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情報処理の実際

データファイルの説明


赤い丸のアイコンが「FLASH ドギュメント」で、銀色の丸いアイコンが「FLASHの.exファイル」。ドギュメントファイルには全部のデーターが入っていて287MBのデーター容量だが、それを表示する「FLASHの.exファイル」のデータ容量は10分の1の27MB。

最初の試作として、これもまたデータをとらねばならない。で、そのデータをまとめたのがこれ。文章で説明するのはしんどいが、表のようにすると「こういう風に作っているのか?」とすぐに解る。情報処理の段取りということになる。

その上でFLASHなどのソフトの使い方を覚える必要が出てくるが、こちらは表現力の問題。どれだけ各種のソフトを駆使して直感的に判りやすいものを作れるか?になるのだが、データー処理の仕方、つまり作業の段取りを経験的に知っていないと表現力だけではムチャクチャになってしまう。つまりやたらと混乱して時間がかかる。

人は夢を見やすいが、実際にやりだすと自分の頭の中がいかに整理されていないかが判ってくる。

しかし情報時代の基礎教育が今述べたことなのだ。筆者の場合、ツイッターなどでのやり取りを見て、疑問に思ったことはすぐに検索してメモを作るようにしている。すでに話題になっているものはたいていメモとして保存しているわけだが、これが筆者個人のデータバンク。

が、個人でも「7月」というフォルダーを作ると膨大なメモが溜まってしまって自分でも驚いている。今まではそういうことは頭の中の目録であったが、フォルダーを作ることによって頭の中の目録をパソコンに移し替えたことになり、これで眼に触れたものの情報が比較にならないほど信頼性が高まった。

この信頼性がないと情報のピラミッドは作れない。

爆撃1

爆撃2

爆撃3


こういうのも今書いている最中に作り上げているのだが、段取りとしては「FLASHの.exファイル」で使用する画像の検索→SAIに取り込み→SNSサイズに縮小して書き出し・・・という3段階の順序でやるから時間はほとんどかかっていない。

こういうことが実際の情報処理なのである。

で、こういうことに慣れてくると情報処理ができていない相手にはイライラしてくる。5分かそこらで済むことを1日かかっても説明しきれないのだ。国会などの質疑を観ているとバカが集まって何ごとかをワイワイとやりあっている光景として観えてしまう。確かに弓矢と鉄砲では大違いだ。連中は弓矢の時代の人である。

しかし鉄砲を手にしている人は弓矢しか知らない人とどのように対処すればいいのか?これも厄介な問題なのだ。




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「事件」と著作権

パレスチナ問題1

パレスチナ問題2

パレスチナ問題3

パレスチナ問題も写真で流すと簡単な問題だとすぐに判ってくる。もちろん、それを解らせるだけの写真は必要になるが。過去と現在を織り交ぜると人は実に同じことをやる動物だと、ある意味、呆れてしまう。同じ手法は慰安婦問題でも使えるが、が、大きな問題が出てくる。

著作権の問題だ。著作権があるから自在に写真を駆使して語ることができない。

ここで社会は何を優先するべきか?という問題が出てくる。どこまで個人の権利を守るか?という問題でもあるわけで、これは土地所有の問題と基本は同じ。個人の土地所有の権利を優先すると社会開発はストップすることが起きる。が、社会の進展が停止したら個人の権利も、その価値も、停止した分だけ減ってくる。価値には「期待」や「見通し」が加味されているためだ。

人道問題になると、さらに社会と個人の関係が厳しく問われることになってくる。

著作権で言えば「出来事」は無料、タダで、それを利用して写真に撮ると出来事がタダではなくなる。映画は有料であっても出演者には報酬は払わない・・・そういうことが報道では起きる。そうすると、出来事を写された出演者は写された利用料金を請求できることになり、それでは報道のコストは何倍にも膨れ上がって事実上、報道も出来なくなってしまう。

だから肖像権を支払う必要がないように顔にボカシを入れる。が・・・この写真でボカシが入っているとどうなるか?事実の迫真性が失われてしまうのだ。そして「迫真性」こそ報道では「意味があり、価値がある」ことにも気が付く。特に人道問題では「こういう緊迫した事件にボカシを入れる魂胆は何だ?世間をなめているのか!」ということにも繋がりかねない。

