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古さと新しさの結びつき

当時40才で包装材メーカーのセールスマンをしていたアメリカ人、キング・C・ジレットは、切れ味の悪い西洋カミソリにイライラしていました。切れ味の良い安全なカミソリはないものかと鏡の前で思案にくれている時、突然アイデアがひらめき、自らその開発に取り組みました。そして彼は、すぐさま真鍮、時計スプリング材、万力、ヤスリなどを金物屋から取り寄せ、カミソリのスケッチを作成しました。彼が考えた新しいカミソリこそ、現代のカミソリの原型となる、刃の取り替えが簡単にできるT字型カミソリでした。

https://www.myrepi.com/formen/products/article/formen-150901-2?utm_campaign=male_fy1617&utm_medium=display&utm_source=outbrain&utm_content=outbrain_gillette02

煙草を買いに行って、一服をつけながらネットを観ているとこのようなサイトがあった。ここでも筆者が指摘する「発明はどこでも、誰でも」の一例があるので一部引用することにした。「こんな発明なんてたいしたことがない!」とするのは「発明」の意義をまともに考えたことのない事大主義の持ち主だ。

発明の評価は「どれだけの人が利用しているか?」とも比例する。それは直接的なものと間接的なものに分別できるが、双方とも評価については同じだ。

江戸時代、馬車はありません。理由は簡単。幕府が禁止したからです。江戸時代後期には東海道の大津~京都間の長い坂道を、牛車が滑らないように石畳を敷いて街道に牛車専用レーンまで造っているのです。江戸で同様のことができないわけがありません。

寛政年間(1789~1801)、時の老中松平定信による寛政の改革の折、儒学者の中井竹山が馬車の使用許可を定信に進言しています。しかし定信はこれを否定しました。

馬車を使うと、一人の御者で多数の人や大量の荷物を高速輸送できるので、幕府に叛意を持つ人々が大量の武器を輸送するのもたやすい。また、馬車を許可すると、駕篭かきや馬子、馬方、飛脚、船頭など古くから輸送関係の仕事を行なってきた者が職を失なう。加えて、大名行列が少人数で可能になるのは望ましくない。

以上が松平定信が馬車を許可しなかった理由です。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014740245

権威主義・事大主義者には笑われそうだがヤフーの知恵袋から引用した。この説明が正確かどうかは読み手側が調べれば済むので「知恵袋」のデーターバンク化を指摘したい。この引用をした動機は「統治」主義による社会の歪みについてだ。「幕府に叛意を持つ人々が大量の武器を輸送するのもたやすい」という部分。

これを国家の枠を破壊する行為とするか、封建主義体制維持と受け止めるかで評価は正反対になってくる。

「国家の防衛」という面では「車輪の禁止」は迅速性を否定することになり、国家防衛とは反対の政策だ。軍事の迅速性は絶対条件であるため。となれば「体制維持」のための「車輪禁止」になってくる。では徳川体制はどのような目的で体制作りをしたのか?

これを「戦国に戻してはならない」という決意なら妥当性はある。戦乱の生産破壊は国民の生活に飢餓などの重大な状況を引き起こしたことは確かで、「もう戦争は止めよう」という言い分は割拠する戦国大名にも通じやすい。その意味で織田信長→豊臣秀吉と続く天下統一は力に拠る平和への道程だとも言える。そして豊臣秀吉による天下統一でいったんは日本に平和な社会がやって来た。が、朝鮮出兵だ。これを家康はどのように観ていたか?この答えが徳川幕府にある。

内乱の事前防止・・・これを第一とする。「再び戦国時代に逆戻りはさせない!」という決意が徳川幕府の諸制度に垣間見える。実は動脈瘤の手術で10日ほど入院していたのだが、その入院で別冊歴史読本「江戸時代考証総覧」という本を持っていった。こういう本は読み出したら面白いのだが、通常生活をしていると持ってはいても丁寧に読む気がなかなか起きない。だから手術での入院では逆にいい機会になった。

徳川幕府の諸制度は今から観ても実に人間心理を深く洞察している。

当時の江戸は人口が100万人を越している大都会だ。その大都市での治安の構成は間違いなく優れたシステムと観ていい。治安の「構成」としたのは大目付・目付・町奉行という最高裁裁判所・高等裁判所・地方裁判所の役割に似ているところがあり、これに政治や警察が加わったものとなれば、ひょっとしたら現在の治安システムよりも優れているのではないかと思わせるところがある。

そうでありながら驚くほどに治安に従事した専業人員が少ない。「専業」としたのは警官に相当する目明しなどは無報酬か、駄賃程度で働いていたためだ。そこに喧嘩好きの火消しが組合を作っていた。この「組合」あるいは「寄合」は同業種の自治も兼ねているが、ここで組合独自の裁判的働きをして罪を犯したものを処罰している。そのために罪人が治安機関に運ばれてくる数が今の感覚では極端に少ない。

日本の治安の良さは間違いなく江戸時代が作った。特に特記すべきは江戸時代の人間洞察の深さだ。罪と罰の決定が人間心理と直結している。「恥」というのは切腹と関わってくるほど自尊心を育てるものだが、この自尊心育成の環境作りは素晴らしいと言うほかない。

社会システムも結局は人間心理に依存する。どんなに優れた仕組みを作っても仕組みと関わってくる人間が仕組みを破壊しようとするならお手上げ状態になってしまう。ここで非常に効果があるのは「自尊心」の育成である。

書いていて、思いもつかないことに気が付いてしまうな。うむ・・・「自尊心」か・・・。なんとなく解って来た・・・。
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テクノロジーと相性の良い社会に

https://www.youtube.com/watch?v=iWBSR6iTnEc

指系ロボット
指系ロボット2顔

上は手作業系ロボット、下は人によるリアルな人形製作工程の一部。共にYouTubeから。

こういうものを観ていると凄く想像力が掻き立てられる。学校教育での感想評論として取り込むべきとさえ思う。観て「凄いなぁ!」と思うだけではダメなのだ。YouTubeは間違いなく世界的な情報インフラになっている。

ここで「情報インフラ」という言葉が出てきた。前回は「町のシステム」思考について記述したが、町のシステム化では「町の情報インフラ」が絶対に必要。どの役場でも置いている「町のマップ」を共有動画にしたと考えればいい。動画アップは町の住民限定か、町に関した動画なら住民以外でもアップOK。

関連情報を広げていく情報の枠作りこそ、役場の中心にならねばならない。個人では費用や人材などでやれないことを行政が率先してやっていく体制だ。それをするには住民参加の情報広場のようなものが要るが、そういうことはすでにネットの世界ではYouTubeなどのSNSで実行済みなのである。同時にネット上で住民広場を展開すれば、各地域、あるいは国境を超えた世界にその地域の活動が見えるようにもなる。

