ。今の教育は全体図を理解させる教育ではない。「記憶」つまりデーターをどれだけ覚えているかというファイルの教育であってフォルダーやフォルダーの連結という考えを教えていない。一番安いパソコンでもやれることを人間にやらせようとする教育なわけだ。これではアホばかり育ってしまう。覚えることに熱心になって「考える」ことに不熱心になってしまう。これは早急に是正しないと大変なことになるよ。というか、すでに大変なことになっている。

政治も社会システの一つだよ。ところがネットワーク社会という概念を持っていないと政治を「権力争いの場」として捉えてしまう。

これでは実際に営んでいる生活の現状と政治がくっつかなくなってしまう。こういう整合性もパソコンで学べる事柄だ。整合性を求めるプログラムの中に不整合なプログラムが入るとパソコンはフリーズを起こしてしまう。その部分でハードディスクが空回りをする。

こういうことが政治とネットワーク社会の現実で起きている。封建主義の時代感覚で近代社会に飛び込んできたのが今の政治家なんだよ。だから本来は政治の仕事は社会を潤滑に回すことなのに逆に社会の動きを止めてばっかりしている。社会認識が時代とずれているとこういうことが起きてしまう。

だからこのブログで啓蒙的なことを書いている。こんなくだらないことをやりたくはないのだが、余りにも時代とずれている人が多すぎるからやるしかないんだよ。やっぱり20年くらいではパソコン的な思考が社会に行き渡らないんだと痛感している。ま、それでもインターネットの出現で日々、人々の認識がネットワーク型に向かっているから悲観はしていない。また、日本人の性格はネットワーク型社会に向いているから、日本社会は世界の先頭に立つのは間違いない。遅れているのは政治と行政だから。

同時にネットワーク社会というのは思いついたら誰でも参画して何かを作り上げることが出来る社会なわけ。実際、ネットを観ると「これって社会インフラだろ?」というのを個人が作っているし、それを筆者も利用させてもらっている。そうすると「衆知社会」という方向が見えてくる。ネット世界の現状拡大が誰かに命じられることなく自主参加でより高度な社会を生み出している。

残るは政治と行政の原始的形態をネット世界に合わせるだけだ。これもネットが主導してやっていくことになる。パソコンって凄いわ・・・(笑)。





次に來るもの

今はツイッターで書き込んでいるのでブログの書く間隔が開いてしまっているのだが、ツイッターの難点は長い文章を書けないところ。ネット時代というのは普及しだしてまだ20年も経ていない。しかし、この20年未満のネットの拡大は日本で自動車が普及してきたときとそっくりだ。

運動形態は内容が何であれ共通しているところがあり、ネット時代を自動車時代と対比して考えると将来の展望が開けてくる。

ネット時代というのは「情報世界」の拡大が続く時代だ。車も乗用車からトラックに至るまで多種多様に展開・拡大していき、それと並行するように道路が整備され、道路が整備されていくと鉄道の駅中心の街が変貌していった。駅というのは「点」であるが、道路というのは「線」だ。そうすると線は点より接触部分がはるかに広いので土地利用の範囲も劇的に広くなった。道路地図を眺めると判るが網膜上に道路が広がっている。この現象を起こしたのが自動車。

この自動車の出現と同様なことがインターネット出現で起き始めた。筆者はパソコン歴が長いので承知しているが、ネットに実用性が伴ってきた速度は1年が10年に匹敵するほどの速さで色々なサービスが現れてきた。もちろんパソコン機器の進歩と値段の移り変わりも凄すぎた。筆者が最初にパソコンを買ったときは30万円くらいしたが、今使っているパソコンは円高の一番高いときだったので3万円足らず。最初のパソコンの値段に比べて1割以下だ。しかも性能は比較にならないくらい高性能。

これは周辺機器でも同じで、この劇的に値段が下がっていったのは劇的にパソコン需要が生まれたためでもある。これは見落とせない認識だ。

そしてインターネットの普及が始まっていくのだが、ネットの普及というのは「情報の劇的な拡大」を伴う。そして人は「情報」で動く。この情報の中には値段から考え方まで含まれているから行動様式まで変わっていく。ここが一番見逃せない部分だ。この推移で情報時代に対応できていない零細な商店は次々と潰れていってシャッター街が各地で起きた。これは商店だけでなく企業までやがて及んでくる。