ここでは「報道」というトータル・総合的なものと、カメラマンや報道番組の制作会社の関係が問われている。やはり「社会」と「個人」の関係、優先順位の問題だ。社会主義国家では個人の権利など考慮する必要がないから、文句をつける方が逮捕・勾留。一方、自由主義国家では個人の権利を尊重する建て前があるためにインフラであっても社会的コストは何倍にも膨れ上がる。

が・・・社会的コストはあるものの「意欲」をも刺激するので供給は増える。供給が増えると需給の関係で需要を失うほどの値段はつけられない。この値段が個人と社会の間を調整している。

が、ここで供給が出ない仕組みがあればどうなるのか?供給側の思い通りになってしまう。

資本主義国家の場合、市場によって値段が作られるので市場そのものを失わせる寡占状態を防ごうとし、「独占禁止法」というのを施行している。問題は「寡占」の捉え方で、市場に対してどれくらいの割合があると市場をコントロールできるのか?という部分。

これも写真などを提示していくと直感的に寡占状況が示されるので複雑な話にはならない。「著作権」の問題は「社会」と絡ましてじっくりと考えていくべき問題であり、情報時代ではなおさらこの問題は避けて通れない問題となってくる。

「社会側の主張」「個人側の主張」・・・これを照らし合わせて妥協点の着地どころを筆者も考えていきたい。



自分の仕事を見つける楽しさ

昔は「書斎の整理術」という本が出ていたが、筆者が今やっているのは「パソコンの整理術」みたいになってきた。が、「パソコンの整理術」は必然的に情報処理の技になってくる。

これはパソコンが情報を整理することによって新たな情報を生むという性格を持っているためだ。情報は本という完結性を持っていない。これを実感したのは「FLASH MX」を復活させて使いだしてから。いや、SAIも使い方が全く変わった。SAIは絵を描くソフトなのだが筆者の場合、今は「FLASH MX」と連結させてデーター・バンクの工房となっている。ページのレイアウトを作るためにSAIを使っている。

記事の統一枠1
記事の統一枠2

世界を映像で俯瞰して観ようと思い立ち、文章無しで今まで保存していた絵や写真を「FLASH」の「.exe」ファイルに収めようと考えた。昔ならフリーズして使えなかったことが今ではパソコンの性能が上がっているのでデーター量が重くても平気だ。目安としては100頁は無理かもしれない70頁はいけそう。もちろん自分用。

こういう作業は漫画を描いていたので非常にやりやすい(笑)。最初に構想にあたる「ストーリー」を頭に浮かべて「世界の俯瞰ならアフリカだな」とする。人類の発生地だからだ。で、時代を「大航海時代」におく。移民の問題に焦点を当てるつもりだったが、移民問題もアフリカの歴史、イスラムの歴史を概観しないと出発点が中途半端になる。

そうするとアフリカに進出しだしたヨーロッパの概観も必要になってくる。ところが写真の発明はずっと後なので、視覚的なものは彫刻や絵画、建造物しかない。つまり文化史になってしまう。これは・・・やっていくとすごく面白い(笑)。考えるべき材料が次々と出てくる。

湾岸戦争などの写真を使うつもりが中東や欧米では、日本と違って絵画が写真代わりにされていたからか、凄く写実的で見ていて飽きない。本の整理をしだして、いつの間にか情報の整理を投げ出し、そして手にした本を読みふける・・・そういうことが起きる。

情報というのは「価値を生み出す」「価値を作り出す」という性格がある。

家庭でガラクタだったものをネットのオークションに出すと値段が付く・・・これは個人の嗜好がいかに多彩であるかを示すものであるが、それもオークションという場が出来て多彩さを知る。これだけで計画経済の貧困ぶりが判るというもの。「計画」の段階で需要を掴み切っていない。これは「囲い込み」でも同じだ。

ソニーや石油販売店などのカードを利用した囲い込みが盛んであるが、市場は広ければ広いほど賑わうのである。その賑わいがさらに人を呼ぶという循環を作り出す。ところが日本のメーカーは国内で囲い込みをやり、世界の囲い込みをやるという発想ができない。これでは市場が世界に広がったとき、その囲い込みが仇となってくる。