こういうことを考えると「繋げる」というシステムでの前提になる考え方が必須ということも理解できる。地方議会なら議会の様子が役場にも個人の家庭にも「繋がって」いて初めて町のシステムがどのように生まれ、どのように動いているかが視覚的にも実感できる。そういう状況では無駄で無意味な議論の応酬は生まれにくい。そんなことをやっている議員は次は代議員として選任されない。無駄で無意味なことをやる人物に報酬など払えるわけがない。

地域には地域特有の「事情」がある。この「特有の事情」は考え方次第でマイナスにもプラスにもなる。

瀬戸内海の島で芸術村として「ベネッセアートサイト直島」というのがある。下のアドレスがそのサイト。

http://benesse-artsite.jp/

「コンテンツ自体は全く問題がない」と、そこを訪れた誰かが書いていたのだが、「同伴した外国人の知人は2度と来ない!と怒っていた。というのも島にはタクシーが一台しかなく、食事をするところも周辺にはない。訪問者には何が必要かを全く考慮していない環境なのだ」という意味の記述。かなり前の記述なので今はどうかは知らない。

ネット時代にはネットという情報ツールを共有して「大掛かりな仕掛け」を作らないと世間からは一顧だにもされない。当たり前の発想は発想しないのと同じなのである。情報時代は「独自性」をもって初めて耳目を惹き付ける。

この独自性においても社会システムがきちんと成り立っている町は、それだけでも注目されやすい。トヨタの自動車工場見学に人気があるようなものだ。芸術村も作品展示だけでなく芸術家の生活に触れることも一般の関心を惹きやすい。また社会システムが十分に考慮されて作られていると生活もしやすくなる。何が足りて、何が足りないかの情報が誰にでも判るためだ。

ここでのキーワードは「大仕掛け」にある。仕掛けが大きくなるにつれて難易度も大きくなる。難易度が大きくなるから誰もかれもが思いついて簡単に参入するのが難しく、結果、最初にそれをやってのけた町は注目を浴びる。この「大仕掛け」の実現にもインターネットを利用した情報共有は必須だ。でないと住民の意思がまとまってこない。住民参加によってマスゲームのような光景を見せつけることが出来る。この実例も多いが、煙草が切れたのでここで中断する。・・・嫌煙家の皆さん、一人部屋でこれを書いているので嫌な顔をしないでください。・・・では休憩!

比較も無意味な新しい社会に

北欧の教育比率

(1-1)学校教育費全体:

 ①公的支出と私費負担の合計額でみると、9ヶ国の中ではアメリカが7.4%で一番である。(OECDがデータを発表している29か国中では、アメリカは第2位である。詳しくは右をクリック:学校境域比の対GDP比)
 ②9ヶ国の中で、2番目から5番目までは、北欧4ヶ国(デンマーク7.2%、スウェーデン6.7%、ノルウェー6.6%、フィンランド6.1%)が続く。
 ③フランスが、フィンランドと同じ6.1%で5位に入っている。次が英国で6.0%、ドイツはそれよりも低くて5.2%である。
 ④9カ国の中で、学校教育費対GDP比率が最も少ないのが日本である。ただし、塾や家庭教師等に対する支払も加えたならば、日本の教育費の比率は増え、順位はもっと上がる可能性がある。

(1-2)公的支出(図1の緑の棒グラフ):

 ①公的支出の対GDP比率で見ると、北欧4ヶ国がいずれも6%以上で、9ヶ国の中では、トップから4位までを独占している。(デンマーク6.9%、スウェーデンとノルウェーが6.5%、フィンランドが6.0%)。(公的支出の対GDP比率が世界一なのは、アイスランドで7.2%、デンマークは世界では2位)。
 ②9ヶ国の中では、続いてフランス(5.7%)、アメリカ(5.1%)、イギリス(5.0%)、ドイツ(4.3%)の順である。
 ③そして日本はここでも、9ヶ国の中では最下位である。日本の比率は、3.5%で9ヶ国中でトップのデンマークの6.9%のほぼ半分である。

(1-3)私的負担(図1の赤の棒グラフ):

 ①ところが、私的負担の対GDP比率で見ると、日本は1.2%で、アメリカの2.3%に次いで9ヶ国中2位である。(私的負担のNo.1は、韓国(2.8%)。なお、韓国は、学校教育費全体では、アメリカに次いで第3位である)。
 ②一方、北欧4ヶ国の私的負担の対GDP比率は、0.1%(ノルウェー、フィンランド)、0.2%(スウェーデン)、0.3%(デンマーク)と極めて少ない。つまり、学校教育費のほとんどは公的に負担されており、私的負担分はほとんどない、という事である。(この点は、次項で分析する)。
 ③英独仏3ヶ国の私的負担分は、0.4%(仏)、0.9%(独)、1.0%(英)となっており、日本より少なく、北欧4ヶ国よりは多い。


http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-86.html

こういった諸外国と日本のインフラ(教育は社会インフラ)を比較して意味を持つのは政府・行政がどの方向に顔を向けて政治をやっているか?が判るためだ。これが気になったのは少し前の公務員の待遇と一般国民の待遇との格差をブログ上に貼り付けたときである。で、政府や行政は露骨なほどに自分達(政治家・公務員)のために政治をやっているな・・と(苦笑)。

それを裏付けるには国民福祉が進んでいる北欧のデーターを示せばより明確になるのではないか?と探して見つけたのがこのサイト。どこに政府や官僚が顔を向けているのかが判れば次に移る。もっと大きな問題について考えていきたいためだ。

もちろん大きな問題とはインターネットという情報世界の出現のことだ。世界との比較さえ無意味にしてしまう「新しい社会」を作り出す絶好のチャンスをインターネットは提示しているのである。「新しい社会」の「新しい」はリアル社会とは似ているようで全く異質な、同時にリアル社会の上部構造として現れたことにある。上部構造がこれから出来ていくので「新しい」とした。

前回、「商売」をするにあたってシミレーションをしてから「どのように」行動すべきかを述べた。そしてビジネスに関してのシミレーションは「調査」が中心になり、調査自体がシミレーションを作っていくとした。その調査はもちろんネットでの情報を集めていくものだ。