問題は「情報」の捉え方だ。情報で物を買うという習慣が出てくると通信販売の劇的な拡大は必然になってしまう。パソコンの前で品選びから注文までやれるわけだから実際の店に行くのはほとんど「娯楽」感覚になってしまう。だからシャッター街から抜け出すには商店街はミニ・ディズニーランドを作る構想が要ったのだ。しかし「情報」を宣伝くらいにしか捉えていないから対策が見当違いになった。結果、多くの店は人が来ないためにシャッターを下ろす羽目に陥った。

インターネットの出現は情報革命でもあるから自動車の出現よりもインパクトが大きい。

現実世界の上に情報世界という「仮想世界」が生まれたのだ。この仮想世界は情報に絡む分野を次々と吸収していく。人の行動形態は情報によるものがほとんどなのでこの衝撃は体感する以上に大きい。実際、ネットの衝撃は静かな衝撃であって多くの人はこの情報革命になかなか気が付かなかったし、現在でも気が付かない人が圧倒的に多い。しかし、一方で確実にネット依存の分野が広がっているし、依存する人もものすごく増えた。

情報が増えてくると今度はシミレーションを自然にやるようになる。シミレーションが成り立つには成り立つだけの情報が要るが、それが可能になるほど今は情報量が膨大になっている。産業、特に製造業ではシミレーションをやらないと効率が格段に落ちてしまう。効率というのは無駄に対しての効果だ。無駄が多ければ値段に反映して高くなってしまい、逆に効率がよければ値段も安くなるから無駄の多い企業は品質が同じでも価格競争で負けてしまう。

産業がやるシミレーションをネット時代に突入すると個人までがやり始める。実際、ネットのインフラ作りでは個人が自主的に多くを生み出している。筆者のこの分析も昔は研究所などがやる事柄だったのだが、ネットで色々なことを俯瞰して観ることが出来ているから筆者でもやれる。ま・・・会社員の人に比べて時間が自由という環境もあるが(苦笑)。だから在宅の主婦や閉じこもりの人にチャンスが生まれだしていると以前にこのブログでも書いた。

情報に土地や建物は要らない・・・これは情報の性格を考える上で基礎的な認識だ。これによって鉄道時代は駅という「点」、自動車時代は道路という「線」であったものが、この物理的な制約を消滅させてしまった。ネットに繋がっていれば都市でも田舎でも条件は同じだ。そうすると土地代が高い分だけ都市は不利になってしまう。これと同じことが鉄道から自動車に代わったときに起きたのだ。駅から離れたところでも道路が開通していれば車で通勤できるからそこに家を建てることが出来る。駅から離れた場所は車社会の認識がないときにはとんでもなく安かったことも大きな理由だ。

そして車社会を前提にしたインフラが国や民間で次々と作り出して現在がある。これも筆者はこの眼で観てきた。

情報時代が進行していくと車社会と同じように社会が自主的に情報社会のインフラ作りをやりだしていく。需要があれば需要に対応して社会は変わっていく。筆者が大企業の経営者なら自社内で法律のデジタル化を進めるよ。国がやらないなら自分でやる。法律のデジタル化は応用範囲が広いので経費削減効果が大きいからやるということだ。この法律もさらには手を広げて米国なら米国の必要と思える法律まで翻訳してデジタル化を進める。これで事前に問題になりそうなことを回避できる。

この狙いはいつでもどこでも検索して法律というルールに照らし合わし、そして相手をやっつけるために利用する。相手が槍や刀ならデジタル化は鉄砲を持つのと同じだ。確実に勝てる。この攻め方は当然、政治にも応用できる。それをやらない政党や政治家の頭が悪い。鉄砲の登場は戦の形も変えたが、情報時代はあらゆる分野で戦の形も変える。変えない方が負けてしまうからやがて雪崩を打って社会はデジタル化に向かう。

この流れを認識しないと無駄で無意味な努力を続けると指摘したい。

面白いことに確かなものがある

「すずかんゼミ」オープン化、「敗者のいない、共生社会へ」
http://alternas.jp/work/challengers/67581

これって、筆者がこのブログで提唱してきた「ネットワーク社会」と同じようなことを述べているのだが、「ゼミ」という言葉に凄く違和感を感じた。「ゼミ」=「真面目さ」・・・この感じかな?で、ちょっと違うと思った。