ま・・・自分で勝手に仕事を増やしたので今回はここまで。けっこう疲れている(苦笑)。

単純な論理は終わった

電動ジェット飛行機記事1
電動ジェット飛行機記事2

https://response.jp/article/2017/04/22/293839.html

飛行原理は空気銃のような、あるいは風船を膨らましてパッと指を離すと風船が飛んでいくようなものと思える。空気の圧縮で飛ばすわけだから燃料による爆発の危険性はない。エネルギー消費が回転翼期と比べて1割ということだから、ドローンの方向性は空気ジェットに向かうと思える。

実際に動画を見たが、動きは従来のドローンと同じ。機体の軽量化では日本が開発中の

繊維強化ゲル記事1

こういったものが視野に入ってきそうだ。あるいはこちらのほうになるかも。

繊維強化別記事1

こういった電気が動力となる方向性で欧州も電気自動車一色に今後は持っていくことを決めている。この方向転換で失業者が60万人は出ると予想もされているが、「方向性」を読むというのはそれだけ自分の生活と現実に関わってくる。

中国共産党とエリートの同盟7



複合的に物事を捉えていくということで、今回は3種類のメモを並べた。単純な思考方式では情報時代を乗り切れないと思う次第。   



情報と「心」

少女の髪どめ

イラン映画だと思うが映画の解説をするつもりはないので飛ばして、映画の持つ情報について。イランにもアフガニスタンの出稼ぎがある。映画では台詞の合間に短く「村が全滅して、女・子供は山に逃げた」と、アフガニスタンの状況を生活を通して教える。「少女の髪どめ」自体での物語はとことんまで地味なのだが、撮影の仕方が美しい。遠景撮影が多く、また言葉も少ないので情緒の描写を絵画的に訴えてくる。これで観終えた後の余韻が色々な思いを残す。

アフガニスタンまとめ

アフガニスタンの写真を集めていたのだが、「生活」にもう一つ届かないものを感じていたところにこの映画があった。やはり映画は心の内側の描写にすぐれている。これで他の様々な写真が結びついた。その意味で写真は「単語」、物語は「文法」になっている。

こういう視点で見ると政治家の演説や学説などは映画の中の一場面にしか過ぎないことが解る。

「情報」は人を動かせるものとしてあるが、人が動くには動機が要る。人を動かせない「情報」はたいしたことがない。映画の1シーンでの背景のその中のドラム缶くらいのものだ。情報が乏しい単純な世界ではドラム缶をクローズアップして「ドラム缶がなければ人は生きていけない!」などと主張できたが、情報が溢れると自然と全体を観ることになる。

色々な情報を見て、その全体を人はイメージし、このイメージで人は動く。

日本の評価も政治とは無関係に、最近の「YouTube」に上がった断片情報の集積で決まりつつある。こうなると自国に自信があるところは情報を断片的に、かつ大量に世界に向けて発信してくる。逆に自国に問題があるところは情報が上がれば上がるほど評価を落としていく。確かに戦後の米国は自信に溢れていたし、米国からの情報は世界の人に対して説得力があった。

情報市場は正直な世界で、情報をコントロールすれば情報の偏りが露骨になってしまって「情報をコントロールしている!」という悪いイメージに変わっていく。これはもちろんその国の信用と関わってくる。

情報が乏しいときは「外面(そとづら)」だけで何とかなったが、情報が増えてくると隠された「内面(うちづら)」に関心が集まって、つまり需要が増えて、その需要に応えようと供給が増えてくる。暴露ものの人気には正当性もあるということ。

こうなると「正直が信用を得るには一番!」、という、昔の日本社会の指針が普遍的な方向性になってくる。村社会の価値観を普遍的にしていく背景として、情報の増大は間違いなくある。人は良くも悪くも知りたがる動物なのだ。知りたがるから情報に対して大きな需要が出ている。

インターネットを考えるということは企業のツール以上のことを考えるに等しい。当然であって「情報は考えを促す」性格があるからだ。その意味で、「物から心へ」という流れはネットの拡大に伴って誰もが意識しだすと思える。人が居ない世界の描写はすぐに飽きてくるからで、それに比べて「人」には興味が尽きないところがある。持続性という意味でも「物から心」は必然になるはず。