では「なぜネットは無料の膨大な情報が流れてくるのか?」という疑問が出てくる。

それはネットという情報世界が出現したために「自分の存在を報せる」必要が出てきたからだ。情報世界が出現すると人は最初に人や商店、取引相手を「色々な理由」でネットから探し始める。そこに自社の名前が、自分の名前がなければネットの世界に自社も自分も存在していないことになってしまう。これは電話の普及と同じだ。電話を持っていないとリアル社会で事実上存在しないことにされてしまう。書類の電話番号の欄が空白になってしまう。

これと同じことがネットという情報空間で起きだした。だからSNSではID取得、ネット商店街で自社商店、あるいは名刺にネットアドレスを書くために独自の自社サイトを競って、やがては当然のように作り出していった。これでネットの住民登録が済む。

日本の場合はネットを覗く総人員が1億人を超えている。それだけの人がネットでの住民届を済ましている。「ネットは新しい大陸!」と喧伝されて久しいが、それが「情報大陸」と焦点を絞った喧伝はなかった。情報大陸とすれば「情報」がリアル社会からネットに移動すると勘のいい人ならすぐに気が付いたはず。もちろんハードディスクやメモリーが貧弱な場合は考えすぎでもあったが(苦笑)。しかし、今は「情報がネットに移動する」と言っても違和感はないはずだ。

では「全ての情報とはどういうことか?」と機密情報を扱っている部署の人は問い、そして「ありえない」と思うはずだ。しかし、公開・非公開の機能がネットにあることを思い出すと「う~む・・」と唸るに違いない。

ネットがリアルタイムに場所も時間も気にしないで情報の移転が出来るので、ネット空間を利用しないと他の者から苦情が出てくる。が・・この途方もない空間を想像するのはリアル社会に慣れているために難しい。難しいためにネット認識のずれも大きいものになってくる。しかし最終的には「慣れ」で決着がつく。電話も自動車も当然のように使いこなしているのと同じように、やがて人はネットを当然のように人々は使いこなしてくる。

筆者はネットを当然のように使いこなす社会を想定して次の社会を考えようとしている。「次」だから遠い将来ではない。「明日」に続く「次」の社会だ。

個人や企業でのシステムではすぐに限界が来る。共有すればひとつで済むものを、多数がそれぞれ共有すれば大きな不経済さが生まれる。その不経済さはコストに反映してくる不経済さだ、それだけではない。それぞれが所有することによってリアルな交流機会も得られない。人との交流は情報の交流でもある。雑談というのは案外と「考えるヒント」になる。この機会が得られない。

これが町を大目標でシステム化していくと町には共同使用が出来る工場も生まれ、その分、自分で工場を作る費用が他に回せる。同時に共同使用なので「命令と服従」の人間関係もない。「何を作っているんですか?」「スーパーで買ってくれない基準外の果物を細かく潰してですね・・旬を売り物にしたジュースを作ってみようかと・・」「あ・・それ、いいね!試飲させてくださいよ」などの会話が弾む光景を想像するのもたやすい。

しかし「町のシステム化」には政治の力が要る。人口3万人の小さな町でも、企業での従業員が3万人だと大企業だ。大企業を経営する考え方が必要になってくる。が、ネットという情報空間がすでにある。その町と似たような条件や状況のある町がどこかに、それも幾つもある。今度はそういった町との交流をしなければならない。その交流もネットで繋いでの交流だからリアルタイムに情報を交換し合うことが出来る。

そうすると地方自治体は他の自治体とリアルタイムで情報を交換できる体制を作る必要がある。この体制作りで従来の公務員採用試験は役に立たなくなってしまう。最低限の情報知識を持った者を採用しないと自治体の仕事がこなせなくなる。この構図の変化はそのまま地方政治にまで波及していく。地方議員も情報知識がなければ行政と話が噛み合わなくなってしまう。

「ソ連崩壊での元凶はゴルバチョフだ!」とされるのも、ゴルバチョフが情報公開や機構改革をやってしまったためにソ連の体制が連鎖して大崩壊に至ったという指摘がある。社会というのは多くの人が気が付かないだけで、実際は一つの社会システムを作っている。社会は認めようが認めまいがシステムで成り立っている。ひとつひとつが連結している。ひとつを動かせば最終的には全体が動く。

こういう国家という構造があるために町のシステムは市に、地域に、そして国にと連鎖していく。下から動くためにこの構造変化は気が付きにくく、多くの人が気が付いたときは後戻りが出来ない流れになっている。

・・・・疲れた・・・今回はここで止め。誤字がありそうだが、直さない。長いのを書くとこれがあるから嫌だ(苦笑)。

異端こそオリジナルを示す考え

偉そうなことを書いていても「じゃ、今からやるにはどういう商売がいいの?」と問われると筆者も言葉に窮した。「窮した」と過去形にしたのは今なら「こういう商売は可能だ」と言えるような気がするからだ。「気がする」とは無責任と言うか、頼りないというか・・・まぁ、店舗開店を含めた事業というのは基本的に「隙間狙い」になってくるためだ。

会社員を目指すなら社長の考えを知っても仕方がない。軍隊みたいなもので命令範囲でしか自分の考えは述べられないわけだし、述べたら人間関係を悪くするか、警戒されてどっちにしてもいいことはない。なのでこのブログは会社員の為には書いていない。冒険をしたい人のために書いている。コロンブスみたいに生きたい人を念頭に書いている。

キーワードはいくつもある。飲食店経営なら独自の味を出せるというのが絶対条件。その上で「どのように売るか?」を考えていく。「どのように売るって、店を借りて始めるんでしょ?」・・・こういう問いをする人は次の波には乗れないからやめた方がいい。独自の魅力的な味を作り出せたら、最初に考えるべきは冷凍食品化だ。

冷凍化したら店で出すだけでなくネット販売も可能だし、売れ残りの処分も少なくて済む。何よりもネット販売を先にするなら「売れるかどうか」のデーターがリスクもほとんどなしに取れる。同時に冷凍食品の保管であるから高い賃料の貸店舗を借りる必要もない。

こういうのはシミレーションが先だ。食品を扱うには

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shokuhin/eigyounavi/sale/

まず、こういう「食品を作って販売したい方は」という東京福祉保健局のサイトを覗くことを勧める。商売のシミレーションは「調査」が中心だと知っておくべき。こういう調査をしつつ独自の味を生み出すことに注力していく。したがってパソコンは必須。調査の足跡を残すだけでなく、独自の味を作っていく過程もデーターとして残しておかねばならない。食品も発明・発見なのである。

こういうシミレーションをやりだすと否応なくシステムという考えにたどり着く。昔のように単品販売の頭では悪戦苦闘した挙句、潰れてしまう。シミレーションしていくと自分の街には冷凍化してくれる企業がないことに気が付く。当然であってほとんどは自社工場で食品加工システムと冷凍システムがくっついている。だから零細であれば「共同」工場の頭が必要になってくる。