「ネットワーク社会」はすでにある状態を再認識して、このフラットな社会構成とピラミッド型社会は接触する部分で不協和音を鳴らすとこのブログで指摘してきた。ではどういう風に違和感を与えるのか?ここら辺りは最初に上げた対談記事の中でも一部に出ているが「哲学」。インターネットは哲学・・・つまり世界観を変える世界的なツールという認識で、例えば民主主義社会に慣れると全体主義の考えには違和感を持ってしまうとのと同じ。

「ネットの時代」はすでに始まっている。ネットの世界は誰かが提唱したものではなく、自然発生的にネットに人が集まり、それにはまり込むとネット民主主義というのに慣れてしまう。ネットの世界はムチャクチャ広いから気が付きにくいのだが、アイドル世界・・・妙な言い方ではあるが(苦笑)そういうのもネットには確かにある。これは音楽や踊りというショーの世界とバラエティの融合があって、それらをネット上のコンテンツとして流され、そして応援団のような掲示板がある。この総合したものが「アイドル世界」になっている。

そして面白いもの、面白い言動をするアイドル、こういったものにはちゃんと需要があって、その需要は人気という形で現れてくる。

しかし面白いと感じるのは個人的な感性なわけで、本来は画一的にまとめられるものではない。が・・・多くの人が「アイドル世界」という「場」に集まってくると市場みたいな「人気」でまとまっていく。この「人気」は実際のリアル社会で培った感性によって作られていくわけだから、リアル社会がすでに個人の感性で動いていると考えるのが理屈で整合性がある。

ただリアル社会には一方で企業や行政のようなピラミッド型の統制社会も残っている。また報道される多くはこのピラミッド型社会の部分だ。では報道されないものは何か?いや、報道はされているのだがピラミッド型の統制社会と対比されての報道ではないので気が付きにくい。この気が付きにくいものが「消費社会」。

「消費社会」は計画経済の「支給社会」と全く違う。自分で商品を選べる。もちろん懐(ふところ)事情によっての制限はあるが、「買う」という主体性によっての行動だ。これが「需給」を生み出す。この「主体性」を持っているから消費社会は民主主義が普通に行われている。そういう民主主義社会に慣れていると民主主義を当たり前として受け止める感性が育つ。

ネットの世界はリアル社会以上に民主主義が貫徹されやすいのも、ネット社会に入り込むこと自体が「主体性」を伴っているためだ。電源を入れ、クリックして馴染みのある場所を選択する。この行動に強制はない。

「欅坂」という「乃木坂」の妹グループがあるが、実は筆者はこれにはまりだした(苦笑)。このはまりだしたことを書けばネットワーク社会の本質が浮かび上がってくるのでそれに触れたい。出発点はAKBだ。朝鮮人問題がここにも絡んでくるのでうんざりするわけだが今回はそれを飛ばす。AKBがパソコンオタクの聖地である秋葉原を出発点としたのは偶然ではない。パソコンとネットは切り離せない流れになっているためだ。「オタク」=「趣味人」という認識が世間に認知されだして、これも需要な要素となる。

AKB以前はテレビ局に芸能の世界が依存してきたが、AKBはパソコン聖地に劇場を持ったために必然的にネット依存に向かっていった。そのAKBから指原が頭角を現してきたのも偶然ではない。アイドルに初めてネットと結びついた少女が現れたからだ。指原は「2ch」で人格を培ってきた少女だったのである。これは指原情報に詳しくなれば解ってくる。

ネット世界では当たり前の感性が指原にはあったが、しかし旧来のテレビ芸能の世界では指原は異質な存在だった・・・当時は確かに筆者はそう感じていた。見慣れた他の芸能人と指原はかなり違っていた。アサヒ飲料のコーヒー缶の宣伝でも指原の部分は「異端」とされていた。だから多くの芸能関係者は「いつの間にか指原の話題になってしまう」とぼやいていたほどの語れる存在として指原は登場してきたのだ。