個人が情報のプロ化する情報時代

無人兵器メモ 4

今回はネット回遊でネットにはどういうものがあるかを点検。

玩具型自爆ロボットを書いたことがあるが、実際、米軍はすでにそれをやっている。発想は論理の流れで出てくるから、どこに居ようと情報が入手できれば似たような考えになってくる。ドイツの機甲部隊も元は英国の発案。それを実際にやったのがヒトラーの決断。「決断」を誰がするかで事態は大きく変わる。

時限爆弾の作成2

テロサイトと言うべきか迷うようなサイトもあった。

時限爆弾の作成4
時限爆弾の作成

スーツケース爆弾の紹介をしている。こういうのを見ると時限爆弾も中学生レベルで作れることが解る。ま・・・爆発材料入手が一番難しい部分ではあるが。筆者が若い頃は「腹腹時計」という薄い爆弾製造本が出回っていたが、その時代と比べると今はその気になれば相当の知識が手に入る。しかも、グーグル翻訳で海外サイトも自在に覗けることが可能になった。

時限爆弾の作成3

情報は「知る」ことから「使う」ことに移行していくのが情報時代。

「使う」となれば「使い方」の詳細な説明が必要になってくる。で、「使い方」だから一般論は通用しない。実際、ペットボトルを利用してミキサーにするとか、色々なアイディアが「YouTube」に上がっている。おそらく好きな人はこれらを全部落として保存していると思う。当然、料理動画も同じ。

こういうことが産業にまで及んでくるのがこれからの時代。

ここで前向きの姿勢と、「著作権を無視しやがって・・」と怒る姿勢では打つ手が180度も変わってくる。前者は流れに乗ろうとしているが、後者は流れに逆らおうとしている。追い風と逆風では前に進む労力も時間も全く違ってくる。これが理解できていたら「流れに乗る」ことの重要性に気が付くはずだ。

実際、表現技術は今や特定の人の者ではなく、一般層にまで広がりつつあるのだ。

会話であることの説明を口でしようとする人はもう完全に時代遅れだと知るべき。会話の内容は何らかの繋がりがあるので飛躍した話にはならない。だから、ある程度はデーターを持っているべきであって、それが話題になったらUSBメモリーをポケットから出してノートパソコンに差し込めば、口で説明するより子細なことを相手に伝えることができる。

動画も今はスマホですぐに撮影できる時代なのである。「情報をどのように扱うか?」この優劣、巧拙で確実に大きな差がついて来る。これも情報が日々集積するからそうなる。

実際、筆者は7月分のフォルダーに驚くべき程のファイルが溜まってしまった。7月の下に分野別フォルダーを10以上作る羽目に陥ってしまった(苦笑)。これが12か月分だと膨大なデーター量になってくる。で、もう百貨店みたいなデーター・バンクの時代は終わったなと痛感する次第。自分が百貨店になってしまっている。

これは個人が情報のプロ化になることを意味する。汎用情報の上に自分の嗜好や指向が乗って、それぞれが独自のデーターバンクを持つことを意味する。これが情報時代に生きる人の姿だと考えねばならない。

で、あなたはどういう分野の「情報のプロですか?」と問いたい。


現実の分析をしないと話にならない

仙台市長選結果2
仙台市長選結果3
仙台市長選結果4

http://n-seikei.jp/2017/07/post-45507.html

仙台市長選の分析記事だが、「自民党支持者の40%が自民党候補に投票しなかった」部分はさらに分析が要る。この40%は無党派層寄りの40%に近い。ネットの保守系ツイートでは「仙台市民は北朝鮮ミサイルを歓迎しているのか?」みたいなものばかりだが、選挙での投票では外交と国内政策でどちらか一色になることは稀。いったん北朝鮮と米国の戦争は回避されたと仙台市民が見れば、今度は自民党の国内政治に眼が移る。この国内政治で自民党が支持を得ていれば自民党支持者も投票で動いた。

政治は政策面が強調されやすいし、論議もされやすいが、大半の一般国民が選挙場に向かう場合、もっと総合的な判断、「好き嫌い」で動く。「好き嫌いで政治を考えるなんてとんでもない!」と言っても無駄だ。「好き嫌い」で市長が決まる現実を直視しないと「対策」が出てこない。