スーパーの歴史を観ていくと最初に「共同仕入れ」が出てくる。共同仕入れで大量に商品を注文し、一品当たりの仕入れ単価を下げる。こういうのもネットではすぐに色々な事例が出てくるわけで、これも自分で調べる。要するに調べ癖が付いていないとシステム思考が出来ないということ。

これは教えてもらうことと全く違う。知ろうとしなければ何も知ることが出来ない。情報社会は自分が主体なのである。

シミレーション思考を始めると必然的に複合的な考え方に慣れてくる。情報を仕入れるためにネットの中をあちこち飛ぶようになる。その飛んでいる過程で調べる前には脈略がなさそうなことが結びつく。世間は今の学校教育によって関連性を追う複合思考ができる者は少ない。つまり絶好のチャンスが広がっている。周りは頭がガチガチの連中ばかりなので隙間を見つけることもできない。それどころか、「隙間産業なんて・・」と軽蔑すらしている。

しかし需給の変化は「隙間」から始まるのだ。世間が隙間を見落としているから隙間が拡大して接続状態が悪くなっていく。

パソコン商売も最初は趣味商売だったのである。パンチカードを作って穴を読み取らせ、「動いた!」と喜んで遊ぶ分野。趣味的なものからビッグビジネスに変貌していくのは自動車でも飛行機でも製造では当たり前の本道。ドローンなど世に出た瞬間にビッグビジネスになろうとしている。

主体的というのはどういうことか?自分で考えを生み出すことだ。自分で考えを生み出していくからオリジナルに否応なくなっていく。コピーでないために他の人から見れば異端そのものに見える。その異端こそオリジナルな考えだ。

・・・・ようやく「創造性」の意味を問える内容に入れた・・・複合的な考えをやりだすと回り道ばっかりになって「いいのか?」と自分でも思う。しかし「回り道」が関連性を追っての回り道である限り、主題の「属」に入っている。以降もこれで続けたい。

家畜としての洗脳システムから脱するのは難しい

実務的な思考というのは黙々と「水道管を水源から家庭にまでどのように引くか?」ということを考える思考。逆にジャーナリスト脳というのは「水道を引くということにどのような意味があるのか?今までやってきたように女や子供に水を運んでこさせた方が水の大切さがわかる!」という何も生まない思考。

幸いなことに日本人には実務型思考の人が多い。こういう考え方は「謀略」などとは無縁だが、ネットが出てくると「その姿」に共感する人が増えてくる。この場合「日本人だから」という言葉は出てきやすいが、それは結果論であって、どの民族でもどの人種でも同じ事をやれば同じ共感を得る。

実務的思考は実体のある結果を生み出す。確かに戦争も実務の塊だから、というか、幻想思考では戦争に勝てないので実務思考になっていくわけだが、問題は戦争の後だ。植民地経営においても目的が植民地化した住民をどのように統治するかで戦争勝利者の考え方や目的が現れてくる。

少数による多数支配では「幻想思考」を統治下住民に染まらせるのが一番統治しやすいやり方になるが、ここで統治する側が「実務思考」でそれを考えていることに気が付く必要がある。要するにシミレーションをやっての一番都合のいい統治形態を選んでいる。この場合の支配下に居る圧倒的多数はハツカネズミみたいなものだ。条件反射で行動を決める。そのように教育をする。

ヒトラーの支配地統治の計画ではポーランド人を「字を読める程度」まで教育し、ロシア人は文盲にしたまま動物として扱うという構想であった。この場合、ポーランド人は羊の周りを走る「犬」の役割。

今の時代で思えば乱暴極まりない構想だが、情報をコントロールできる状況では可能な構想でもある。日本でもこの仕組みはあるわけで、マスコミの構造が民主主義で作られていない。占領軍の統治システムとして未だに健在だ。ただ、ネットによって情報コントロールが不可能になりつつ状況になってきた。

ネットが登場してきたからこそ筆者は「民主主義社会を現実に!」と訴えることできている。

最近ではサウジアラビアの国王が日本と中国を訪問したが、サウジアラビアの社会構造では中国の「非民主主義」体制に親和性を感じるはずだ。日本は体制維持では危険な社会だとやがて受け止める。これがネット以前なら間違いなくサウジアラビア国王は日本を選んでくる。偽装民主主義が確立して成功しているためだ。しかし現在の日本はマスコミ・コントロールが効かなくなりつあるわけで、これは少数支配構造のサウジアラビアでは危険な社会と見えてくる。

少数支配で体制を維持するにはペテンが絶対に必要なのである。

だからペテンが巧く行くような仕組みを試行錯誤しながら考えてくる。しかし情報が溢れてくるとペテンの仕組みは後退せざるを得なくなる。各所で「嘘」が明るみに出てくる。水道の管を合金と言いつつ鉄を使用すれば錆という形で嘘がばれてしまう。事実が言葉とは違うから「嘘」だと解ってしまう。

この「事実」に所得の極端な格差がある。あるいは事実隠蔽の法務省の外国人犯罪率の未公表。あるいは税務所の高額所得者ランキング発表の廃止。名前が出てしまうと職業まで解ってしまう。特定職業に高額所得者が集中していると「どういう理由で?」と国民が疑問を持つようになる。

筆者が国家を「社会システム」として捉えるという考え方は特定集団が不正利益を得ることで困難になってくる。普通に考えれば実際に社会は実態としてシステム化されているのだから現実を認めるだけで済む。しかし、この考えは「所得の不平等」をも問題化させるので、右も左も不当に利益を得ている勢力は屁理屈で問題を逸らそうとするはずだ。

その屁理屈をひとつひとつ潰していく作業をこれからやっていかねばならない。この作業でネットはやはり絶大な力を持つ。しかし今のところはまだまだ十分に力を発揮していない。

嘘は事実と違うから嘘だと解る。そうであるなら事実の発掘が一番、嘘を暴くのに適している。事実を連ねていけば詐欺集団のところまで必ず行く。少なくとも事実の発掘で「誰が」というところまではいく。「誰が?」が判明できれば所属集団や人脈の構図を描くことが出来る。ここまでは社会の掃除に属する。

将来社会を描くのは別の実例を基に描いていく。こちらは明るい事実。希望に繋がる事実。

前回の続きで「創造」について書こうとしていたが、知人がこのサイトアドレスを送ってきて調子というか、予定が狂ってしまった。とりあえずそのサイトアドレスだけを貼って今回はここまで。

http://blogs.yahoo.co.jp/x_lucy0_x

「賢さ」とは何であるのか?