ま、指原の話はここまでにして(苦笑)、AKBはアイドルの旧来の「型」を壊すことによって人気が出てきた。「私らのときは言動を指図される作られたアイドルだったんですよ」とおばさんになったアイドルの多くが語っているが、それをAKBは崩した。そしてAKBの「型」が定着すると今度は乃木坂だ。多くのアイドルグループの中で乃木坂もまた異端だったが、こっちは逆に「復古調」という異端なのである。ただしAKBが作り出した「自然さ」は継承している。言動に助言はあっても「強制された言動」をやらない。自主的に「乃木坂のイメージ」を自分達で作り出そうとした。

この乃木坂のイメージは指原がやって来た団体芸の単純さに「知性」を持ち込んできたわけで、その意味でAKBの「子供の面白さ」から脱皮が出来た。これは乃木坂とバナナマンが共演している番組を観ていると解ってくる。乃木坂メンバーには「大人の個性」が間違いなくある。しかし、まだ「自然な面白さ」の終着点には行っていない。

ここで「欅坂」が出てくる。欅坂で最初に気がつくのはメンバーの声の低さだ。普通の話し方で喋るから声が低い。これは土田と共演している番組を観ると明確に解る。つまり「より自然さを出す」という方針が間違いなくこの番組から見て取れる。土田はこれをどこまで理解しているかがやがて問題になってくると思うが、土田もバカではないからやがて気が付くと思う。気が付かなかったら「欅坂」は時代から取り残されてしまう。

ここで言う「時代」とは何か?「自然さ」のことだ。テレビの世界を日常の世界に引きずり落とす「今の時代」だ。

筆者は当初、「欅坂はなんとつまらないグループだ」と思った。しかし見慣れてしまうと一見「つまらない」ものが逆に面白く感じ出してきた。「普通が持っている面白さ」だ。これは乃木坂で「西野と高山のやり取り」が妙に面白いと感じたことに通じている。「どうでもいいことの面白さ」というのは話の内容よりもやり取りで出てくる態度や表情の側に「面白さ」が出てくる。「作られていない言葉と態度」の面白さである。

これが欅坂のメンバーには普通にある。ちょっと書き疲れたので今回はここで終わる。

現実をゲームとして捉える

ブログを書かないときは禁煙中が現在の状況なので、つまり今は禁煙を解除したことになる。ブログを書こうと思い立って煙草をひと箱買いに行き、戻ったところで1本に火を点けた。

煙草を買いに行くのに自転車を利用しているが、自転車利用はもちろん運動を兼ねてなのだがこの途上で「ひょっとしたら今は俺の人生で最も理想的な生活をしているのかも・・・」と思ってしまった。年金生活で無職といいうこともあるが、何よりも「パソコン」があることで若いときの理想であった「何もせずに生きる」に追加の世界が生まれた。

筆者の場合、パソコンの存在が人生の分かれ道になっている。本職は絵を描くことだったが、「絵を描くこと」をパソコン上でやり始めると絵の具やカンバス、あるいは画用紙などが消えた。画材というのはけっこう部屋を荒らすもので、だからパソコンで絵を描きだすと何をしているかが判別できない部屋になる。しかもパソコンは字も書けるし、動画も作れる。さらには図書館にもなるし、相場のようなギャンブルも机の上でやれる。間違いなく新たに仮想世界が生まれている。

仮想世界の良いところは現実生活の必要悪と言うべき煩わしさがないところだ。

筆者は思索好きでもある。どんな状況でも思索を続けていたし、だから「収容所群島」での学者である囚人が過酷な状況の中で「君、新たな学説を考えついてね」とソルジェニーツィンに話しかけてソルジェニーツィンを驚かせたことも理解できる。こういう人は創造の世界の住人である。眼の前の現実に住んではいない。住んでいる現実は頭の中にある。

次に仮想世界と現実の接点。小説を書いていた知人とこれについて話をしたことがある。まだ10代の頃だ。「小説を書いて出版社に投稿をするって納得しないところがあったんだ」と彼は言った。「話を作るって私的なことだろ?なのに出来上がったものを誰かに読んでほしいって、ちょっと汚れているなと思っていたんだ」・・・こういうときは黙って聞くのが筆者の流儀だ。