「現実」が含んでいるものは「あらゆること」であるから、あらゆることのなかに「マスコミの報道」もあり「ネットの声」もある。その「マスコミ報道」も「ネットの声」もまた「傾向」という漠然とした色になっている。「色」は情報の断片そのものであり、この断片である情報が集積されて「絵」を作り出す。

「好き嫌い」という感情はその絵を見ての「好き嫌い」なのだ。ここから「印象操作」という情報技術が生まれている。ゲッペルス辺りから意識化された情報技術なので70年も80年も前の技術。が、未だにそれは通用している技術。広告業界の雑誌を読むとゲッペルスの広告理論がよく繰り返されているから教科書的理論と言っていい。

日本で心理操作の理論と呼べるものを書いたのが司馬遼太郎。国民的作家とされる司馬遼太郎だが、小説も観方を変えれば複合理論。複合的な論理の展開は小説が一番やりやすい。第一に「人の心理」を描き、次に「人は何に影響されるか?」で状況を描く。そして「その状況が起きている経緯は・・」と登場人物を取り巻く社会に筆を伸ばす。

司馬遼太郎に影響された人は実に多彩であるが、この「多彩さ」こそ複合理論の強さだ。政治家から格闘技のリーダー、漫画家と、ここでも多彩の中に傾向も出ている。現実と共鳴できる・・・そういう現実意識を持った人が司馬「作品」に惹き付けられていく。

ツイッター自体も最近は「写真」「動画」「記事」とツイッター運営とは関係なしに雑誌化していっている。これはそのまま「複合」メディアと呼んでいい。

ツイッターの年齢構成


https://gaiax-socialmedialab.jp/post-30833/

このグラフを観るとツイッターは若年層向け雑誌とも言える。そうすると、選挙に戻せば無党派層対策ではツイッターが一番開拓余地のある媒体ということになる。現実を知るには色々な角度から見ていくしかない。これもまた現実。


「組み合わせ」の考え

報道各社のまとめ

「まとめ」を報道各社もやりだしてきたが、これで「記事の投げ捨て」の時代は終わる。まとめ記事によって「一連の流れ」が記録として残る。これは個人のデータ保存でも整理をしやすくするわけで、「あの時はどういうことだったかな?」という疑問に対しての答えもパッと出せる。

自動車の登場でも最初は自動車を有難がったが、やがては自転車代わりに煙草ひと箱買うのにも車を使うようになった。

「まとめ」記事によって情報の効率化も進むわけだが、これで思い出したのがタイヤの独立化。タイヤ自体を動力化して多方面に使えるようにしようという発想。自動車が電動化するとタイヤにバッテリーをつけてタイヤ自体が勝手に動くことも可能になり、そうするとタイヤを購入するだけで自分で車を作ることができるようになる。

荷車などは駆動タイヤをひとつと補助タイヤの組み合わせで、山間部のあぜ道を通行できるようなミニトラックも自分で作れる。

このように「組み合わせ」の考えが主流になってくると情報の交換も頻繁になってくる。一種の発明の洪水で、思いもかけない発明と出遭うこともこの情報交換で生まれる。当然、この流れでは小さな鉄工所も復活する。コンビニもチェーン店の流れから独立型に変えて成功しているコンビニ店の実例もある。

ポイントは「創意工夫」。

既製品が自分の趣味に合わないなら自分で服を作ってしまおうとしたのが原宿ファッション。自分の趣味を誇るのであってブランドを誇るのではない。だから母親の時代の古着も活用する。費用が安くなるのなら何を使っても構わない。誇るのは自分の趣味性だ。

こういった考えは大量生産・大量消費という流れと逆の流れになるが、だからこそ今までの思考方法が通用しなくなる。「物は欲しい」という刺激から「自分で作る!」という思考の刺激に代わる。

「組み合わせ」の考えはタイヤが独立して可能になる考え。部品が部品以上の機能を備えだして可能な「組み合わせ」。が、製造においてもこの組み合わせによる新しい商品作りは人間的でもあるのだ。、人間が工場の部品でなくなり、人間の持つ色々なものを個人が考え出して組み合わせ、そして「どうだ!いいだろ、これ?」と市場に出してくる。

資金というのは流通して「生きた資金」と呼べる。社会の活性というのは資金も物も活発に動いて活性化した社会と呼ぶことができる。それが可能になるには「情報という市場」が不可欠。そしてそれが眼の前にある。