「ヒトラー」という名前を出すとそれだけで拒否反応が出てしまう状況を作ったのはユダヤ系キャンペーンによって・・・と釘を刺して続ける。ヒトラーは金融経済の専門家ではない。売れない絵描きであり、下っ端の軍人であり、勇敢な兵士等々、どう考えても国のトップになる条件を備えていない。しかしそういうヒトラー政権下でドイツはどん底から這い上がって世界第二の経済規模の国になっていく。

これは珍しい事なのか?そんなことはない。レーニンも無茶苦茶な頭の持ち主だし、明治維新を成し遂げた下級武士の群れも今の基準で言えば無学な連中だ。国家の成長を成し遂げるトップの力量は事例を引き出せば引き出すほど学問とは違うところから来ているのが判ってくる。

ではトップの力量とは何か?「賢さ」に尽きる。学問とは異なる「賢さ」だ。

経済問題でも財務省は会計担当の裏方に過ぎない。主役は製造であり、販売の営業。これがなかったら「事業」そのものが存在しない。ところが財布を握る者は強いのでいつの間にか「事業は何によって成り立っているか?」が忘れられてしまう。専業主婦は旦那が働いているからカネが入る訳で、財布を握っているのは旦那が稼いできたカネを管理するためだ。要するに旦那の補完をしているのが専業主婦。

この保管をしている側が自分を事業の中心と考えると事業の行方はとたんに怪しくなってしまう。

成長が下り坂に向かう20年、30年の経過を筆者は経験しているが、マスコミの話題は日本の財政ばかりで産業を正面から問う論議が非常に乏しい事実があった。GDPという言葉はよく知っていても貿易は物々交換であるという認識が全く行き渡っていない。「物々交換」という意識があれば「交換できる物をどれだけ日本は持っているか?」という想像が働く。しかし「GDPの拡大を!」では数字しか頭に浮かばない。この言葉は「経理」の言葉なのである。「もっと働いて!」と旦那にはっぱをかける嫁さんの言葉だ。旦那がやっている仕事の内容を理解しようともしない言葉。これでは旦那も仕事のやる気を失ってしまう。

こういう旦那が仕事のやる気を失うような言葉がマスコミの中心になっていたし、今でもそうだ。

言葉というのは怖い。やる気をなくすこともできるし、解っても居ないのに解った気にさせもする。そういう場合の言葉は全て抽象論の言葉。抽象的な言葉にはそういった幻覚や錯覚をもたらせる働きがある。

筆者が「社会システム」という言葉を使うとき、できるだけ抽象にならないように「救急システム」とか「冷凍システム」などの具体的な想像しやすいものを使うように心がけているのも、「幻想」や「錯覚」に筆者自身が陥らないように注意しているためだ。「頑張れ!」なんて誰でも言える。そんな簡単な励ましよりも具体的に「あれをしろ!」と指示する方が動く側にとってはよっぽどタメになる言葉だ。しかしそういう言葉を出せるにはある程度、状況認識が出来ていないと出てこない。

こういう状況認識でネットというのは絶大な力を発揮する。何しろ座っていながら現況を観ようと思えば観ることが出来る。

「賢い」人とは状況認識がきちんとできている人を指す。そのために状況認識の出来ていない教師よりも状況認識が出来ている生徒の方が賢いということも普通にあり得る。状況を日頃から注意して眺めていると火事になった場合、運び出す物の優先順位もすぐにできるし、逃げる経路も迷わないで済む。こういうことをやれる人が賢い人なのだ。

これが理解できると無学な人物でもトップに立って有能さを発揮できることに得心できる。彼は、あるいは彼女は「賢い」のである。

インターネットの出現も「状況」であり、「状況の変化」である。だから判断の出発点はこの状況変化をどのように捉えるか?から始まる。インターネットは情報世界なので、情報でやれることは全部インターネットに移行する・・・この仮説を検証するには街の様子を眺めれば足りる。同時にこれは財政論や経済論でもない。社会論だ。財政や経済を生み出す本体・・その社会論である。

インターネットという情報世界が出現していた段階で新たな社会論が巷間を賑わせていなければならなかったのだ。この出遅れが物の世界であるリアル社会に起きたし、今も継続中だ。この主犯は財務省である。社会の事業を具体的に把握していない・・・いや、関心すらない。連中の関心は財布の紙幣を数えるだけだ。・・・なんか腹が立ってきたな・・・冷静にならないと(苦笑)。

前に書いたかどうか忘れたが・・・店舗はやがて倉庫に変貌する、というのが筆者の予見だ。販売はネットが中心になってくる。ネット販売は通信販売でもあるので宅配事業はさらに拡大し、それを配送する運転手の数もさらに増大する。この運転も地理に詳しいか詳しくないかで能率がかなり違ってくる。ナビゲーター利用は実際には使われることは少ない。これは知らない街で使う機器だ。

現場の話は関係者の方が詳しいので他人の土俵で相撲はとらない。筆者が不利になる(苦笑)。それでも知ろうと思えばネットがあるので、ある程度は知ることが出来る。重要なのは「ある程度は知ることが出来る」状況認識の方だ。

さてシャッター街。客が来ないので店をたたむ例があちこちで起きているが、これは指摘するまでもなくネット通販に客を奪われているためだ。店がネットに移行してしまっている。全てそうだとは言わないが、しかし流れがそうなっている。その理由はネットへの移行が圧倒的に簡単で費用もかからないことによる。

一方でネットに店舗が移動すると必要人員の数も激減し、また販売技術の中身も変わる。ネット販売で必要な資質は「マメ」な人。ゲームに集中できる資質。ただし、これは従業員の資質だ。店舗主の資質はまた違ったものになってくる。

長くなったので「創造の意味」を書こうと思ったが次に譲る。

社会の枠作りはパソコンのOS参考が最適

欧米映画によく観る「無駄な豪華さ」はそのまま住んでいる人の心の窮屈さを感じて素直な会話が出来そうにない・・・・と感じるのは筆者だけか?「この豪華さに対する憧れはどこから来ているのか?」と考えると、強烈な私有欲と強烈な顕示欲だけしか伝わってこない。

消費社会の出発点は「貧しさ」「貧困」からの脱出願望から始まっている。この脱出願望がひとつひとつ物を購入することで脱出感と達成感を覚えさせ、脱出感の場合は脱出できない者に対して優位感を覚えさせる。達成感はいいのだが優位感の場合は自分を失いやすい問題が出てくる。優位感には階段がある。ひとつ階段を上がると同じ物持ちばかりで、ひとつ上を観ると自分を見下ろして嘲笑っている者の顔が見えてしまう。そのように思ってしまう。そうすると今度は悔しさが湧いてくる。悔しさというのは強い感情だ。