「が、空き瓶に書いた手紙を入れて海に流すって話を聞いて、あ、これだ!って思った。出来上がった原稿を出版社に送るってそういう事なんだと俺は思ったわけ。相手がどう思おうと俺にとってはこれもファンタジーの継続なんだよ。これで送るって行為が奇麗になった」

こういう会話は筆者も好きだ。仮想世界と現実世界の微妙な接点を承知している人物は少ないが、少ないからこそこれを話し合える相手は貴重だ。しかし「微妙」さは揺らぐ空間でもある。どちらかが「現実」に深くはまり込むとこういう会話はもうできない。

しかし、それもまた人生。

「それもまた人生」と言い切れる年齢になったなとも思う。晩年というのは終わりがすぐ近くまで来ている年齢であるから、こだわったり執着したところでそれももうすぐ消えてしまうものだ。そういう意識が働いてしまう。何もかも流してしまう。

「死」ということも考え続けてきたが、これも少し前に手術で全身麻酔をかけられたことで答えを実感として得た。麻酔をかけられてすぐに何もかもが消えた。意識が戻らなかったらそのままで人生が終わっている。意識がなかった時間は3時間ほどだからけっこう長い。その3時間が記憶もなしに消えた。

手術が転機で何かを悟るということは多いらしい。そういう話をけっこう読む。このブログで「13 F」という米国の映画を紹介したことがあるが、その映画に出てくる仮想世界の住民の台詞に妙な実感があった。「電源を消されると俺も消える。だから他の世界から来た人間がここを掻きまわされると迷惑なんだ。静かに生かしておいてくれ」という意味の台詞。

思索の世界がこの仮想世界に近い。思索の住民にとって現実の世界は別の世界の出来事になる。かと言って全く別な世界でもない。「微妙な接点」がある。しかし「微妙な接点」は向こう側に入らない接点でもあって、向こう側に引きずり込まれる形になれば慌てて自分の世界に戻ろうとする。「向こう側の世界」とは現実の世界のことだ。

人は最後には「自分の世界」に戻っていく。麻酔をかけられる手術台の上で否応なく自分の世界に引き戻されてしまう。自分以外の人間は存在しない世界に引きずり込まれてしまう。そして瞬間的に何もかもが消える。それが「人生の終り」だ。

これが解ってしまうと「13 F」に出てくる設計途上の光景が妙に現実の世界と重なってしまう。このシナリオを書いた人物は「人生とは?」と考え続けた人物だと思える。現実を仮想として捉えているし、それをどうしても否定できない形で映画を終わらせている。

この視点で現実を見つめ直すと「何をムキになって・・・」という感じ方になっていく。「今生きている世界はゲームの世界なんだ。だからゲームを開発する気持ちで今の社会を観たほうが気持ちが楽だろ?」となっていく。また、実際、その気持ちで現実と向かい合う方が現実に生きることを楽しめる。「ゲームなんだから楽しもう」という気持ちになる。


ロックフェラーと宮沢

ロックフェラーは当初、日本市場にあまり興味を示していなかったが、朝鮮戦争、冷戦期を経て、めざましく成長した日本市場を見て、考えを変えた。莫大な日本の金を財閥の利益となるように取り込もうと画策した。日本経済そのものが拡大していくなかで、米軍需産業へ“貢がれる”日本の防衛費も、GDPの1%以下という制限こそあるが、目を見張る伸びを見せていたからだ。
  1950年代後半以降、ロックフェラーと宮沢は水面下で接触を重ねるようになる。宮沢は参院初当選後の1956年、「金融界の招待でニューヨークの財界と議論し、その
なかでロックフェラー一族の1、2名と話をした」と明かしているが、2人の同盟関係の集大成とも言えるのが、1973年に結成された「日米欧委員会(TC=トライラテラル・コミッション、現三極委員会)」である。この時、宮沢は日本側のリーダーとして活躍した。
  この日米欧委員会とは、ロックフェラーの肝いりで設立された国際的な政財界エリートの連携組織である。各国の主要銀行家、企業経営者、政治家、経済学者ら85人(現在は350人)程度を集め、国際協調を主眼に、経済から安全保障までの政策協議を行なう。
  しかし、実際の役割は、ロックフェラーの息のかかった代弁者を増やし、米財界にとって都合のいい経済システム・政策を世界中で実現させることだったとも言われる。
  その最初のターゲットにされたのが日本だ。終戦後、米国に近づくことで経済復興へと導いた宮沢の役割は大きいが、米財界の中核に近づきすぎてしまった。ロックフェラーの金脈に手なずけられた宮沢は、こうして日本侵食の糸口、TCを提供した