計画生産の製造主体から需要に応じた消費主体に変わり、そして消費自体も消費する個人が主導権を持つ社会に変わるのが情報社会。需給という強制力を伴った変化で実際にそうなってきた。

人工知能論者の基本的な誤りは、「市場」も「需給」も一元管理型社会を想定して論理が現実から乖離しだしている。情報市場が存在していない論理なのだ。人には感性というのがあり、その感性は「皆がそうするから私も!」でもあるし、「皆がそうするから私はしない!」も同じ感性。この「気まぐれ」を数値化できるということこそ頭が単純すぎる。コンピューターで小説は書ける。しかし、コンピューターが書いたということでその小説を忌避する・・・こういう感性も人には実際にあるのだ。

チェスで人工知能が人間を負かした・・・これを売り物にしたら誰も人工知能とのチェスをしなくなる。勝ち負けと面白さは別種の物だということに気が付いていない。「完全な美はありえない」のと同じだ。人には厳然としてそれぞれの「好み」が」確かにあるのだ。日本人では綺麗な形の焼き物を故意に歪ませて「織部焼」とした。

千利休の弟子であった大名茶人、古田織部の指導で創始され、織部好みの奇抜で斬新な形や文様の茶器などを多く産した。


これなどは完全に後解釈。しかし人の嗜好にはこういうことが普通にある。人は単純であると同時に複雑・・・人の流れを読むのは簡単ではない。


情報時代の中心は断片情報

技術の解説動画

YouTubeでは「何でこんなものに、こんな視聴回数が出るのだ?!」と人気が集まることも珍しくない。樹脂製アーチェリーの製作を若い女の子がやっているに過ぎない、という「過ぎない」ところに興味が集まっている。

これは情報を断片として捉える時代では、「断片として見せる」から視聴回数がうなぎ上りになる。これがドラマのような完結作品だと無惨な視聴回数になるはずだ。何が求められているかを素直に受け止める必要がある。同時に「断片情報」は誰にでも作ることができる。

上の画像では、筆者なら動画の部分をクリックすると動画が始まるという見せ方くらいはできる。動くものと静止画の組み合わせ。この組み合わせだと手順を覚えようとする側にとっては理解しやすい。あくまで「視聴する側」に立っての情報の作り方。

こういうことがFLASHでは簡単にできるから、10年前にくらいには当たり前に世間がデジタル情報一色になっていると筆者は思っていた。しかし、実際にはそうはなっていない。何故そうならないのか?

作り方が間違っていたためだ。

情報が大量に流通しだすと情報過疎とは違うことが起きる。昔、テレビが家庭に入ると家の中に映画館が出来たという驚きがあった。こうなるとテレビの中身はどうでもよくて、ただただ動いて、声が出て、歌が流れるだけで人々はテレビの前に釘付けになった。それを映画関係者はバカにしたが、バカにした方が負けていく。

これもテレビの捉え方を映画関係者は間違って捉えたため。視聴者は「作品」を「茶の間」では求めていなかったのである。作品の視聴は個人的な趣味性が強いので家族と一緒には観られるものではない。それを映画関係者は理解できなかった。何故理解できなかったのか?動画が映画館でしか観られない状況が続いていたためだ。

こういうことはパソコンでも起きている。コンピューターが企業や軍、政府で使われる道具として捉えられていると個人にコンピューターが普及するという発想が出てこない。コンピューターはより高度に技術革新を追及しているから個人には縁のないものとして捉えてしまう。

ここで欠けているのは「応用」という発想。この応用の発想で欠如しているのが「専門バカ」。自分が「追い求めている方向以外にも違う方向がある・・・これが頭に浮かばない。専門性は頭をガチガチにする性格があると心得るべき。

情報時代において「断片」という考え方が欠如していれば致命的に時代から取り残されていく。家電でもメーカーが追及するのは総合性であり、一体型。しかし生活が多様になってくると、押し着せの型では消費者の選択肢が限定されたものになって満足しなくなってくる。これで戦争になったのが松下電器とダイエーの戦い。

流通が覇権を握るか、製造が覇権を握るかの戦いであったが、決着がついたのは「選択肢の多様」を広げるダイエーの勝ち。これによってメーカー側は「標準価格」という価格変動を前提とした値段をつけるようになった。この流れが現在も続いている。