そして物の所有だけを目的にすると「優位感」と「悔しさ」が交互にやってきて、気が付くと所有欲に振り回されている自分に気が付く。しかも同時にこの所有欲は孤独と繋がってくる。「自分だけ」に所有の価値があるためで、達成感のすぐ後に心の中を冷たい風が通り抜ける。

宗教が強いのは、神であれ地球や宇宙の自然であれ、「一体感」の恍惚を覚えさせるところにある。集団動物は仲間と一緒に居ると安心できるのだ。森の中を一人で彷徨っているときに人家を観ると安堵の気持ちが湧く、あの安心感。ネットでもこの「仲間を求める」気持ちがこれに該当する。この場合は光景ではなく「言葉」。

洗脳工作も「一体化の演出」が中心。「仲間への優しい言葉」「共に怒る」「共にこぶしを振り上げる」・・・こういった一体感演出をできない組織は弱い。ネットの結束力が弱いのも一体感演出が容易でないため。しかしネットで動画が出てくると臨場感があるのでテキストだけではやれない一体感の演出がやれる。この認識がないサイトは弱い。

ある旅行会社はテーマ別旅行企画を立てて成功しているが、これはテーマーの持つ一体感が自然な形で応募の旅行客に伝わるためだ。空手の世界愛好者は1億人らしいが、スポーツというのは「道」という自分に向けた目標が自然に生まれて競技者同士の連帯感を共有しだす。だから「スポーツに国境はない」と言われる。

以上から「一体感」とは集団がまとまるキーワードになることが理解できる。

その意味でシステム社会の認識が世間に広がるのは容易ではない。技術自体は中立性があるので一体感を伴わない。一体感なしで社会の基本認識にするには事例をふんだんに用意しなければならない。事例によって一体感を演出していくしか技術思考は広がっていかない。正しいとか間違っているとかの問題ではないのだ。論理の整合性がなくても「この人は自分たちの仲間だ」と認めさせる政治家が力を持ってくる。ここはきっちりと認識しなければならない。

しかし一体感による弊害もまた出てくる。前の戦争での「1億、総玉砕!」と叫ぶことを許す社会感情のことだ。

こういう理のない社会感情で動くのを阻止するには明確な社会の枠付けが要る。ここで何度も今まで書いてきたがパソコンのOS設計思考を例にとりたい。

OSというのはソフトを動かせるための枠である。この枠の設計は多種多様なソフトを「あちらのソフト」「こちらのソフト」と自在に行き来させるために作られている。そうであるために一つのソフトがOSに侵入するのをあらかじめ防ぐためのプログラムが用意されている。ウンドウズ10で動くソフトがアップルのOSで動くとは限らないし、ほとんどが認識もされない。それは「枠」が違うためだ。

これは国家にそのまま当てはまる。「法律」というのが国家の枠であるために、自分の国の法律では合法であっても他の国の法律では違法になることが普通にある。こういう枠作りはOSのなかのソフトでもソフト独自の枠作りがある。お絵かきソフトでもツールが他のソフトでは使えない。これはグローバル社会を考えるときに重要な事実認識となる事柄だ。

この状態がインターネット以前の世界であったわけで、そこにインターネットという世界インフラが登場してきた。そうなると各種のOS自体もインターネットという枠組みに合わせる必要が出てきた。でないとアップルもウィンドウズもインターネットに入ることが出来ない。ここでOSという囲い込みの一部が崩れてしまう。

これは鎖国状態の国で貿易港を開くことに他ならない。しかし、あくまでも貿易港であって国家自体が全面的に開放してはいない。なぜ全面的に開放しないか?OSに合わせたソフトがもの凄く多くOSに依存しているためだ。

これが国家と世界の関係である。だから文明も古い文明ほど古い文明に依存するソフトを多数抱えているために容易に新しい文明に移行できない。これはOSがバージョンアップすると使えないソフトや機器が出てくることを考えれば理解しやすい。

内容が複合的になって来たので混乱を避けるために今回はここで終わる。

ネットの情報世界はリアル社会の先を行く

4月を目前に控えて「寒いなぁ・・」と思っていたら、「英紙「Daily Mail」(3月22日付)によると、NASAの太陽観測衛星「ソーラー・ダイナミクス・オブザーバトリー(SDO)」が太陽活動の停滞を観測。なんと、3月7日~22日の15日間連続で太陽黒点がゼロだったというのだ!」
http://tocana.jp/2017/03/post_12739_entry.html

太陽黒点は太陽活動の指標とみられ、活動が極大化すると多くの黒点が出現し、極小化すると激減する。黒点の減少がすぐさま太陽活動の終焉を意味するわけではないが、「氷河期」が着々と近づいている証拠と科学者らは見ているようだ。

「地球温暖化で海水が上昇している!」という報道が2年前に出ていたが・・・今度は真逆の「氷河期」!

これで石油の値段が上がる・・・と騒がれそうだが、日本にはすでに「燃料電池」という新たな燃料技術が実用化段階にまで来ている。燃料の元になるのは「水素」。島国である日本は周りが海ばっかりなので水素に囲まれていると言ってよい。石油の値段が上がれば燃料電池の普及が一気に進む。

こういう普及にも社会システムの考えが要る。それも必須。

技術が社会を変えてきたのは商品としてであったが、商品を作るには製造の技術思考が要る。この技術思考を社会の運営に応用しようとするのが社会「システム」思考。

一度、社会システム思考をやりだすと周辺の連中がバカみたいに思えてくる。喜怒哀楽で騒ぐ原始人!思考の長さも幅も全部が短い。そうなってしまうのは物事を具体的にイメージできないためだ。物事を具体的にメージするようになると今度はシミレーション思考になっていく。「AとBとCを結んで・・いや、ABCと結合すべきか?}というシミレーションの発想。

例えば現在の朝鮮半島を読むとき、金正恩は核ミサイルを撃ち込むか?は最初のA。次に「撃ち込む」という結論が出たら「どこに?」がB。その結果はどうなるか?がC。

最初のAはA群と呼んでもいいくらい様々な想定が出来る。BもB群、CもC群。この群分けで思考の混乱、つまり短絡をかなり防げる。群ごとにシミレーションを作っていくためだ。この群分けが有効なのは群の質が違う場合があるためで、「撃ち込む」というA群は心理的な分析も必要になってくる。その心理も金正恩個人の心理と取り巻く幹部の心理、支配下の部下の心理、直接かかわっていない大衆の心理・・・とAa、Ab、Ac、Adとさらに細かく分類できる。