1986年、ロックフェラー財閥の一翼を担うメリルリンチなど外資系金融機関が次々と上陸を始めると、98年には、長引く不況の渦中に日本版・金融ビッグバンが始まり、規制緩和によって日本の金融は外資に支配されることとなった。日本長期信用銀行は、累計8兆円もの公的資金を注入されたあげく、10億円の破格値で米国の投資ファンド・リップルウッド社に買収され、再出発後にロックフェラー自身が役員として名を連ねた。この間、宮沢は3度の大蔵人臣と1度の総理大臣を歴任しており、政府の経済政策において大きな役割を果たしていた。
  安全保障政策では常に、米国から防衛力の増強が求められた。日本の防衛関連企業は米国のハイテク企業、防衛企業と無数の取引がある。すなわち、もっと米財閥の軍需・石油産業にカネを差し出せ、ということだった。
  TCを手に入れたロックフェラーはまさに絶頂期を迎えていた。米国内では、知事であろうと国会議員であろうと意に沿う人物を次々と権力の座につけ、さらに彼らを大統領に変えてしまう“ゴールデンタッチ(触ったものを金に変えてしまうという物語に由来”の力を持っていた。


http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-magazine027.html

「役人が政治家になったらロクなことをしない」典型例が宮沢で、田名角栄にまで「声はすれども姿を見せずの屁みたいな男」だと馬鹿にされ、総理になるために小沢に面接までされている。で、ロックフェラーと宮沢の関係を検索してこのサイトが出てきた。

「ネットで検索」と言っても、やはり予備知識がそれなりにないと検索で使う言葉も見つからない。今のネット時代は無料で色々な内容の記事を読むことが出来るから何にでも目を通すべきだと思う。

記事の切り貼りでも1文が出来てしまうが、これを読者側から見るとぜんぜん問題ではない。焦点が絞られてむしろ切り貼り文章は解りやすい。逆に焦点が絞られていないと元記事の切取り部分がデタラメなので何を言いたいのかさっぱり判らないということも起きる。そこに抜粋した元記事のアドレスを貼っておくことでどの部分を抜粋したかもわかり、それによって切り貼り記事をした人物の視点もうかがうことが出来る。

ブログのような短い文章形態では特に切り貼りで文を進行するのはやりやすい。これも「研究結果を利用して新たな発明・発見をやる」手法の一つ。その「結果」はすでにネットで公表してあるから、わざわざ「結果に導く」論理を書く必要がない。知りたい人は自分でどうぞ・・で終わり。こういう省力化をやらないと新しい発想など出て来ようがない。

次に、このブログでは最初に結論を出して、その理由は後で書くという形を採ることが多い。これも読者側の時間節約に役に立つ。興味のない結論なら「読まない」という形でパスできる。

「新世界秩序」という言葉は謀略論として使われているが、ロックフェラーやロスチャイルドなどの巨大金融資本が中心に居ると現実に進めることが出来る。世界の政治家を動かせる力を持っている。


●アメリカを代表する「ロックフェラー財閥」と、イギリスを代表する「ロスチャイルド財閥」は、不倶戴天の敵であるという説がある。この説によれば、この二大財閥の対立構造は、そのまま米英の対決の歴史を物語るという。

●この説を最初に日本で唱えたのは、「ハーバード大学国際問題研究所」の研究員で、現在、国際政治学者として活動している藤井昇氏であろう。彼は1994年に『ロックフェラー対ロスチャイルド──巨大対立軸のなか、日本の進むべき道を探る』(徳間書店)という本を出し、注目を浴びた。


http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe600.html

「新世界秩序」という言葉を、際もの的なところから現実味を持った言葉としてするには引用記事も色々なところから持ってこなければならない。逆に言えば、それだけ多くの人が気にしたり、問題視したりしているということでもある。