自分都合は市場では相手にされないのである。生き残ろうと思えば市場に合わせるしかない。その市場を現在作っているのがネット。ネットは超巨大な情報市場だ。その市場に参入するには否応なく情報発信技術や情報発信知識を持たねばならない。

これは前提である。この前提で学習したり、新しい技術や考え方を生み出していく。情報時代の捉え方はこれでしかない。そこから情報の「断片」という認識が必要になってくる。今までの情報過疎の時代とは違うのだ。



知識を作り、知識を発信する

2枠記事実験
2枠記事実験2

FLASHの守備範囲は相当に広いが、基本は「自分でソフトを作る」編集ソフト。FLASHの勉強本もFLASHで作ればいいのにと思う。筆者もちゃんと動作をするかの確認でスカイプ仲間に「.ex」ファイルを送って動作の確認をとっている。

YouTubeなどの動画はじっくりと読むには停止ボタンを押す必要があって面倒。「.ex」ファイルだと、コピーによる著作権侵害を心配して普及に足止めをする状態になるが、これはけっこう難しい問題で、難しい問題となるのは「使い勝手」に関わってくるため。

情報というのはコピーして価値が出てくる。音楽もコピー防止に熱心になると、その音楽が広がらなくなり、広がらなくなると音楽を聴くという習慣も薄れてしまう。本屋で立ち読み防止に熱心だと本屋に足を運ばなくなり、やがては読書の習慣もなくなっていく。

事業には儲かった時期を基準にすると自分の首を絞める結果を招きやすい。個人でも企業でも国家でも状況に適応できるところだけが生き残る。適応できなくなったものを淘汰する「自然淘汰」は間違いなくある。だから「現在の状況認識」が大事になってくる。「悪い」とか「善い」とかの問題ではない。状況次第で善いも悪いも吹っ飛んでしまうのが現実の動きなのだ。「地震や台風が悪い」と言っても仕方がないのと同じ。

「暴力が起きる理由」を探るために世界の映像を整理していっているのだが、実際に世界の映像を集めていくと日本の特殊性が鮮明になってくる。日本も暴力が日常的にあった時代を経験している。これが平和が続くと暴力が劇的に消えていく。暴力を黒い球として平和を白い球とする。平和の白い球が増えると暴力の黒い球は白い球が増えた分だけ目立つようになる。

この「目立つ」という現象は生物界でも「生存」と関わってある。無駄に攻撃されないために赤と黄色の目立った組み合わせの体色を持つ昆虫などは毒を持っているのが多い。「食ったら死ぬぞ!」という経験を長い時間をかけて周囲に教え、やがて敵となる生物に対して認知させていく。

これも「情報」であるから人間の場合は命を賭けてまでの認知は不要になる。が、それも情報の発信があってのことだ。

情報は「情報を作る」と「作った情報を広める」というのがセットになっている。教育などはこの典型。「学ぶ」ことは新たな情報を作り出す前段階であって、新たな情報を作り出さない場合は社会的に存在しないのと同じになる。仕事をやることは微妙に新たな知識を生んでいることに等しい。仕事場が何から何まで全部が同じ、ということはありえないからだ。

しかし情報の流通が個人に用意されていないときは「個人の持つ情報」が死蔵されたままその人が亡くなると消滅した。これが情報の保存というカメラなどの機器が出てきて情報は当人の生命と切り離されていく。これをさらに徹底しだしたのがコンピューター。

コピーはコピーした情報の上にさらに新たな情報を重ねるピラミッドの石みたいなものだ。その情報の重なりで社会は新たな次元を作り出していく。人類は模倣と模倣の改良などによる集積で現在の世界文明を築き上げている。

だから新たな情報や知識を拒絶する宗教の存在は、その社会を世界の流れから取り残されるように動いてしまう。共産主義のような言論統制も同じ。映像を集めていってそのことを視覚的に確認する思いになった。「百聞は一見に如かず」とよく言ったものだ。「まずは観なさい。そして考えなさい!」で済む話だと思う。映像で語らせた方が解りやすいし、説得力もある。

だから「映像で語る」ためにも表現技術や知識が必要になる。情報時代では、この優劣は大きな意味を持ってくるのではないかと思う。


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