これは分析思考だが、シミレーションをやるためには必須の思考でもある。次に「どこに撃ち込むか?」のB群は作戦の限界を知るためにシミレーションする。撃ち込む対象は中国・日本・ロシアの周辺国。これは北朝鮮側の議論の場面を想像すると「学問的ではない」がやりやすい。学問的にしないのは現実は「ドラマ」で動くからだ。日本でも終戦を決めるときに色々なドラマがあった。当然、現在の北朝鮮でも色々なドラマが始まっている。

作戦と言うのは所期の目的が達成すれば「成功」なのである。しかし大抵は作戦通りに事は進まない。思わぬことが出てくる。この「思わぬ事」を最小限にとどめるためにシミレーションをやる。だから様々なデーターが必要になってくる。

シミレーションが多いほど「思わぬ事」に対処する力が増す。昔はこれを「準備」としたが、「準備」という認識は雑すぎる。もっと細かく「B群の準備はどれだけ要るか?」でないと限られた資源が効率的に振り分けられない。この「限られた資源」で北朝鮮は致命的に乏しい。致命的に乏しいから北朝鮮の作戦も単純なものになってくる。他に選択肢がないためだ。

A群の「幹部の心理」「部下の心理」「大衆の心理」は作戦決行後に重要なシミレーションとなる。このそれぞれの心理で作戦の継続期間が決まってしまうためだ。統率可能な時間、あるいは期間と言い換えてもよい。

これらに基づいて北朝鮮攻撃のシステムを作り上げていく。この場合のシステム構成は「基幹」システムと「対応」システムに分けられる。「基幹」となる部分は「倉庫」のようなもので、対応システムの多種類に比べてひとつでいいから「基幹」システムとした。

この「基幹」システムと「対応」システムの分類は戦争に限らず、平和な時の行政でも有効な振り分けだと考えている。やってはならないのはこの混同だ。この混同で行政はメチャクチャになってしまう。沖縄などでは知事が勝手に外交をやっているが、これなどは極端にシミレーション思考が出来ない典型だ。知事を囲む役所や行政、政党の誰もかれもがシミレーションが出来ない。

シミレーションの意識がないから分析もできない。分析をするにもデーター収集をろくにやっていない。

「平和ボケ」ではない。頭が現代人になっていないのだ。・・・・・・うむ・・・・沖縄だけではないな。もうホントにネットがどんどんと先を進めていくしかない。そして結果を受け入れさせる。否応なく「その通りだ!」と認めさせる結果を生み出し、見せつける必要がある。

ネットは実質と本質の世界

ツイッターロボ映像
ツイッターロボ映像2


自分の投稿を貼り付けたが、実際、「システム社会」はロボット軍隊と相性がいい。そもそもシステムは「連結」を前提にして輸送システム・冷凍システム・医療システム・等々が生活インフラになっているわけで、軍事面でのロボット軍隊もそこに軍事システムが加わるだけだ。

こういうシステム管理の上部にインターネットという社会管理システムが出来つつある・・・と考えるとネットの役どころも見えてくる。

また「衆知」社会も世界の現実がそうなのだ。世界にはどうでもいい発明も含めて、実に吃驚するほどの発明総数が毎日毎日生まれている。この現実を報せないように、あるいは世界の人間に悟られないように「ノーベル賞」という権威偽装がある。

この権威偽装のからくりは、徳島県という日本でも片田舎の大したことのない企業内で発明した人物をただちに米国の大学教授として招き、そしてノーベル賞を取らせるというような仕掛けで、あたかもアカデミックな場所から偉大な発明が生まれているような錯覚を演出する。これは権威作りの手品だ。

この手品の種明かしをしているのが「カンブリア宮殿」という番組。製作者が気が付いているのかどうかはともかく、町工場の職人が次々と発明家になっていく。発明家の育ちから世に出るまでを追うことでアカデミック否定になってしまう。偉大な発明もまたみすぼらしい町工場から立派な建物にある研究所まで、その建物の立派さに関係なく発明が生まれることを示す。

http://kkhgop.blog.fc2.com/

「アイデア商品大集合」というサイトであるが、ここもまた「衆知」の紹介サイトになっている。しかもアカデミックさとは無縁の発明が実に多様に紹介している。そうすると日本の研究開発はハローワークと結びつけないと出発点がおかしくなってしまう。誰でも、どの町でも自由に機械をいじくり、思いついた商品開発をする・・・そういう場を作って日本は次のステージに一番乗りをする。

地方政治のいかがわしさは大企業誘致という眼先の税収狙い、雇用狙いで今までやって来たことにある。だからいつまで経っても人材を育てることが出来ない。発想が権威崇拝主義であるためだ。地方ほど地元の人間をバカにする。「創造」の意味が理解できない。あるいは「創造」はどのような環境で育むことが出来るかが理解できない。これではいつまで経っても休眠状態のまま町も村も衰退していく。

リアル社会の問題点は「実質」あるいは「本質」を妨害する「見かけ」で判断して動くことにある。

それに対してネットの世界は「実質」であり「本質」だけの世界だ。なにしろ投稿している人物の姿が見えないのだから投稿内容で判断するしかないためである。この世界で「飛行器」を考え理論化していった二宮忠八などは間違いなく評価されたはずである。

これはネットが評価する世界であることも示す。また評価する側も何者であるかは知れない。しかし権威主義に毒されていなければ「素晴らしい!」と素直に書くことが出来る。この「素直さ」が「実質」を生み「本質」を悟らせる。そういう「素直さ」が飛び交うのがネットだ。

これはネットから次々と素晴らしいものが発想され、作り出されてくること意味する。しかも膨大に。

これを受け止めるために「社会システム」という未来型の思考形式、あるいは価値観が必要になる。新しい技術や発明をシステムに組み入れるためにはそうなるしかない。この発想で「町のシステム」「村のシステム」「国のシステム」と社会をシステム化させていく。

人口減少で、それに対応するために北海道の夕張市はスモールシティという構想を作り、実現化しようとしている。これは町のシステム化であり、システムの考え方でないと設計図がムチャクチャになってしまう。東京都のように巨大都市なら巨大都市としてのシステム化になってくる。さらには周辺地域との連結で地域システムという考えが要る。

こういったシステム化構想での整備にはもちろん膨大な資金も必要になる。これは映画作りでは普通になっている「資金供給」を銀行などと組んでシステム化が出来る。一般国民から眠っている資金を安心して出してもらうためのシステム作りだ。これで眠っている資金が生きてくる。