今回ロックフェラーを持ってきたのはもちろんトランプ大統領出現があるからだ。この両者の関係を背景絡みで観ていかないと、これからの日米関係での予測で判断を誤ってしまう。


99%の利益を考える政治家の登場を願う

読者のみなさん、あなた方はアメリカに我々が想像する事も出来ないほど巨大な富と権力をもった億万長者がいる事を知っておられるだろうか。

 その一族は、地球の各地に100か所も邸宅を持ち、2500人の使用人を抱え信じられないほどのぜいたくな暮らしをしている。彼らの富は、大国の富にも匹敵し、大国の規模を超えて地球の全土にわたっている。 およそ1個人ないし1家族が一国の富を上回る私的な富と権力をもち、この地球上に見えない帝国を築いている事をあなたは想像できるだろうか。

 これは全く信じられない事だが、アメリカには数世代にわたってそのような富を蓄え、金の力でアメリカばかりでなく全世界を支配しようとしようとしている闇の帝王がいる。 それは誰か・・・ロックフェラーである。(中略)

著者のゲイリー・アレンは、本書の中で従来断片的にしか扱われる事の無かった数多くの事実をまとめ上げ、ロックフェラー一族の巨大な富と権力が如何にして形成され、彼らが何を目的として行動してきたかを明らかにする素晴らしい仕事を成し遂げた。 これにより読者は、今まで必ずしもそのつながりがはっきりとしなかった幾つかの事件について、その背後には、世界政府実現を目指す彼らの意思が働いている事を確認する事が出来るであろう。とにかくこの驚くべき事実を扱ったこの「ロックフェラー・ファイル」をぜひお読みいただきたい。

 本書の内容をお読みになれば、読者はなぜロックフェラー一族が現在の政策を推し進めているのか、また彼らは何を目指し、我々を何処へ連れていこうとしているのか、そして我々はなぜかれらの圧力に屈してはならないのかがお分かりになるだろう。
                   http://bit.ly/1RWHgLj


http://blog.goo.ne.jp/tamakouranai281-2/e/45f6bd42cd0b41eb5a1ff06359845a23

「ビルダーバーグ会議」をご存じだろうか。これは「陰のサミット」とも呼ばれ、1954年以来、毎年5月の終わりに3日間、非公開で行われるもので、今年もオーストリアで開催された。会場となったホテルには、有名な政治家や官僚  欧米の財界人や王族、貴族、大手メディアの幹部など世界的に大きな影響力を持つ人々が集まり、政治経済や環境問題など多様な国際問題が議論されたと言われている。

メンバーはイルミナティ(啓蒙結社)に属し、この会議の決定に従って、各国政府、財界への工作、メディアを通じた世論操作を行い、陰で世界を動かしていると囁かれてきた。冷戦時代にNATOとアメリカの橋渡し役になったとも伝えられ、実際1991年の会議に出席したビル・クリントンは1993年、大統領に就任。トニー・ブレアも1993年に出席し、1997年に英首相に選出されている。


「ビルダーバーグ会議」は知る人ぞ知る会議で「新世界秩序」の方針もここから出ていると言われているが、これを検索で調べてみれば夥しい情報が出てくるのでその存在を指摘するだけにとどめたい。

こういったひと握りの集団が世界を本当に支配できるかはインターネットという世界的なツールが出現した現在、筆者は無理だと考える。実際、筆者みたいな市井の人間でも自分の考えを世間に出すことが出来るのだ。インターネットは世界をまたぐツールだから夥しいほどの考えがネットの世界で氾濫する。

「夥しい考え」も数が集まってくると「収斂」あるいは「集約」という形で重要な部分は単純化されていく。情報の氾濫は必ずしも「混乱」に導かれることはない。世界支配を考えていてもまず国家を手中に収めないと支配の第一歩は不可能だ。だから国家を超えたインターネットというツールを世界支配の道具にしようと考えるのは理解できる。

だが例えばグーグルがそういう傾向を見せてきたときはグーグル以外のソフトメーカーはグーグルに取って代わるチャンスともなるわけで、世界的なツールは絶対的なインフラとならない。特にネットのツールは全てプログラムなのだ。プログラムはコピーが簡単で、かつ物理的にハードディスクに収まってしまうほどかさばらない性質がある。つまり持ち運びが容易ということだ。

日本は技術者冷遇という社会と言われるが、これは技術者側にも大きな責任がある。社会的視野を持たない人が技術者に多いだけで、社会的視野を持てば米国のプログラマーのように自分達の製品を開発してグーグルのような巨大企業に化ける可能性を秘めている。が・・・ここでも意識が可能性に挑戦させない。一会社員としての安定を選んでしまう。しかし人事というのは「安定」をたちまち幻想に変えてしまう現実の力があるのだ。この「現実tの力」を直視しないのはどうしたことか?