同時に眠っている資金の多くは「老後のため」という生活保険の動機が大半。そうであるなら「老後は心配するな」というセーフティネットの拡充を設計すればいい。セーフティネットの重要さは「眠っている資金を引き出す」という面にある。社会に循環する資金が眠っていた分だけ増えるわけで、その金額は膨大でもある。これが消費市場に出てくるのだ。

こういうことの調整や監視をネットがやるのだ。

ネット社会は未来の先取りであることが理解できる。まだまだ雑ではあるが多少のスケッチ図は見えてきたと思う。

ネットという情報空間は現実社会に挑戦してくる

公務員の格安宿舎

公務員には休みも多い。まず、有給休暇が初年度から20日間ある。平均取得日数は13.1日である(人事院、2014年)。民間では労働基準法で定められているとおりの10日という企業が多く、平均取得日数は8.8日だった(厚生省就労条件総合調査、2014年)。

 さらに、公務員にはこのほかに民間にはないような特別休暇がある。夏季休暇、ボランティア休暇、結婚休暇、親族が亡くなったときの忌引きに親の法要のための休暇まである。妻の出産への付き添い休暇や、妻が専業主婦や育児休業中であっても夫が育児参加休暇をとれるなど、イクメン押しである。病気休暇は90日。民間サラリーマンなら有給休暇で都合をつけたり給与が減らされるところだが、公務員は特別休暇をとっても有給も給料も減らない。また、有給休暇は一時間単位でとれる。

 公務員には査定もなかった。2009年に初めて勤務評定が行われ、2011年からボーナスに反映するようになった。しかし、全職員の6割が「成績優秀」であり、それ以外は「成績標準」という大甘査定だそうだ(総務省)。


http://ironna.jp/article/5062?p=2

この記事を読みながら思ったのは「身分社会の復活」という言葉。

筆者の主張する「市場主義」「衆知主義」とは真っ向からの逆現象。久しぶりに「レーニン」著ロバート・サーヴィスを読み返しているのだが、革命初期に「平等社会」が社会混乱を招いて「平等」とは裏腹の階級社会・官僚社会へと革命が向かいだした。これにより農民の収奪が始まり、悲惨な飢餓地獄が生まれていく。

ロシア特有の産業社会に未成熟な事情があった・・・とは言い切れない。中国の共産党革命でも大規模な飢餓状況が起きているし、北朝鮮でも同じ事がいまだに起きる。同時に共産主義体制が世界交易の現実に追い込まれて開放経済に向かうと今度は汚職社会に変貌する。ベトナムでも汚職は酷い。

「階級という名の身分社会」はカースト制度と変わらない。インドはこのカースト制度の残滓によって未だに新たな社会を築けないでいる。それが・・・日本でも静かにカースト制度に向かって社会が進行していると思える現象が起きている。

世帯別所得ツイッター用

こういう平均所得以下が61%の大多数を形成しながら、この大多数が政治では完全に無視されている。「無視」とするのは所得向上の政策が一つもなされていない現実があるためだ。しかも大問題として報道もされない。だから「静かにカースト制度に向かっている」と書いた。

中国や韓国の日本への浸透工作があるために今現在これを取り上げたくはなかったのだが、世界状況の大波乱も予想されるわけだから「次」を今から提示するのは必要だとも思う。ソ連の階級社会への進行は大量の血を、大量の処刑を伴う暴力による統治の結果だ。そしてこの暴力性は市場経済に移行しても残る。報道が統制されて国民は現状を判らなくさせるためだ。

民主主義というのは筋道だった思考ができる高度な水準に達した社会だけが達成できる社会だと思う。

この水準に達しているのが北欧諸国だと思えるが、その北欧諸国も移民導入で社会が壊れ始めた。どうも世界的規模のある勢力が高度な社会を築くのを邪魔していると思えるところがある。邪魔の正体は「世界的規模でのカースト制度」確立で邪魔になるという意味だ。

しかし民主主義制度を採用しているところは民主主義社会への筋道を「選挙」という制度で拓けている。この制度を失えば確かに世界規模での「カースト制度」復活は可能だ。そのためにマスコミを手中に収めている。

が、ここでインターネットという思わぬ情報技術が出現してきた。かってマイクロソフトのビル・ゲイツは世界の著作権を買いあさろうとしていたがネット出現でその野望がくじかれている。インターネット自体も世界の画一化を進めるツールとして用意したものかもしれないが、実際には手中にしていたマスコミがネットによって追い込まれてしまった。しかも世界のカースト制がめどに立ったところでトランプのような人物が米国の大統領になってしまった。

衆知をなめていたのだ。筆者はこの狼狽をノーベル賞で「青色ダイオード」発明家に与えたことでカースト制度の頂点部に立つ側の狼狽を感じた。ノーベル賞はカースト制度維持の装置なのでアカデミックな発明でなければ渡せないはず。しかし大衆商品の技術でもある「青色ダイオード」に手渡したことで世界支配の一角が「妥協」という形で崩れるのを感じた。

ネットという情報空間は新たな世界を創りだしている。それも「衆知」という力で。

この情報空間はカースト制を作り出せない空間なのである。縦の階層になっていないためだ。上から下への指令・命令が出来ない構造になっている。「良識」という自然発生的な秩序がカースト制度を防ぐ力として作用していく。そもそもこの一文でも共感する人が増えてくればカースト制の野望を崩してしまう。ネットには無数の意見が出てくるのだ。

このブログで何度も繰り返しているが「需給」は民主主義の実際の形であり、現象なのだ。

この需給という民主主義でソ連も中国もその他の社会主義諸国も「市場」という民主主義に敗北した。国民が求めるものを阻止しようとしても、それが大きな波になると降参するしかない。そして今またネットという情報市場が出現してきた。これも市場だから民主主義の「需給」という力が作用する。

そして・・・これが重要なのだが、ネットの民主主義は現実のカースト制度と対峙していく。対峙し、やがて「選挙」という現実でネットの力が現実社会に作用しだす。

こういう大きな流れを直視すると「情報戦争」の戦い方も解ってくる。情報戦争は支配層が相手ではない。中国でも韓国でも北朝鮮でも「世界の動向」という情報を相手国の国民に注ぐだけで情報戦は勝てる。もちろん相手国は情報が上陸するのを何とかして阻止しようとしてくる。しかし情報はキャンペーンだけではない。「知財」もある。

「知財」を得なければ現実の技術が遅れに遅れてしまって、現実の国力さえ後退していく。実際、中国の技術研究者側がネット封鎖に対して「中国のためにならない」と抗議を始めている。

こういうことを観ると「ネット」という新しい世界が古い世界に挑戦を始めているとも考えられるのだ。
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