結局は物事を単体としてしか認識できないためだ。そういう学校教育、あるいは社会教育を受けてきた。

筆者はこういうことを考えていくと物事を総合的に考えるという人は特殊なのか?と思ってしまう。AだけならAしか考えない。これが単体の思考だ。もちろんAは一種の専門領域だから探れば探るほど深くなっていく。問題はそれで「専門家」と言われて満足してしまう心の在り方だ。専門家と呼ばれても自分で会社を持つならともかく、雇われての専門家などただの「使用人」だ。この「使用人」という現実を直視しない。会社が不要と見做したなら窓際に追いやられる身分なのだ。

その意味で米国は自分をトップに持っていくまでは安心しない人物が多い。会社の非情さを当たり前のように知悉しているためだ。

ここで米国の「非情さ社会」を考えると世界支配にこだわる人間の心持が理解出来てくる。「人は信用できない」から自分が得たものをあらゆる方法で守ろうとする考えが出てくる。そのためには絶対的な支配者というポジションが要る。人を道具のように扱っても反抗できない体制を作ろうとする。そのためにあらゆる手段をとってくるが、方向性は「支配」という一点に集中する。

しかし「支配」の考えを大衆に読まれたら支配のための構図を描くことが出来ない。支配の構図原型は大昔からあったように「恐怖政治」である。しかし第二次大戦で全体主義と戦ったために国民を煽る「民主主義」という制度を成立させてしまった。民主主義の論理を啓蒙する形で広めてしまった。「しまった」という言葉使いは失敗とか誤りの意味だ。

これで世界が安定してくると強権の行使が非常にやりにくくなってしまう。ちょうど中国が鄧小平によって市場経済を受け入れたのと似ている。鄧小平の出現は毛沢東の強権主義からの反動によってだが、いつの間にか中国では鄧小平の名前が出てこなくなった。習近平が名前を出すのは毛沢東だ。鄧小平が否定した毛沢東なのである。

「反動」というのが歴史には繰り返し起きる。反動直後は往々にして理想を唱えるものであり、理想を唱えないと現体制を倒せないから国民の力を借りようとする。しかし権力を確立すると一転して国民を押さえつける方向に変わっていく。ほとんどの国がこのような歴史を持っている。

その意味で日本国憲法は一種の理想、民主主義体制の確立という理想がある。だから筆者は米国が作ろうと、この時期の理想主義を信じる。それを土台にして元に戻ろうとする振り子を戻させないように、かつ現実に即した体制を唱えるのだ。

振り子の逆戻りは強権主義を指す。大衆を騙して一握りの集団が国民が生み出す富の収奪を図る方向だ。これをさせないのは民主主義制度がある限り可能だ。既得権益者がさらに力を増大させないようにするのは国民の意識が変わるだけでやれるのだ。単に騙しの仕掛けを「騙しの仕掛けだ」と気づくだけで十分だ。この意識変化を政治に反映させるだけで「一点を目指す権力構造」を崩せる。

しかし「騙しの仕掛け」は大掛かりなものだから事例のひとつひとつを提示して仕掛けの部分を示さねばならない。これもインターネット出現の前では不可能であった。考えて見れば判る話だ。マスコミとひと口に言っても、事実上は編集部のわずかな人間がマスコミの方向を決めることが出来るのだ。従わない記者は辞めてもらう。これでひと握りの集団がマスコミを握り、これによって国民は騙しの繰り返しに慣らされていく。

この仕掛けがインターネットによって崩されたのだ。これによって国民は自分達の利益になる政治家を選べるようになった。問題は国民の利益になることを真面目に考えている政治志向の人物が出てくるかどうかだ。出てくれば文句なしに応援する。
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